海神ポセイドンと、涙を隠した娘
海神ポセイドンと、涙を隠した娘
ポセイドンは、その娘の笑顔が気に入らなかった。いや、正確には、笑っているのに少しも幸せそうではないことが気に入らなかった。海底宮殿の大広間には、珊瑚の燭台が青白い光を放ち、真珠を縫い込んだ衣をまとった海の精霊たちが集まっていた。焼いた鯛に香草を添えた料理や、蜂蜜をかけた無花果、葡萄酒を満たした銀杯が並んでいる。その華やかな宴の片隅で、娘は誰にも気づかれないように涙を拭っていた。
「おい、そこの娘。こちらへ来い」
呼ばれた娘は、びくりと肩を震わせた。薄い水色の長衣は袖口が擦り切れ、栗色の髪は一本の青い紐で束ねられている。ほかの精霊たちのように宝石を身につけてはいなかった。
「わ、私でございますか」
「ほかに誰がいる。名は何という」
「ネリスと申します」
「なぜ泣いていた」
「泣いてなどおりません」
「この俺の目をごまかせると思うか」
ポセイドンが眉を寄せると、近くにいた精霊たちは一斉に口を閉じた。海神は濃紺の長衣をまとい、肩には銀糸で波模様を刺繍した外套を掛けている。黒い髭には海の泡のような白銀が混じり、その青い瞳は深海の底を思わせた。
ネリスは唇を噛んだ。
「申し訳ございません。宴を台無しにするつもりはありませんでした」
「謝罪など求めておらん。理由を聞いている」
「……母が、死にました」
ポセイドンの表情が変わった。
「いつだ」
「三日前です」
「それで、なぜ宴に出ている」
「宮殿のお仕事を休めば、食べるものがなくなります。弟が二人おりますので」
娘の声は小さかったが、ポセイドンにははっきり聞こえた。彼はしばらく黙り、手にしていた葡萄酒の杯を卓上に置いた。
「母親は何の病だった」
「病ではありません。海が荒れた日に、漁に出た父を捜しに行って……」
「海に呑まれたのか」
ネリスは頷いた。
「父も帰りませんでした」
ポセイドンの胸に、冷たいものが落ちた。三日前、彼は確かに海を荒らしていた。ゼウスとの口論に腹を立て、三叉の矛で海面を叩いたのだ。あのとき砕けた船の数など、数えてもいなかった。
「おまえの故郷はどこだ」
「エウリュアの入り江です」
その名を聞いた瞬間、ポセイドンの指が止まった。
「……そうか」
「海神様?」
「もうよい。下がれ」
ネリスは深く頭を下げた。しかし、立ち去ろうとしたところで、ポセイドンが再び呼び止めた。
「待て。食事はしたのか」
「いいえ」
「なぜだ」
「弟たちに持って帰ろうと思いまして」
娘が握っていた小さな布包みから、硬くなったパンの端が覗いていた。
ポセイドンは大きく息を吐いた。
「料理番を呼べ」
すぐに白い前掛けをした料理番が駆けつけた。
「この娘に温かい魚の煮込みと焼きたてのパンを用意しろ。弟たちの分もだ。蜂蜜菓子も忘れるな」
「かしこまりました」
「それから、今夜は仕事をさせるな」
ネリスは驚いて顔を上げた。
「ですが、私……」
「命令だ」
「ありがとうございます。でも、どうして……」
ポセイドンは答えられなかった。
宴が終わったあとも、彼の耳には娘の声が残っていた。宮殿の奥にある寝室へ戻ると、妻アンフィトリテが鏡台の前で真珠の耳飾りを外していた。淡い緑色の絹衣が床に流れ、髪からは海百合の香油がほのかに漂っている。
「あなた、今夜はずいぶん静かね」
「そうか」
「いつもなら、宴の料理に文句をつけるか、ゼウスへの不満を三度は話すのに」
「俺はそんなに口うるさいか」
「ええ、とても」
妻は微笑んだが、夫の顔を見ると笑みを消した。
「何があったの」
ポセイドンは寝台に腰を下ろした。
「三日前、俺が海を荒らしたことを覚えているか」
「もちろん。宮殿の柱まで揺れたわ」
「あの嵐で、親を失った娘がいた」
アンフィトリテは黙って隣に座った。
「今日、その娘に会った。俺の宮殿で働いていた。弟たちを養うためにな」
「そう……」
「俺は知らなかった」
「知らなかったことと、起こらなかったことは違うわ」
その言葉は、三叉の矛よりも深くポセイドンの胸を刺した。
「俺を責めるのか」
「責めてほしいの?」
「……わからん」
アンフィトリテは夫の大きな手を取った。
「あなたは海を支配できる。でも、海で暮らす者の悲しみまで支配できるわけではないのよ」
ポセイドンは妻の手を握り返した。いつもなら反論するところだったが、今夜は何も言えなかった。
翌朝、ネリスは宮殿の小さな厨房で、弟たちへの食事を受け取っていた。温かいパンの香りに混じって、焼いた魚の香ばしい匂いが漂う。籠の中には羊の乳で作った白いチーズと、蜜漬けの無花果まで入っていた。
「こんなにいただいて、本当によろしいのでしょうか」
料理番が笑った。
「海神様のご命令だよ。遠慮するんじゃない」
そこへ、低い声が響いた。
「ネリス」
振り返ると、ポセイドンが立っていた。今日は豪華な外套を脱ぎ、白い麻の長衣に革の帯を締めている。
「故郷へ案内しろ」
「エウリュアへ、ですか」
「そうだ」
「何をなさるおつもりですか」
「見ておきたい」
ネリスは不安そうに籠を抱え直した。
「何もありませんよ。家も壊れてしまいましたから」
「それでも行く」
二人が入り江に着いたとき、朝日が海面を金色に染めていた。潮風には濡れた岩と海藻の匂いが混じり、遠くで海鳥が鳴いている。しかし、砂浜には折れた櫂や破れた網が散らばり、波打ち際には船の残骸が打ち上げられていた。
ネリスの足が止まった。
「あそこに、私の家がありました」
指さした先には、崩れた石壁が残っていた。
「母は毎朝、あの窓から海を見ていたんです。父の船が帰ってくると、誰よりも先に気づいて……」
娘の声が震えた。
「父は魚を焼くのが上手でした。弟たちはいつも取り合いをして、母に叱られていました」
ポセイドンは黙って聞いていた。
「私、海が好きだったんです」
「……今は嫌いか」
「わかりません」
ネリスは涙をこぼした。
「波の音を聞くと、父と母の声を思い出すんです。でも、海を見ると怖くて、腹が立って……それでも、二人が帰ってくるんじゃないかと思ってしまうんです」
ポセイドンは胸を締めつけられた。
「ネリス。あの嵐を起こしたのは俺だ」
娘はゆっくり顔を上げた。
「……知っています」
「知っていたのか」
「海神様が怒っていたと、みんな話していました」
「ならば、なぜ俺に仕えている」
「弟たちを食べさせなければならないからです」
ポセイドンは言葉を失った。
「あなたを恨んではいけませんか」
娘の問いは静かだった。
「恨んでよい」
「神様なのに?」
「神だからといって、間違いを犯さぬわけではない」
ネリスは泣きながら首を振った。
「そんなことを言われても、父も母も帰ってきません」
「わかっている」
「わかるはずがありません!」
初めて娘が声を荒らげた。ポセイドンの背後で波が大きく盛り上がったが、彼は三叉の矛を握りしめ、怒りを海へ流すまいと耐えた。
「そうだ。俺には、おまえの悲しみのすべてはわからん」
ネリスはその場にしゃがみ込み、顔を覆った。
「会いたい……お母さんに会いたい……」
ポセイドンは膝をついた。神々の王族が、人間の娘と同じ高さまで身を低くすることなど、めったになかった。
「すまなかった」
娘は答えなかった。
「許せとは言わん。だが、これからおまえと弟たちが生きていけるよう、俺にできることをさせてくれ」
長い沈黙のあと、ネリスが尋ねた。
「壊れた村も、直してくださいますか」
「ああ」
「ほかの家族を失った人たちも、助けてくださいますか」
「約束する」
「……また怒って、海を荒らしたりしませんか」
ポセイドンはすぐには答えなかった。怒りを完全に捨てられると約束するのは、嘘になると思ったからだ。
「怒ることはあるだろう。だが、その怒りで無関係な者を傷つけぬよう努める」
ネリスは涙を拭った。
「それなら、信じてみます。でも、まだ許せません」
「それでよい」
その日の夕暮れ、入り江には久しぶりに温かい食事の匂いが満ちた。ポセイドンが呼び寄せた海の精霊たちは壊れた家を建て直し、漁師たちには新しい船と網が届けられた。村の広場では大鍋に魚と野菜の煮込みが作られ、焼きたての大麦パンが配られた。
ネリスの弟たちは、久しぶりに腹いっぱい食べて笑った。末の弟が蜂蜜菓子を頬張る姿を見て、ネリスもようやく小さく笑った。
「海神様」
「何だ」
「父と母のお墓を作りたいんです」
「どこに作りたい」
「あの岬の上に。二人が海を見られる場所がいいです」
ポセイドンは頷いた。
「明日、一緒に作ろう」
「神様が、お墓を?」
「石を運ぶくらい、俺にもできる」
ネリスは驚き、それから少しだけ笑った。
「大きすぎる石は困りますよ」
「俺を誰だと思っている」
「だから心配なんです」
ポセイドンは声を上げて笑った。その笑い声は波に混じり、夕暮れの入り江へ広がっていった。
夜、宮殿へ帰ったポセイドンを、アンフィトリテが迎えた。
「どうだった?」
「許してはもらえなかった」
「そうでしょうね」
「だが、明日は墓を作る約束をした」
妻は優しく微笑んだ。
「それなら、明日は早起きしなくてはね」
「ああ。それに、あの娘の弟たちに朝食も持っていく」
「何を?」
「焼いた魚とパンだ。あと、蜂蜜菓子も」
「甘いものばかりでは駄目よ」
「では果物もつけよう」
アンフィトリテは笑いながら夫の外套を受け取った。
ポセイドンは窓の外を見た。深い海の向こうには、あの小さな入り江がある。そこで眠る人々の顔を、彼はまだ知らない。けれど明日は、墓石を運びながら、ネリスから父と母の話をもっと聞こうと思った。
海は静かだった。
それは海神が初めて、自分の怒りよりも誰かの眠りを大切にした夜だった。




