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潮騒の洞窟と黒い葡萄酒 ギガンテス

潮騒の洞窟と黒い葡萄酒


 夜の海は、まるで巨大な獣が眠っているようだった。


 ギガンテスたちの島を囲む断崖に、白い波が砕けるたび、湿った塩の匂いが風に乗って漂ってくる。空には雲が低く垂れ込み、月は青白く滲んでいた。


 洞窟の奥では、大きな焚き火が赤々と燃えている。羊の脂が火に落ち、じゅっと音を立てた。


「だからよぉ、あいつ絶対オリュンポスの密偵だって」


 片目のギガンテス、ブリアレオスが骨付き肉を振り回しながら怒鳴った。獣の毛皮を肩に掛け、腰には青銅の短剣を下げている。酒で赤くなった鼻から、荒い息が漏れた。


「密偵なら、もっと賢そうな顔をしてるだろ」


 向かいで笑ったのは若いギガンテスのレオン。まだ角も短く、人間に近い整った顔立ちをしている。黒髪を革紐で束ね、亜麻布の長衣の上から狼皮の外套を羽織っていた。


 彼は焼いた魚を裂きながら、ちらりと洞窟の隅を見る。


 そこには捕らえられた人間の娘が座っていた。


 娘は粗末な白いチュニック姿で、両手を縄で縛られている。海風で栗色の髪が乱れ、唇は寒さで青かった。それでも瞳だけは強く光っている。


「わたしは密偵じゃない」


 娘は震える声で言った。


「港町ミュリナから来ただけよ」


「なら、なんでこんな嵐の夜に島へ来た?」


 ブリアレオスが立ち上がると、洞窟の床がどしりと揺れた。彼の体から獣臭と葡萄酒の匂いが混ざって漂う。


 娘は唇を噛む。


「弟を探してるの」


 焚き火がぱちりと弾けた。


 しばらく誰も喋らなかった。外では波の轟きが続いている。


 レオンは焼いた魚を木皿に乗せると、娘の前へ歩いた。


「食べろ」


 娘は警戒したまま顔を上げる。


「毒なんか入ってない」


「……ギガンテスが親切だなんて聞いたことない」


「俺も人間が正直だなんて聞いたことない」


 レオンが肩をすくめると、周囲の巨人たちがどっと笑った。


 娘は少し迷ってから魚を口に運ぶ。白身は熱く、塩が強かった。だが空腹だった胃には染みるほど美味かった。


 その匂いに混じり、洞窟の奥から甘い葡萄酒の香りが漂ってくる。巨大な壺に入った黒葡萄酒だ。


 年老いたギガンテスの女、ガイアネイラが酒杓を揺らしながら近づいた。灰色の髪を三つ編みにし、濃紺の衣には貝殻の飾りが縫い込まれている。


「人間の娘、名は?」


「……エウリュディア」


「ふん。綺麗な名だね」


 老婆は娘の縄を乱暴に切った。


「逃げようなんて思うんじゃないよ。この島じゃ人間は三日で死ぬ」


「どうして?」


「神々が呪ってるからさ」


 洞窟の空気が急に冷えた気がした。


 レオンの表情が曇る。


 オリュンポスの神々。


 その名を聞くだけで、ギガンテスたちの胸には黒い怒りが灯る。


 空を支配する神々は、巨人族を怪物と呼び、大地の果てへ追いやったのだ。


 ブリアレオスが酒壺を掴み、荒々しく飲み干した。


「ゼウスの野郎……次に雷を落としやがったら、空ごと引き裂いてやる」


 怒鳴る声に洞窟が震える。


 だがレオンは黙ったままだった。


 彼はエウリュディアを見ていた。


 人間は弱い。脆い。なのに、この娘の目には妙な強さがあった。


「弟はどうなったんだ」


 レオンが低く尋ねる。


「船が沈んで……この島へ流れ着いたって聞いたの」


「名前は?」


「テオ」


 その瞬間、洞窟の奥で誰かが吹き出した。


「テオだってよ!」


 若い巨人たちが笑う。


「この前さらったガキじゃねぇか?」


 エウリュディアの顔が青ざめた。


「いるの!? 弟が!?」


「泣き虫のガキだろ? 今頃ヤギの世話してるぜ」


 笑い声が響く。


 だがレオンだけは笑わなかった。


「……おい」


 低い声で言う。


「人間をさらったのか?」


「別に食ってねぇよ」


「そういう問題じゃない」


 空気がぴりついた。


 焚き火の熱とは別の熱が、洞窟に広がる。


 ブリアレオスが片目を細めた。


「なんだレオン。人間に情でも湧いたか?」


「違う」


「なら黙ってろ。人間は神々の犬だ」


 レオンの拳がぎしりと鳴る。


 彼の胸には昔から消えない疑問があった。


 本当に人間は敵なのか。


 本当に神々だけが正しいのか。


 その時だった。


 洞窟の外で雷鳴が轟いた。


 白い閃光が海を裂く。


 同時に、巨大な悲鳴が聞こえた。


「魔鳥だ!!」


 見張りの声。


 ギガンテスたちが一斉に立ち上がる。


 外から羽音が迫ってくる。嵐の風に混じり、生臭い獣の匂いが流れ込んだ。


 エウリュディアの肩が震える。


「な、なに……?」


 レオンは青銅の槍を掴んだ。


「ヒュドラの眷属だ」


「え?」


「人間も食う」


 次の瞬間、洞窟入口を巨大な影が覆った。


 ぬらつく黒い羽。


 蛇のように裂けた嘴。


 黄色い眼が焚き火を映し、不気味に光る。


 魔鳥が咆哮した。


 熱い腐臭が吹き込み、火が激しく揺れる。


 巨人たちが怒号を上げた。


「武器を持て!」


「殺せぇ!!」


 だがエウリュディアだけは動けない。


 恐怖で足が凍っていた。


 その前へ、レオンが立つ。


 狼皮の外套が風で翻り、槍の穂先が火を映した。


「下がってろ」


「でも……!」


「死にたくなきゃ俺の後ろにいろ」


 低い声だった。


 けれど不思議と安心する声だった。


 外では嵐が荒れ狂っている。


 雷光の中、ギガンテスと魔鳥の戦いが始まろうとしていた。




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