2.
やってしまった。
カッとなって、我を忘れて。
気付けばこの世で最も取り返しがつかないことを引き起こした。
「あ、わ」
その事実に慌てる一方で、
(どうしよう、どうにかして誤魔化さなくちゃ)
江貴妃の中には、冷静に打算を巡らせる自分もいる。
まず彼女が考えたのは、殺害の隠蔽であった。
事件がなかったことになれば、自身が罪に問われることもない。
しかし、現に死体がそこにあるのだ。
そんな都合よく室内に焼却炉じみたものはないし、
どのみち、人ひとり消えた事実までは隠せない。
となると。
シュリシュリと、硬いもの同士を擦る音が微かに響く。
江貴妃は飛貴妃の文机に向かい、硯で墨を擦っている。
別に書道的な精神統一をして乗り切ろうとかいうのではない。
「雀には確か、弟がいたわね」
それもちょうど年頃で、宮中勤めをしている。
「利用させてもらいましょう」
江貴妃は筆を走らせる。
そこそこの時間を掛けて書き上げた内容は、
「よし」
手紙である。
要約すると、
『陛下へ。
私は陛下の寵を受けていながら愛を裏切り、
よりにもよって、実の弟と通じていました。
陛下に申し上げましたお腹の子も、実は弟との子どもであります。
このようなことをして、なんと償うこともできません。
せめてひっそり、一死をもってお詫びとさせていただきます』
といったところだろうか。
そう、手紙は手紙でも、
『遺書』
である。
「ふん。自慢するのが悪いのよ」
飛貴妃も決して、そんなつもりではなかったのだが。
想いが江貴妃に届くことは、もうない。
次に江貴妃は
「う、く、重い……!」
飛貴妃の死体を引きずり、外の回廊へ出る。
人払いのおかげか、幸いにして誰もいない。
江貴妃は一度欄干に手をつき、下を見下ろす。
楼閣の3階である。高さはじゅうぶん。
彼女は帔帛で輪を作ると、そこに飛貴妃の首を通す。
それから逆側を欄干に結ぶと、
「ん、えい!」
死体を外へ向かって放り出す。
これで明日の朝、飛貴妃が見つかった際には
『首吊り自殺』
にしか見えないはずである。
『殺人をなかったことに』
できないのであれば、
『殺人でなかったことに』
するしかない。
死体を持ち上げ、自身の腰より高い欄干を乗り越えさせる。
女性の身には重労働であったが、火事場の馬鹿力でなんとか成し遂げた。
そこまでするだけの価値もあっただろう。
江貴妃はもう一度欄干に手をつき、下を覗く。
「よし」
飛貴妃はどこにも引っ掛かっておらず、見事に首吊りの姿勢となっている。
翌朝。
飛貴妃は
『住まいである祥鳳閣より身投げして死んでいる』
ところを、出仕してきた侍女に発見された。
女性が震える手で吊るしたのだ。
ひと晩経つうちに解けて落下したのだろう。
だが多くの人にとって、
『首吊りだったか飛び降りだったか』
『結んだのは誰だったのか』
など、どうでもいい。
そもそも気にするきっかけがない。
事件は飛貴妃の遺書が見つかったことにより、
『自殺である』
とだけが確定された。
だが、それだけで一件落着、事件は過去のものとして流れていく
とはならなかった。
「ふあぁふ」
遺体が発見されてから、まだ午後にもなっていない時間帯。
後宮が大騒ぎになっているとも知らず、晴れ空に向かってアクビをひとつ。
王宮である大京城は、雲龍殿の前庭にて。
鎧に身を固め、腰に剣を佩いた若い男は、名を
「おう、飛」
「おう」
飛燕という。
王城鎮護に勤しむ、誇り高き衛尉寺の武官である。
要は警察と警備員のハイブリッドみたいな部署と思えば間違いない。
「どうした白。夜勤明けだろ。まだウロウロしてんのか」
「この時間帯が一番昂るのよ」
「何がだよ。さっさと寝ろ」
警備員といえど、平時はやはり気が抜けるもの。
同僚と世間話をしていると、
「ん?」
異常事態、とまでは言わないが。
それでも常にはない『変』が彼の前を横切る。
「なんだありゃ」
雲龍殿は文武百官が出仕する、いわゆる詰め所となっている場所。
なのでその前庭ともなれば、往来するのは常に
『高級そうな礼服を着た渋面のオッサン』
とか
『上等そうな鎧を装備したガタイのいいオッサン』
ばかりなのだが。
ただ今、北西へ抜けて行こうとする人物は、
「そこのオマエ! 止まれ! 何者だ!」
「はぁ」
漢服とは違った構造、幾何学模様っぽい柄の不思議な服。
礼服の冠と別物の帽子は、脳天からアンテナみたいなものが生えている。
宮中では珍奇な格好に身を包んだ小男
「私か?」
「お」
ではない。
女だ。
むしろ性別にしては背が高い方の。
『不審者=危険人物=男』
と無意識に決め込んでいた飛燕は面食らう。
「何か用か、武官さん」
顔だけ向けて、ぶっきらぼうに答える女。
声も低いが確かに女性のそれであるし、
体が向いている方角には後宮がある。
「あ、いや、もしかして女官であられるか」
「端くれではある」
であれば、不審者扱いで呼び止めた彼の方が礼を欠いている。
「いや、申し訳ない。お通りください」
「や、お勤めご苦労さま」
だが相手に咎める気はないらしい。
そのまま先を急ごうとして、
「……」
今度はあちらが、飛燕の顔をじっと見ている。
「なんだなんだ」
「オマエあれだよ。顔覚えられてんだよ。あとで誰ぞ貴妃さまに
『こぉんな顔の衛尉官に無礼を受けた』
なんてチクるのよ」
「勘弁してくれ」
白のジョークも、実際どこまでジョークで済むか分からない。
飛燕がそれとなく腕を上げて顔を隠すと、
「げっ!」
「ヤベェぞ!」
なんと、女の方から近付いてくる。
「そんなに怒らんでも!」
「いやオマエ、惚れられたんかもしれんぞ? よっ、色男!」
「言っとる場合か!」
だが明からさまに逃げるわけにもいかない。
ガタガタ騒いでいるあいだに、女は目と鼻の先まで寄ってきて、
「アイヤー! やっぱり色男!」
「オマエはちょっと黙ってろ!」
思い切り飛燕の顔を覗き込んでくる。
無言で。
「お、お助けぇ」
彼もまた、初めて至近距離で相手の顔を見る。
中性的でサッパリした顔立ちだが、『どちらだ』と聞かれたら
『女』
と確信を持って答えられる。
得てしてそういう顔立ちは
(美人だ。例えるなら、凍るような感じの)
飛燕も年頃の男子として、相応にドギマギするのだが、
(ん?
なんか、なんだ?)
何が崩れているわけでもない。
ただ、顔立ちに
(何か、『違和感』が)
しかし、飛燕がそれを言語化するより先に、
「いや、失礼。片方の視力が悪くてね」
女の方が顔を離してしまう。
「それは構いませんが(構うが)、私の顔に何か?」
急に終わられても、それはそれで心臓のドキドキが治まらない。
せめて疑問の方は解決しようと飛燕が問うと、
「ふむ」
女はアゴに手を当て、考える仕草を見せる。
『どう伝えるか』
を整理しているような。
だが女は答えるより先に、一度後宮の方角を見た。
割と先を急いでいるのかもしれない。
そのせいかは分からないが、
「近いうちトラブルに見舞われるから気を付けて……気を付けるべくもないか」
「……は?」
余計に謎が増える、雑な忠告。
飛燕と白が呆気に取られているうちに、
女は後宮の方へ歩いていってしまった。




