13.
昼過ぎ。
徐妃は機嫌がよかった。
昨日は1日タジが現れず、平和に過ごせたからである。
そして今朝も姿を見ることはなかった。
ここ数日地獄だった徐妃にも、ついに雲の切れ間が見え始めたのだ。
「まぁ、当然と言えば当然よ。あそこまで言ってやったんだし」
『証拠を持ってこい』
と。
タジはその言葉に引き退がった。
おそらく素直に探しに行ったのであろう。
それはつまり、そのとき証拠を握ってはおらず、
現れないということは、見つけられていないわけである。
それは当然なのだ。
麻黄を盛った酒も口紅も、とっくに処分されているのだから。
存在しないものは見つからない。
他もしかり。
せめて死体があれば、他殺とはっきりしていれば。
それを根拠にずっと捜査することもあるだろう。
が、それもないのだ。
そもそも事件かすら分からない。
いや、皇帝からの
『事件があったので捜査員が来たら協力するように』
というお達し。
それがなかった時点で、公的には
『鄭妃が飲みすぎたか祟られた、不運な事故』
ということになっているのだ。
「向こうも命令じゃないんだし。これ以上恥をかくまえに諦めたのかしら」
言霊信仰だろうか。
今後も来ないようにとの願いを込めて。
徐妃がわざわざ声に出していると、
『徐妃さま』
「おっと」
今度は寝室ではなく居間にいるので玄関の外。
侍女である英の声がする。
何か聞かれていないか。
余計なことを言っていなかったか。
一瞬ドキリとした徐妃だが、
(身内だし? 最悪黙っていてくれるでしょう)
今日の彼女は機嫌がいい。
気にしないことにした。
「何かしら」
『郭妃さまより一献お誘いが来ておりますが、いかがいたしましょう』
「昼から?」
『でございます』
先日は部屋に籠ってお茶会の誘いも断っていた徐妃である。
侍女の声は
『一応耳には入れますけど』
という引き気味な響きがある。
その日にタジと会って、結局機嫌が悪くなったことも気にしているのだろう。
「そうねぇ」
徐妃としても考えどころである。
郭妃自体と仲は悪くない。
交友関係が広い中に徐妃も組み込まれている。
が、彼女は宮廷画家德加の事件で、タジに協力したと聞く。
現状は敵サイドとも言える相手なのだ。
考えた末、徐妃の答えは
「『行く』と返事しておいて」
(もし面倒なことになったら、すぐ帰ってくればいいわ)
やはり気分が明るくなっているようだ。
一献ということで、手土産に干し肉を用意して。
徐妃は意気揚々と郭妃の部屋を訪れた。
玄関のところで侍女に出迎えられて、
「お呼ばれに参上したわ」
「ようこそいらっしゃいました。お入りください」
居間へと通してもらうと、
「!!」
徐妃の足が、入ってすぐのところで止まる。
何せ、
「いらっしゃーい」
すでに椅子に座ってテーブルに着いている郭妃の他に、
「徐妃さま、ごきげんよう」
椅子から立ち上がって、
帽子がズレないよう抑えて頭を下げる。
「……タジ!」
あの北方女がいるのだから。
この顔を見なかったから機嫌がよかったという、全ての元凶が。
「郭妃。聞いていないのだけれど」
徐妃が1歩も進まず、腕組みで仁王立ちしていると、
「いやぁ、すいません。
言ったら来ないかと思いまして」
郭妃は笑って頭を掻く。
「そう思うということは。
私とその女がどういう状態にあるか、ご存知なのよね?」
「はい」
郭妃はタジをチラリと見る。
「でもこの子もね、鄭妃のことを思って張り切っただけなんです。
なんで、今日この場で一献交わして、水ならぬ酒に流してくれないかな、と」
徐妃はまだ渋面を崩さない。
「なぜあなたが、私が、そんなことをしなければいけないの?」
が、
「自分の件が原因で喧嘩になっていると知ったら、鄭妃が悲しむじゃないですか」
こう言われると彼女も考える。
鄭妃に関しては
『さすがにやりすぎた』
と反省しているところだったのだ。これ以上苦しめるのも本意ではない。
それに、悪い話ではない。
向こうが
『水に流してくれ』
と言っているのだ。
ここで我慢してタジと乾杯すれば、もう追及されることもなくなる。
タジを我慢したり、影に怯えて部屋に籠る必要もなくなるのだ。
さっきまでのように
『明日もこの調子が続けばいいな』
と願う日々ではなく、解放が決定付けられる。
悪くないどころか、望んだ展開ですらある。
「いいでしょう。
いいけど、あまり騙し討ちみたいなことをされるとね。
あなたとの付き合いも考えなければならなくてよ」
「重ねてすいません」
「まぁそれも水に流してあげましょう」
どうせなら釘を刺しつつ度量も見せておく。
さすれば二度と歯向かう気にはならないだろう。
というのが徐妃の読みである。
「ありがとうございます。ではお座りください」
タジが椅子を引いてくれたので、徐妃もようやく座ることにする。
身分からして当然の動きとは言え、
(勝った)
優越感がある。
あとは乾杯まえにでも、改めて謝罪させて幕引きである。
徐妃が席に着き、タジが戻り、テーブルを囲んで正三角形に。
「じゃあ早速始めましょうか!」
「手土産もあるわよ」
「これはありがたい」
「では、徐妃さま」
「えぇ」
準備も整ったところで、タジが徐妃に酌をする。
杯ではなく盃。
カップ型ではなく、日本の時代劇で見るような薄くて幅広の容器。
特大サイズがひとつだけ。
『同じ鍋をつつく』みたいなノリで、回し飲みをするようだ。
そこに注がれた液体を見て、
「あら?」
「どうかなされましたか?」
違和感。それも
『見知った違和感』
という矛盾した感覚。
酒の中に何かが浮いている。
『何か』ではない。
これがなんなのかを徐妃は知っている。
瞬間、彼女の脳天から汗が噴き出す。
酒を溢さないためか、動揺を悟られないためか。
徐妃は盃を持つ手が震えるのを必死に抑える。
「これ、は?」
声の震えは抑えきれなかった。
それに気付いているのか、いないのか。
この女の笑顔には両方があり得る。
タジはにっこり笑って答える。
「せっかくですので趣向を凝らしました。
いろんな方に話を聞いて、
演奏会で出たお酒を再現したんです」




