第5話 ビスマルク将軍 その二
凱斗は、星籠学園の一階で、西園寺陽葵と会った。
換気設備室の前だった。
彼を見るなり、陽葵は緑の目を見開いた。
「有沢くん、ひどい顔をしています」
凱斗の目の下には、制服の一部みたいな深い隈ができていた。黒い前髪は目にかかり、手は、この世に残された最後の理性的な物体みたいにノートを握っていた。
「うん。寝る予定だった」
「失敗しました?」
「事件のことを考え始めた」
「ああ」
「それからミヤマクワガタのドキュメンタリーを五本見て、学園の見取り図を四回見直して、女子寮の熱循環と換気図を照合した」
陽葵は固まった。
三秒間、彼女の表情は純粋な恐怖だった。
それから、甘く微笑んだ。
「それでお気持ちが楽になったのなら、何よりです」
(ああ。幸せだ)
凱斗は設備室の金属扉を指さした。
「なぜここで会いたかったのか、聞きたかったんだろ」
「まだ聞いていません」
「でも聞くつもりだった」
彼の灰色の目が光った。
「ビスマルク将軍は変温動物だ。昨日、日没後に外気温がかなり下がった。彼は熱源に引き寄せられた」
陽葵は手袋をはめた両手を口元へ持っていった。
「ビスマルク様は、ぬくもりを求めたのですね?」
「赤外線を求めた」
「ぬくもりをそんな冷たい言い方にするなんて」
凱斗は扉を開けた。
設備室は、金属と熱を帯びた埃と、循環した空気の匂いがした。大きなダクトが壁を這うように上へ伸びている。配電盤のそばで、デジタルパネルが点滅していた。
凱斗は近づき、画面に触れた。
「思った通りだ。昼間は暑いけど、夜は冷えている。昨日の十九時二十分、システムは居住棟の換気の一部を暖房モードに切り替えている」
「あ……!」
「小さな隙間を見つけたなら、熱を追った。クワガタは校則を読まない」
「零華ちゃんも彼から学ぶべきですね」
「本人の近くで言うな」
陽葵は感動したように微笑んだ。
「本当に賢いですね、有沢くん」
凱斗はパネルへ視線を戻した。
「ただ、まともに眠れないだけだ」
「私の部屋へ行きましょうか?」
彼のペンが止まった。
「昼間に、許可ありで?」
「はい」
「それなら、クレジット負債が増える危険は下がった」
二人は廊下を進んだ。
人通りの少ない最初の角に、ベンチに座った人影があった。
開いた新聞。
目の高さに切り抜かれた二つの穴。
完璧な姿勢。
星崎零華が、新聞の陰からのぞいていた。
(二人で何を企んでいるのですか?)
凱斗と陽葵は気づかずに通り過ぎた。
零華が立ち上がりかけた。
「会長」
彼女は肩をびくりと揺らした。
黒沢が、会計書類の入ったファイルを胸に抱えて、彼女の横に立っていた。
「予算査定をしてもよろしいでしょうか」
零華はゆっくり新聞を下ろした。
「黒沢くん……私だと分かっていましたか?」
「穴の位置が、普通の生徒にしては対称すぎました」
「そうですか」
彼女はバランスを取り戻そうとして、彼の腕に軽く触れた。
黒沢は、彼女の指がかすめた正確な地点を見た。
その映像が、彼の頭の中でスローモーションで繰り返された。
身体接触。
推定面積、〇・〇一平方ミリメートル。
発生源、会長。
結果、内部崩壊。
「頻脈を検知」
「黒沢くん?」
「任務中止」
彼はファイルを抱えたまま、廊下の向こうへ逃げた。
零華は動かなかった。
「……え?」
それから、首を振った。
(待って。部屋。二人は部屋へ行きました)
陽葵の部屋の近くまで来ると、扉の向こうから声が聞こえた。
「すごくべたべたします、有沢くん!」
零華は凍りついた。
「問題は味だ」と凱斗が言った。
「どうしてこれを嫌えるのか分かりません」
「一滴なめた。これで彼の絶望が理解できた」
部屋の中では、凱斗が床に膝をつき、換気口のそばにある金色の跡を観察していた。陽葵は、青森産りんごジャムの瓶を両手で持っていた。まるで聖なるワインを捧げる巫女のようだった。
「もう少し触って」と凱斗が言った。「粘度が手袋と同じなら、経路が確定する」
扉の外で、零華の頭の中が真っ赤になった。
(二人は……その……粘ついた何かを?)
扉の下に映った二人の影は、疑わしいほど近かった。
陽葵が身を乗り出した。
「こうですか?」
「もっと右」
「どのあたりですか?」
「開口部の中だ」
零華は銀色のリボンに手をやった。
(何をしているのですか?)
無意識に扉へ手を伸ばした。
その時、内側でドアノブが動いた。
零華はすでに走り出していた。
部屋の中で、凱斗が顔を上げた。
「何か聞こえたか?」
陽葵は空っぽの廊下を見た。
「幽霊かもしれません」
「女の幽霊だといいな。男ならクレジットが減る」
凱斗は換気口へ戻った。
ジャムの跡は換気口のそばで止まっていた。ほつれた手袋は扉まで引きずられていない。将軍のケースは無事なままだった。
彼はポケットから折りたたまれた見取り図を取り出し、床の上に広げた。
「西園寺さん」
「はい?」
「ビスマルクは換気システムに入った」
陽葵は青ざめた。
「彼は学園の内臓に入ってしまったのですね……」
「そして、このダクトは管理棟につながっている」
凱斗はペンで線をたどった。
それから止まった。
金属のペン先が、見取り図に記された四角に触れた。
生徒会室。
陽葵の顔から血の気が引いた。




