3.
暗闇、夜の少しひんやりした空気の中を漂う東洋系の笛の音。
これにはなんとも言えぬ幽玄の美がある。
よく漫画、特に少女漫画などでエフェクトや背景に
『五線譜が流れてくる』
みたいな演出があったりするものだが。
あんな感じで、空気に音で色が付き、目にまで見えるような感覚がある。
もちろん音楽は音の美しさ、演奏のクオリティが重要だろう。
だが、周囲の環境や演出でさらに膨らませることができる。
マリアージュとでも言うべきか。
ということで呉大人追悼の演奏会も、昼の長い陽が落ちるまで待ってから開催された。
このごろはコオロギだけでなく、スズムシやアオマツムシの音色も混ざる。
「美しいわね」
「癒されるわ」
「夏の夜も、これなら涼しい」
「虫たちも同じ音楽家として、先生の追悼に駆け付けているのね」
「昨日も一昨日もずっといたじゃない」
「やぁねぇ。風情というものがないのかしら」
「オホホホホ」
「では風情を邪魔しないためにも、もう私たち演奏しなくていいんじゃないかしら」
「やだぁ」
「サイテー!」
「お酒飲みに来ただけじゃない」
「うふふ」
「ほほほ」
集まった妃嬪は20人余り。
みな楽しげである。
百ヶ日ともなれば、落ち込むより明るく偲ぶ方がいいのであろう。
だがこのままでは、本当に雑談と虫の音鑑賞会で終わってしまう。
せめて呉大人の思い出話ならいいが。
このノリでは酔うにつれ、ただの女子会となりかねない。
「はいはい、一旦静かにしてもらえる!?」
というわけで、ここは手を叩きながら。
主催者たる徐妃が立ち上がり、音頭をとる。
「いい時間になってきたから、そろそろ始めるわよ」
その言葉と同時に運ばれてきたのは、
「あら」
「ひとつだけ?」
「しかも小さいわね?」
酒瓶たちと1杯の杯。
この人数に対して、大先生の追悼に対して。
なかなか景気が悪い感じはする。
が、
「これより、今回の酒宴の掟を説明するわ。
今からひとりずつ順番に、好きな曲を演奏してもらいます。
見事吹き切ったなら褒美の酒を1杯!」
「あらあら」
「よろしいわね」
「ただし演奏中に失敗があったら、その回数分罰杯よ!」
「まぁ!」
「これは大変なことだわ!」
中身がビールや薄めのハイボール、馬乳酒ならいいが。
例えば紹興酒なら、度数は15パーセントを越してくる場合が多い。
いかに小さい杯とは言え、擦り切れピッタリ注ぐこともないとは言え。
「これをお酒が尽きるか朝が来るまで、何周でも繰り返すわ!
もちろん死人を出すわけにもいかないし、苦しくなったらいつでも中座してちょうだい。
ただし!
一度挑戦して罰杯となったからには、それは飲み干していただくわよ!」
「えぇ、ちょっと待って?」
「それって、酔えば酔うだけ厳しくならない?」
「もし『まだ飲める』って思って失敗が重なったらよ?
いきなり許容量越えるかもしれないわけでしょう?」
「同じ杯数でも、一気に飲まされるのじゃ違うわよ?」
「これは、大変なことになったわね……」
この酒宴がいかなる地獄か、推して知るべしだろう。
妃嬪たちが戦々恐々となったところを、除妃はむしろ満足そうに眺めると、
「失敗は私が数えるわ。厳しく行くから覚悟しなさい!」
左手を腰に当て、右手でひとりを指差す。
「というわけで!
鄭妃! 先陣はあなたが切りなさい!」
「はい」
鄭妃はうやうやしく頭を下げると、膝に置いていた笛子を手に取る。
「それでは不肖鄭妃、1曲目をつかまつります」
「曲は?」
「ここは先生がお作りになられたなかで、最初に手解きをいただく
『翁霊在楼上』
を」
「「「「「おおー」」」」」
『いい選曲だ』
というような声が上がる一方で。
「初手とはいえ、簡単な曲取られちゃったじゃない」
「鄭妃には難しい曲をいってほしかったところなのに」
「でもいきなり場の要求値を上げられても困るわ」
「そうね。『若僧居独於山中』なんか吹かれた日には、あとから簡単なの吹けないわ」
すでに罰杯を警戒した、競技者めいた目線でのリアクションをする者もいる。
そうして満座がザワザワするのだが、
ヒィ……ルリ……ヒィ……オォ…………
妙なる横笛の調べが始まるや否や、誰もがはたと口を閉じる。
『邪魔をしてはならない』と敬意を抱いているような
ひたすら聞き入るのに集中したいと魅了されているような
耳から入った音色が、口から漏れるのすらもったいないと感じているような
もはや宗教じみて、異様な光景。
宗教と言うなら、ちょうど天国で流れる音楽はこんな感じなのだろう。
芯のある音が、その姿を消え入りそうなほど微かにだけ現し、繊細に人を撫でる。
やがて残響すら夜風に溶けて消え去ると、
「素晴らしいわ!」
「泣けてきちゃった」
「先生の生き写しのような音色だわ」
「こんな弟子を持てて、さぞやお幸せだったでしょうね」
妃嬪たちは口々に賞賛の声をあげる。
対して鄭妃は、神業を披露したとは思えないほど、幼いくらいの素直さで。
照れて小さくなりながら、何度も頭を下げている。
徐妃が奥歯を噛み締めているのに、一切気付かないで。
彼女は賞賛の言葉を切るように手を叩く。
「鄭妃。今の演奏は完璧だったわ。
ということでまずは一献、褒賞の杯を」
しかしそれすらも、相手を賞賛する言葉に他ならない。
「ありがたく頂戴いたします」
「最初の演奏、最初の1杯よ。景気付けに、相応しくいきなさい」
できるのはせいぜいアルハラくらい。
なお鄭妃は無類の酒好きゆえに、まったく通用しないのだが。
であれば。
「次! 費妃!」
「私ですか!?」
「いきなさい!」
粛々と計画を進めるのみである。




