15.
(落ち着きなさい、徐妃。あの口紅は処分したじゃない。
すり替えたのも1日だけ。
『鄭妃と同じものを用立てた』
といっても、それはただの口紅よ)
徐妃は目立たないよう、鼻からゆっくり深呼吸をする。
が、視線はどうしてもタジの唇へ。
(いや、でも、あの色は。なんならちょっと違うけど)
そう、先ほど
『見知った色合いの口紅』
と評したが。
厳密には
『犯行に使用した口紅』
と同じではない。
あれはあくまでバレないように、
『鄭妃が普段使っているもの』
と同じ色合いでなければならなかった。
では徐妃が見て、今実際にタジの唇に載っているのは。
『試作段階の、麻黄の粉を入れすぎて色味が変わった失敗作』
である。
より確実に麻黄の併用禁を起こさせるため、過剰に盛ったタイプの。
(そんな!? アレをどこで!?)
徐妃の脳は混乱する一方、不思議な納得感もあった。
今飲んでいる酒。
先ほど徐妃自身も大袈裟に驚いてみせたが。
やはり味や匂いを聞いただけで、ピンポイントに麻黄湯を導けるものだろうか?
これがもし、別の要因から
麻黄湯を関連付けられる何かをつかんでの答えだったとしたら。
「あれ? 別に詳しかないんだけどさ。鄭妃の口紅ってそんなだった?」
知ってか知らずか、郭妃が徐妃の疑問をタジにぶつける。
「えぇ、そうなんですよ。
普段使ってらっしゃるのとは違って」
「!」
徐妃の心臓が肩ごと跳ねる。
幸いにしてタジは彼女の方を一切見ていない。
気付かれてはいないだろう。
だがこれでハッキリした。
タジは見抜いたのだ。
どこかで見つけたのだ。
処分したはずの口紅を。
存在しないはずの口紅を。
(どこで、どうやって?)
「最近鄭妃さまが、全然笛子をお吹きにならないので。
触ればその気が起きてくるかな、と思ってこのまえ
『あなたの笛子を見せてください』
って頼んだんですよ。
そしたら、前回演奏中に倒れたから拭いてなかったんでしょうね。
唄口のところに口紅が着いていまして」
徐妃は震えた。
『見落としていた』
というショック。
『そんなところまで探し出したのか』
という執念深さ。
何より、
(違う。だとしても、唄口に残る口紅は、
『色合いを完璧に再現した完成品』
よ)
「でもこのまえ会ったとき、別に口紅変えてなかったわよ?」
「えぇ、1日だけ変えてやめたみたいですね。
そもそもほぼ同じでしたし。
この右目でようやく分かるくらいに、違う色の粉が混ぜてあったんですね」
(違う。本当に見分けられたとしても。
時間が経って、混ぜた麻黄が変色したのだとしても。
今あなたが着けている色じゃない。
ということは……、
分かっていて麻黄の量を増やしている!)
その意味。
徐妃が恐怖しているうちに、
「では、いただきますか」
「あ」
タジが盃に口を付け、酒を飲む。
「わ、あ」
「どうかしました?」
「いや」
郭妃が怪訝な目で見てくるが、徐妃はタジから目が離せない。
演奏会で用意したものより麻黄が濃い酒に、
演奏会で使わせたものより麻黄の濃い口紅が付く。
口紅から麻黄が、さらに酒の中へ溶け出す……
「ふう」
危険性を知らないとしても、味や匂いは絶対おかしいはずなのに。
タジはなんでもなさそうに飲み、盃から口を離す。
大きい盃だけに、中にはまだまだ酒が残っている。
おそらく危険水域の麻黄が溶け込んだ液体が。
それを、
「どうぞ」
「えっ」
タジが徐妃へ差し出してくる。
「え、とは」
「いや、その」
「そういう席ですよ」
「そうなんだけど」
「飲まないんですか?」
「っ」
(飲めるわけないでしょう!)
死にはしないと思われる。
しかし、
脳裏に蘇る、演奏会での鄭妃の、地獄の苦しみ。
「さぁ」
押し付けられるようにして盃を受け取る徐妃。
アルハラの概念はない。
場は無礼講。
「飲まないんですか?」
「あ、その」
「飲み回してるから少なくなってるのよ。ほら」
そこに郭妃が酒を足してくる。
高濃度の麻黄入りの酒を。
「ひっ」
「どうぞ、ぐいっと!」
「それ、は」
「飲まないんですか?」
タジが壊れたロボットのように繰り返す。
彼女だけでなく、郭妃まで真顔で見つめてくる。
真正面から見た、能楽の女面のような。
「仲直りが目的の会だから、まだ昼間だから。
そんな、たくさん、飲まなく、ても、って」
「はあ」
タジがすんとした表情で徐妃を見つめる一方、
「あー、じゃあ、私が飲もうかな」
「えっ」
郭妃が徐妃の持っている盃へ手を伸ばす。
「飲まないんだったら、いいでしょう?」
そのまま半ば強引に取り上げると、
もはや猛毒とも言える液体を口元へ……
「ダメっ!!」
場がしんと静まりかえる。
徐妃はハッとしたが、もう間に合わない。
数秒か、1分ほどか。
どちらにせよ短い時間。
しかし彼女には永遠にも感じられる痛い沈黙のあと、
「なぜですか?」
タジが静かに切り出す。
「なぜ、飲まないんですか?」
「麻黄が、あまり飲みすぎると」
「なぜ、まだ口にしていない郭妃さまが飲むのまで止めたんですか?」
「だから、麻黄が」
「お酒には危険な量は入っていないと申し上げました。
あなたも飲んだではありませんか」
「それは」
「なぜ急に、飲んでは危険な酒に変化するんですか?」
「それはっ」
「なぜ、この口紅に麻黄が含まれていることを知っているんですか?」
徐妃は答えなかった。
代わりにただ俯き、
その動きは、全てを認めた首肯と同じであった。
タジは椅子の背もたれと右の肘掛けに体重を預ける。
「それは徐妃さま。あなたが鄭妃さまに麻黄入りの口紅を仕込んだからだ」
彼女は懐紙を取り出し、口紅を拭う。
後娼として慣れないのか、単に趣味でないのか。やはり着けたい色ではないらしい。
「演奏会の前日と、当日に鄭妃さまが倒れたあと。
あなたが彼女の部屋を訪れたのは判明しています。
そのときであれば、『口紅をすり替える』『回収する』ことは可能です。
口紅であれば当日放っておいても、鄭妃さまが自主的に使います。
そして先ほどの私のように、勝手に飲み物に溶け込んで飲むことになる。
酷かった咳が演奏会までに治っていたのは、それで適量を接種したからでしょう。
もし鄭妃さまが『今日は出掛けないし来客はない』と当て込んで化粧をしなくても。
演奏会には確実に着けてくる。
うまくすれば、日に何度かお色直しをして摂取量を増やしてくれる。
こうすることであなたは、お酒には危険な量の麻黄を入れずに。
鄭妃さま以外の人には被害を出さずに。
鄭妃さま個人を狙ったとは思わせずに。
演奏会の場で過剰摂取を起こさせたのです。
あぁ、ちなみにこの口紅は普通のものです。
麻黄を多めに混ぜたものを試作して、色合いが似たのを用立てただけ。
麻黄はひとっかけらも入ってはいません
私の体調ならご心配なく」
長い推理が終わったあと。
徐妃がようやく絞り出した声は、
「そうね」
掠れた3文字だけだった。
「しかしこれはあくまで手段に過ぎない。
あなたの目的はその先、これを
『鄭妃の腕前が悪かったために、師匠の霊から祟りを受けた』
という話にし、彼女の笛子奏者としての名声を害すること。
自信を失くし、思い詰めた鄭妃さまに笛子を置くよう仕向けることだった」
しかしタジにはもう少し語ることがあるようだ。
「そのために、
『誰かに妬まれ、毒を混ぜられたのでは?』
と鄭妃さまが考える線は消しておきたかったんでしょうが。
見舞いに来て、聞かれてもいないのに
『毒は入っていなかった』
などと言い出すのは。
『だから後遺症は残らない。安心していい』
なんて、『気にしていそうだから報告してあげる』感を付け足していましたが。
さすがに唐突すぎます。
『そこに何か争点がある』
というのはバレバレです」
きっとそれは、必要な説明ではなく、
友を傷付けた徐妃に対する、怒りの追い討ちなのだろう。
死体撃ちまでされて完全ノックアウトの徐妃は、意識が違う方へ向いているようだ。
「私は、どうなるのかしらね」
郭妃もチラリとタジを見る。
殺人は起きていないし、そもそも公的には事件すら認識されていないのだ。
タジは鼻から息を抜く。
「もちろん陛下にはご報告申し上げますから……。
えぇ、死罪にはならないでしょうが、後宮は追い出されるかと」
「そう」
徐妃は力なく頷くと、
懐から細長い袋を取り出す。
中から出てきたのは、笛子。
「だったら、最後にもう一度だけ。
中庭で吹いてきてもいいかしら。
私のお気に入りの場所なの。
あなたもいつかの朝、見たでしょう?
ねぇ、いいでしょう?」
徐妃の懇願する目と、郭妃の『どうする?』という目がタジに注がれる。
タジは椅子の肘掛けを数回人差し指で叩くと、
「ふーん」
鼻からため息をつき、
「まぁいいでしょう」
幾分侮蔑や嘲笑を含む声で答えた。
「人々があなたの音色をまともに聞いてくれる、最後の1回でもありますから」
──死人なら口なし 完──
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