2.
翌日、そろそろ夕方が近付いてくるころ。
德加は龍驤殿の2階、夏妃の部屋へと向かった。
「お待たせしました」
「用事はもう片付いたのかしら?」
「はい。まだこのあとも少しあるんですけど」
「そう」
夏妃はいつものように、すでに一糸纏わぬ姿でベッドに寝そべっていた。
昨日と同じ、横臥で高く盛った枕にもたれる体勢。
準備万端である。
何についてかは、あえて考えないことにする。
そもそも德加にとって、体勢はもう割とどうでもよかった。
夏妃自身は大体描き終わっており、あとは背景の仕上げがメインなのだ。
せいぜい
『同じ体勢でいてくれないと、後ろの窓がどこまで見えているか分からない』
くらいの確認でしかない。
なのだが。
「あ、模様替えしましたか」
「えぇ」
タンスや化粧台、一人用のテーブルと椅子。骨董品。
何枚かの絵。
いろいろ配置が変わっている。
「月初めでしょう?」
これが夏妃のライフスタイル。
風水か陰陽道か知らないが、彼女は
『ひとところに留まっているものは邪気を溜め込む』
という価値観を持っており、ひと月ごとに家財を動かすのだ。
『流れていない水、床ずれ、家から出ない人。みんな腐っていくでしょう?』
だとか。
それが正しいかどうかは別にして。
「あら、お気に召さなかったかしら」
「いえいえ、絵に描く範囲は動いていませんから」
今回のように、1枚の絵が仕上がるまえに月が変わった場合。
描いている最中に背景を弄られることが多発するのだ。
今回はようやく聞き入れたか、ベッド周りはそのままになっているのだが。
「……」
単純に
『絵を描いてもらっている側が環境を変える』
神経自体が気に入らない。
傲慢かもしれないが、彼もそれなりに芸術家気質。
『ホスト側は細かい部分まで配慮すべきである』
とは考えている。
が、何より。
壁に飾られている絵画。
彼が散々描かされてきた裸婦画は1枚もない。
もちろん堂々と飾るものではないだろう。
アメリカの軍隊もの映画でピンナップを壁に貼る水兵ではない。
だが、
(所詮は会うための口実、私の絵など……)
これに怒るのは、さすがに芸術肌の過剰反応ではないだろう。
德加は気持ちを押し潰すように、キャンバスの前の椅子に座る。
筆を取り絵の具を溶かした膠と混ぜる。
その手が震える。
(落ち着け、落ち着け。だとしても絵を失敗するわけにはいかない)
まず最初に取り掛かるのは、手前のサイドボードに置かれた花瓶。
白磁の逸品は夏妃のお気に入り。
今までも何度か背景に描いてきた。
もういちいち見なくても形、模様、高さ、全て正確に描ける。
なんだかその事実にすらイライラしてくる。
「このあとのご予定というのはなんなの? 別の方の依頼?」
夏妃の無邪気さがそれを加速させる。
「いえ。日が落ちてから、郭妃の部屋で怪談大会があるのですよ。
それに呼ばれていまして」
「へぇ」
夏妃は少し考える。
「郭妃と言ったら、ちょうどこの下の階ね」
「そうなりますね」
「私も参加しようかしら。飛び入りでもいけるのかしらね」
「いくつか話せるネタがあるなら、歓迎されると思いますよ」
「ふーん」
あまり怪談に興味などなさそうである。
夏妃からすれば、
『まぁ近くでやるんなら行ってもいいかな。暇だし』
くらいのものなのだろう。
だが德加からすれば、
(こんなところにまで着いてくるつもりか!
どこまで私に付きまとえば気が済むんだ!)
としか思えない。
もう何があっても悪い方へ捉える心理になっている。
しかし、今日こそは。
もう一度話をするのだ。
『別れろ切れろ』
と。
それが受け入れられるにしろ、却下されるにしろ。
今日で全て終わらせる。
あと数時間の辛抱。
德加は怒りに震える手を押さえ付けるように、キャンバスへ筆先を付ける。
「さて、本日はこのあたりで。暗くなってきましたし」
「ご予定があるのだものね」
「それに手元も見えづらくなってきますし」
「それはあなたが時間を変えるからじゃない」
「ははは」
黄昏時。
德加は本日の作業を切り上げる。
「うーん、9割方完成、と言っていいでしょう。
次回細部を調整すれば、それで終わりそうですね」
立ち上がって腰を伸ばしながら、夏妃の反応を窺う。
別に絵のクオリティに対する、顧客の満足度を気にしているのではなく
「そうね。そうしたらまた、新しい絵を依頼しようかしら」
その後の話である。
「左様ですか。そのあたりはまた、こちらが仕上がってから」
第一関門はならず。
德加はいそいそと画材を片付ける。
すると、
「ねぇ」
夏妃がベッドから出てきて、彼の袖を摘む。
「まだ日が沈むまで時間があるわ。
皆さん、夕食を召し上がってから集まられるのでしょう?」
『何が言いたいか分かるだろう』
と濡れた瞳が語っている。
あえて德加が返事をせずにいると、
「おわっ」
そのままベッドへ引き込まれる。
本来夏妃に大の男を引き倒すほどの腕力はない。
が、男の側が下手に抵抗できないため、実に簡単なことである。
夏妃は德加へ馬乗りになる。
それから相手の顔へ唇を落とそうとして、
德加が迫る肩を抑える。
「なに?」
「聞いてください」
「時間はあるわ」
「そうじゃない」
意外にも德加がはっきり返すものだから、彼女も少し面食らったか。
「まぁ昨日もシたし。今日くらいは、お預けでもいいけど」
らしくない譲歩を見せる。
しかしもう、そういう段階ではないのだ。
「そうじゃない」
「じゃあなに? やっぱりスるの?」
「そうじゃない。
しない。
今日だけじゃない。この先も、ずっと」
やや困惑だった夏妃の表情が、明確な不愉快に変わる。
「その話は以前にしたはずだけど」
「もう一度お願いします。もう終わりにしましょう。こんな関係は」
「どうして?」
『どうして』だなどと、理由は以前に話したことがある。
夏妃の顔からしても、『覚えていない』とか『質問している』ではないだろう。
要は圧を掛けている。
だから德加も端的に答える。
「死刑になりたくありません」
すると夏妃は薄く笑う。
「なら滅多なことは言わないことね」
目が笑っていない。
「今あなたは死刑になっている? 違うわね?
つまり、今の状態を続けていれば死刑になることはないし、
それを崩すということは、死刑になる可能性が生まれるということよ?」
彼女は人差し指を德加の首筋に置き、左から右へスッと滑らせる。
「それは違う! 私たちが何も変えなくとも、どこからバレるかは分からない!
逆にそもそもの原因がなくなれば、決して死刑になることもない!」
德加の精いっぱいの訴えに、
夏妃の口元だけの笑みすら消える。
「私が黙っていれば、ね。
その話も、以前にしたはずだけど?」
第二関門もならず。
話は平行線。
それが答え。決定打。
となれば。
「くそっ!」
「えっ」
德加は懐に隠していたナイフを取り出し、鞘から抜く。
もう関係解消ではなく、
夏妃そのものに消えてもらうしかない。
「うぐっ!」
何枚も裸婦画を描いてきた相手だが。
肌を重ね合わせた相手だが。
さすがにボディペイントまではしたことがない。
宮廷画家・德加の新境地か。
彼は幾度となくキャンパスに塗り込めてきた白い脇腹を、
初めて直接赤に染めた。




