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【ウラノスの血 ――黒羊の海――】

【ウラノスの血 ――黒羊の海――】


 夜の海は、腐った鉄の匂いがした。


 波が砕けるたび、黒い泡が岩肌にへばりつき、月明かりを鈍く弾いている。崖の上に立つ青年は、その異様な海を見下ろしながら唇を噛んだ。


「本当に行くのか、アステリオン」


 背後から低い声がした。


 振り返ると、篝火の赤に照らされた女が立っていた。銀色の髪が海風に揺れ、肩にかけた獣毛から雨と煙の匂いが漂っている。


「行かなきゃならない」


 アステリオンは答えた。


「父を殺した神の名を、俺は知りたい」


 女――メリアは目を伏せた。


「知ったところで救われないよ。神々は人間を踏み潰しても、朝露ほどにも思わない」


「だからだ」


 彼は拳を握った。


「だから、俺は聞く。ウラノスの血を引く者として」


 その言葉に、風が止んだ。


 波の音だけが、暗闇の底から響く。


 メリアの顔色が変わった。


「二度とその名を口にするなって言っただろう」


「だが事実だ」


「違う!」


 彼女の怒声が崖に反響した。


「その血は呪いだ! 聞いた者は皆死ぬ!」


 火の粉が舞い、夜空へ吸い込まれていく。アステリオンは静かに彼女を見た。


「お前も知ってるんだな」


 メリアは答えなかった。


 代わりに震える手で短剣を抜き、彼の胸へ突きつけた。


「船を出せば、戻れない」


「戻る気はない」


「死ぬぞ」


「人はいつか死ぬ」


「神に逆らえば、もっと惨めに死ぬ!」


 その瞬間、雷鳴が轟いた。


 雲一つなかった空を、青白い閃光が引き裂く。


 海面が盛り上がった。


 まるで巨大な何かが水底で身を起こしたように。


 メリアの瞳に恐怖が宿る。


「……来る」


 海の底から、声がした。


 耳ではなく、骨に響く声だった。


『血よ』


 アステリオンの喉が凍る。


『空の血よ』


 黒い海が渦を巻き始めた。腐臭が一気に濃くなる。生臭い。内臓を裂いた時の匂いだ、と彼は思った。


 波間から巨大な腕が現れた。


 人間ではない。


 青黒い鱗に覆われ、指の先には鎌のような爪がある。


 メリアが悲鳴を上げた。


「走れ!」


 だがアステリオンは動けなかった。


 その腕が、自分を呼んでいる気がした。


『近づけ』


 海水が勝手に彼の足を引く。


 冷たい。


 だがその冷たさの奥に、妙な懐かしさがあった。


 胎内に戻るような感覚。


 頭の奥で、誰かの記憶がざわめく。


 暗い空。


 裂かれる肉。


 絶叫。


 金色の鎌。


 血。


 空いっぱいに降る血。


「……っ!」


 アステリオンは頭を押さえた。


 視界が真紅に染まる。


 その時だった。


 メリアが彼に飛びつき、地面へ押し倒した。


 直後、轟音。


 さっきまで彼が立っていた岩場を、巨大な爪が粉砕した。


 石片が頬を裂く。


 熱い血が流れた。


「正気に戻れ!」


 メリアが叫ぶ。


「そいつはお前を呼んでるんじゃない! 喰おうとしてるんだ!」


 海から半身を現した怪物は、ゆっくり首を傾けた。


 顔らしき部分には目がなかった。


 ただ、縦に裂けた口だけがある。


『ウラノスの匂いがする』


 口の奥で、何百人もの声が重なっていた。


 男、女、老人、子供。


 死者の声だ。


 アステリオンの背筋を悪寒が走る。


「お前は何だ」


 怪物が嗤った。


 肉が裂けるような音だった。


『神の残飯』


「答えになってない」


『我らは落ちた血』


 海が泡立つ。


『空の神が裂かれた時、その血潮は海へ落ちた。魚を狂わせ、獣を歪め、人を怪物に変えた』


 メリアが青ざめる。


「やめろ……」


『だが貴様は違う』


 怪物の口が大きく開いた。


『貴様は器だ』


 アステリオンの胸が脈打つ。


 どくん、と嫌な音がした。


 心臓ではない。


 もっと奥。


 骨の内側で何かが目覚めている。


『空神の血を継ぐ最後の器』


 その瞬間、アステリオンの瞳が金色に染まった。


 視界が変わる。


 風の流れが見えた。


 空気の震えが聞こえる。


 遠くの波の塩の味まで舌に伝わってくる。


 力が満ちていく。


 恐ろしいほどに。


「……何だ、これ」


 メリアが後ずさった。


「アステリオン……?」


 彼女の声が震えている。


 まるで化け物を見る目だった。


 その視線が、胸に刺さる。


「そんな顔するなよ」


 アステリオンは苦笑した。


「俺だ」


「違う……」


 メリアは首を振った。


「その目、神族の目だ」


 彼は言葉を失った。


 怪物が歓喜の咆哮を上げる。


『目覚めろ! 空の子よ!』


 次の瞬間、海が爆発した。


 巨大な波が崖を呑み込み、世界が黒に染まる。


 塩辛い水が肺へ流れ込み、耳の奥で轟音が渦巻いた。


 沈みながら、アステリオンは最後にメリアの手を見た。


 必死にこちらへ伸ばされる白い指。


 だが届かない。


 闇の底で、何か巨大なものが目を開いた。


 月よりも大きな、黄金の瞳だった。




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