海神の夜食と蒼い怒り ポセイドン
海神の夜食と蒼い怒り
胃の腑が焼けるような飢えと苛立ちに、ポセイドンは眉根を寄せていた。海底の宮殿を包む水圧よりも重苦しい不快感が、彼の神経を一本ずつ逆撫でしている。陸の人間どもは、なぜこれほどまでに愚かで傲慢なのか。海を渡る木片一つにすがりつきながら、神の慈悲を値踏みするような祈りを捧げてくる。その図々しさを思い出すだけで、喉の奥に苦い砂を詰め込まれたような不快な熱が込み上げた。深く息を吐き出すと、肺腑から漏れ出た呼気が夥しい銀の気泡となって立ち上り、真珠貝の天井に当たって消えた。
彼の身を包んでいるのは、海底の深淵をそのまま織り上げたような濃紺のヒマティオンだった。裾には金糸で荒れ狂う波の文様が縫い留められ、太い肩から胸元へと斜めに掛けられている。粗く織られた上等な羊毛の手触りはしっとりと湿り気を帯び、冷たい海水に浸りながらも神の体温を奪わせない。無骨な首筋には、巨大なクジラの骨を削り出した重厚な首飾りが下がっており、彼が息を吸い込むたびに微かな音を立てて胸板を叩いた。
「おい、アムピトリーテー。腹が減ってたまらん。陸の奴らのくだらん嘆願を聞かされ続けたせいで、頭の芯まで塩辛くなってしまった」
ポセイドンが太い声を響かせると、玉座の脇に控えていた妻のアムピトリーテーが、呆れたような、けれど底知れぬ慈愛を含んだ溜息をついた。彼女は薄青い絹のキトンを身にまとっており、その布地は水流に合わせてクラゲの外套のように揺らめいている。細い手首には磨き抜かれた白真珠の輪が幾重にも巻かれていた。
「お前がそうやってすぐに癇癪を起こすから、エーゲ海が荒れて船が沈むのです。沈んだ船の積み荷がここに落ちてきて、庭が木屑だらけになる私の身にもなってくださいな」
「あんな脆弱な舟を海に浮かべる方が悪い。海を敬う心があるなら、最初から岸辺にへばりついていればいいのだ」
「はいはい、わかっておりますよ。ほら、厨房に支度をさせておきましたから。少し胃袋を落ち着かせなさい」
妻が細い指を鳴らすと、海身の給仕たちが大皿を恭しく運んできた。
皿の上に山盛りにされていたのは、香草とオリーブ油で豪快に蒸し焼きにされた巨大な伊勢海老だった。殻の間から立ち上る湯気には、ニンニクの力強い匂いと、タイムやローズマリーに似た海底特有の芳香が混ざり合っている。添えられているのは、黒く熟したオリーブの塩漬けと、無花果を蜂蜜に漬け込んだ果肉、そして焼き立ての大麦のパンだ。
香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、ポセイドンの苛立ちはかすかに和らいだ。舌打ちをひとつして、彼は身の丈を超える長大な三叉の鉾を近くの珊瑚の柱に立てかけた。鋼のように硬い彼の指先が、熱い殻を容赦なく引き裂く。バリッという乾いた音が水中に鈍く響き、中から湯気を立てる真っ白な身が露わになった。
「ふん、少しは気の利いたものを食わせる気になったか」
「あなたが機嫌を損ねると、地鳴りまで起きるのですからね。海だけでなく大地まで揺らされたら、たまったものではありません」
ポセイドンは海老の身を大きく引きちぎり、口の中へ放り込んだ。噛み締めた途端、プリプリとした力強い弾力とともに、濃厚な甘みと潮の風味が口いっぱいに広がった。香草油の滑らかなコクが舌を包み込み、胃袋へと落ちていくたびに、ささくれ立っていた神経がじんわりとほぐれていく。
「美味いな。この塩加減は悪くない」
「でしょう。ヘリオスが沈む前に採らせた深海の塩を使わせましたのよ。さあ、葡萄酒も飲みなさいな」
アムピトリーテーが注ぎ入れた杯は、重厚な赤真鍮で作られていた。中には血のように濃い赤葡萄酒がなみなみと注がれ、松脂の香りと甘酸っぱい葡萄の酸味が微かに漂っている。ポセイドンは杯をあおり、喉を大きく鳴らしながら一気に飲み干した。喉元を灼くような強いアルコールの刺激が、五臓六腑を温かく満たしていく。
「……だがな、アムピトリーテー。あの男の顔がどうしても気に入らんのだ」
「あの男? ああ、またオデュッセウスのことですの?」
妻の言葉に、ポセイドンの太い眉が再び吊り上がった。胸の奥底で、先ほど鎮まりかけたはずの黒い感情が、暗雲のように渦を巻き始める。侮辱されたという事実が、皮膚の裏側を針でチクチクと刺すような痛痒となってぶり返してきた。我が子ポリュペーモスの痛ましい叫び声が、今も耳の奥で生々しく反響している。
「我が血を引く息子の目を焼き潰しておきながら、抜け抜けと神々の庇護を気取って帆を張るあの男の図太さが許せんのだ。我が名を知りながら挑発し、笑いながら逃げおおせようとするあの眼差し……。思い出すだけで、この手が勝手に鉾を握りしめようとする」
「あの子も少し乱暴が過ぎましたけれどね。ですが、父親であるあなたが怒るのも無理はありません」
「当たり前だ! 我が威光を蔑ろにする者を、この海が一滴たりとも無事に通すと思うな!」
ポセイドンが拳を卓に叩きつけると、ずしりと重い衝撃が海底の宮殿を震わせた。大皿の上のオリーブが転がり、銀の器が甲高い金属音を立てる。水流が渦を巻き、珊瑚の木々が激しくざわめいた。
「まあまあ、落ち着きなさいな。せっかくの無花果が落ちてしまうではありませんか」
アムピトリーテーは少しも動じず、転がった果実をつまみ上げて、青い布で丁寧に拭った。その冷静な眼差しに見つめられ、ポセイドンは気まずそうに顎を引いた。
「……すまんな。手が滑っただけだ」
「嘘をおっしゃい。あなたはいつもそうやって、心の内にある嵐をそのまま外へ撒き散らすのです。神である前に、あなたは父であり、海の主なのでしょう? みっともなく騒ぐのはおやめなさい」
「みっともないだと? 俺がいつ見苦しい真似をしたというのだ」
「今です。顔が真っ赤ですよ。まるで茹で上がった蛸のようです」
「何を言うか!」
ポセイドンは吐き捨てるように言いながらも、再び大麦のパンをちぎって口に押し込んだ。粗挽きの粉の香ばしさと素朴な甘みが、強烈な酒で荒れた口腔を宥めていく。噛めば噛むほど素朴な穀物の味が広がり、それが不思議と彼の荒ぶる心を海底の静寂へと引き戻していくようだった。
「……あの男は、決して平穏には帰れん。我が海を渡る限り、あらゆる風と波がその行く手を阻むことになる」
「ええ、それで気が済むのなら、気の済むまで嵐をお呼びなさい。ただし、私のお気に入りのイルカたちを巻き込まないでくださいね」
「イルカの心配などしている場合か。まったく、お前というやつは……」
ポセイドンは呆れたように息を漏らし、残っていた無花果を指先でつまんだ。蜜がたっぷりと染み込んだ柔らかな果肉を口に含むと、甘美な濃厚さが舌の上でとろけ、先ほどまでの激しい怒りの輪郭がふわりとぼやけていく。
海の底は静かだった。地上の騒乱も、傲慢な人間の叫びも、この深さまで届くことはない。ただ、遠く届く淡い月光のような燐光が、妻の着る青い絹の衣をほのかに照らし出し、揺らめく水面を星屑のように輝かせていた。冷たい水の中で、温かい食事と酒の熱だけが、彼の巨躯の内側で確かに脈打っている。
「もう一杯、酒をもらおうか」
「はい、どうぞ。今夜はこれでおしまいですよ、我が主」
差し出された赤真鍮の杯を受け取りながら、ポセイドンは深海の闇を静かに見つめた。胸中には依然として晴れぬ復讐の焔が燻っていたが、その炎はもはや爆発するような激情ではなく、獲物を確実に追い詰める深海の冷徹な意志へと変わり始めていた。海は逃がさない。どれほど小細工を弄しようとも、最後にはすべてがこの深い青の底へと呑み込まれるのだから。




