第2話 絆創膏の証明
凱斗は、零華がそう言った瞬間、自分が失敗したことに気づいた。
汗が一滴、頬を伝った。
「関係ない」
星崎零華は答えなかった。
ただ、彼の方へ歩き始めた。
一歩。
それから、もう一歩。
講堂は、ひとつひとつの音がいやに響くほど空いていた。ワックスのかかった床を叩く、彼女の小さな靴音。清掃係の男子の乱れた呼吸。彼の手の中で弱く鳴る鍵束。
凱斗は一歩下がった。
零華が進んだ。
もう一歩。
凱斗はまた下がった。
(なんだこれ。裁判か、処刑か?)
さらに一歩、後ろへ。
背中が、何か柔らかいものに当たった。
(は? 壁?)
肩越しに見る。
一ノ瀬美桜がそこにいた。
両手を体の前で重ね、最初から彼を待っていたみたいに微笑んでいた。
「有沢くん。会長は、人前で……ミスの話をするのが嫌いなんです」
凱斗は目を細めた。
「なんで俺の名前を知ってる」
「仕事ですから」
美桜はわずかに首を傾けた。
「それに、あなたは五週連続で赤い席にいます」
「屈辱的な統計をどうも」
「どういたしまして」
零華が彼の前で止まった。
氷のような青い目が、黒い前髪から、きっちり閉じられた制服のボタンへ、それから彼がペンをしまったポケットへと下りていく。
凱斗は、発表される前から自分のクレジットが死んでいくのを感じた。
(あ。さらにクレジットが減る)
「生徒会室へ」
零華が言った。
「今すぐ」
凱斗は扉を見た。
それから清掃係の男子を見た。
最後に、上品な笑みで出口を塞いだままの美桜を見た。
「選択肢は?」
「もちろんあります」
零華が答えた。
「二人の教師を呼ぶ前に来るか、呼んだあとに来るか。選べます」
凱斗は従った。
手が本能的にノートを探した。書きたかった。これを数字に、事実に、紙の上のきれいな一本の線に変えたかった。
けれど今は、そのノートの存在を誰にも知られないほうがよさそうだった。
生徒会室は本館二階にあった。
扉が開いた瞬間、凱斗は足を止めた。
(なんだこれ、ホテルか?)
その部屋は、生徒用にしては広すぎた。奥には、窓の光を反射するほど磨かれた濃い木の机がある。中央には長い会議用テーブル。片側には、革装丁の本で埋まった本棚のそばに低いソファ。反対側には大型テレビ、電子黒板、そしてコーヒーマシンつきの小さなキッチン。
空気は、高そうな木と茶の匂いがした。
零華は机の奥の革椅子に座り、脚を組み、椅子の肘掛けに肘を置いた。
黒沢は隅でストップウォッチを持っていた。
「会議開始から二十三秒。集団生産性における推定損失、中程度」
「それを止めなさい」
零華が言った。
「止めると、浪費が測定不能になります」
横の窓が突然開いた。
犬塚葵が、氷嚢を手にそこから入ってきた。
「清掃の子に氷持ってきた!」
黒沢は危うくストップウォッチを落としかけた。
「ここは二階だ」
「そっちのほうが早かった」
「扉というものが存在する」
清掃係の男子は、まだ震えながらソファに座った。葵はオリンピックのメダルでも渡すみたいに、氷嚢を彼の手に置いた。
零華は凱斗から目を逸らさなかった。
「説明しなさい、有沢くん。あなたが見つけた穴を。失敗すれば、あなたの影区域は皆既食扱いになります」
彼女は微笑んだ。
それから、指を濃紺の髪へ持っていった。毛先に触れ、ゆっくりと巻き、銀色のリボンまで上げていく。
小さな動きだった。
それでも、部屋の全員がそれを追った。
黒沢がストップウォッチを止めた。
葵が黙った。
美桜が無言で見ていた。
(さて)
零華は思った。
(まだ集中できますか?)
凱斗は、もう彼女の横にいて、コンピューターに身を乗り出していた。
零華は一度まばたきをした。
(え?)
彼は画面と、机に組み込まれたタッチパネルを見ていた。彼女に気づいてすらいないようだった。
(え?)
零華の指先が、銀色のリボンをきゅっと握った。
凱斗は見もせずにポケットからノートを取り出した。開いたことに気づいたのは、ペン先がページに触れた時だった。
「この端末のタッチパネルは、静電容量式だ」
零華が答えるまで、半秒かかった。
「自分が何を買ったかくらい知っています」
「なら、人間の皮膚による電場の変化を検知するってことも知ってるはずだ」
凱斗は清掃係の男子を指さした。
「あいつは、指先に工業用テープとプラスチック製の絆創膏を貼ってる」
男子は困惑して両手を上げた。
「洗剤のせいで……」
「プラスチックは絶縁体だ」
凱斗は続けた。
「あの手なら、このパネルを一時間触っても反応しない」
葵が腕を上げた。
「試していい?」
「試すべきだ」
凱斗は言った。
零華が短く手で示した。
男子は爆弾に触れるみたいにコンピューターへ近づいた。テープだらけの人差し指を画面につける。
何も起こらなかった。
もう一度試した。
画面は反応しないままだった。
黒沢が少し身を乗り出した。
「確認された。社会的抵抗値が高く、感情伝導率は無関係」
「翻訳」
葵が言った。
「動かない」
葵が爆笑した。
「二百万円の技術が十円の絆創膏に負けた! 有沢くん、バカ天才だ!」
「天才は大げさ。バカは議論の余地がある」
凱斗はノートを一枚めくった。
「クレジットを変更するには、パネルを開いて、アカウントを選択して、アクセス確認を通し、最後に操作を承認するだけの細かい操作が必要だった。指が絶縁されている状態じゃ、こいつは歩くハードウェアエラーだ」
ノートを乾いた音で閉じた。
「間違った犯人に時間を使ってる。効率ゼロ。俺はカロリー節約のために寝ていたい」
誰も話さなかった。
清掃係の男子は、自分の手を見ていた。たった今、その手に救われたみたいに。
葵は口を開けていた。
黒沢は神経質な速さで何かを書き留めていた。
美桜は凱斗を見ていた。
それから零華を見た。
零華は動かなかった。
この部屋の誰も、あの男子の手を見ていなかった。彼女でさえ。見ていたのは、時刻、権限、鍵、アクセス、そしてあり得る罪だった。
凱斗は、全員が背景として流していた細部を見ていた。
零華は銀色のリボンを離した。
(面白い)
その言葉が形になる前に、思考を修正した。
(有用だ)
葵が美桜の方へ身を傾けた。
「会長が言葉に詰まってるの、初めて見た」
美桜は指で口元を隠した。
「お亡くなりに?」
零華が立ち上がった。
部屋の温度が変わった。
凱斗のところまで歩き、彼の顔から数センチの距離で止まる。
凱斗は、怯えたというより、疲れ切った目で見上げた。
「有沢くん」
彼女は完璧な笑みで言った。
「ちょうど、生徒会に空きがありまして――」
「嫌だ」
提案より先に、その言葉が出た。
零華は止まった。
凱斗はもう扉へ向かって歩いていた。
「クレジット不足、睡眠不足、興味不足。真犯人探し、頑張って」
扉が閉まった。
三秒間、生徒会室は呼吸をしなかった。
それから葵が扉を指さした。
「会長を断ったよ」
黒沢はストップウォッチを見た。
「組織崩壊までの時間、測定不能」
美桜はゆっくり微笑んだ。
「面白い男の子」
零華は立ったままだった。
手が銀色のリボンまで上がる。今度は、それを握った。
「提案書を用意しなさい」
葵がまばたきをした。
「今、断られたばっかりだよ」
零華は閉じた扉へ顔を向けた。
笑みが戻った。
より冷たく。
より美しく。
より危険に。
「なら、正しい答えの選び方を、教えてあげましょう」




