↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/70

竈の炉守と小さな炎

竈の炉守と小さな炎


オリュンポスの白亜の宮殿に吹き渡る風は、いつだって刃物のように冷えきっていて、ヘスティアの胸をひそやかに疼かせた。黄金の神座に並ぶ神々の哄笑や、互いを牽制し合うぎらついた視線に晒されるたび、彼女の胃の腑は細かく震え、苦い水が喉元まで上がってくる。神々が誇る不死の身体など、彼女にとっては重たくて冷たい石臼を背負わされているようなものだった。誰かが誰かを妬み、誰かが誰かを打ち負かそうとする熱気の渦に巻き込まれるのが、たまらなく恐ろしく、同時にどうしようもなく哀しかった。


「またあんなところで、燻った炭の相手ばかりしておるのか、ヘスティア」


背後から掛けられたアポロンの声音は、竪琴の弦のように澄んで響いたが、ヘスティアにはそれが神経を逆撫でする細い針のように思えた。振り返ると、燦然と輝く金糸を織り込んだ真紅のクラミスを羽織り、いかにも太陽神らしい傲慢な笑みを浮かべた甥が立っている。香油の甘ったるい匂いがぷんと鼻をついた。


「ここは暖かいからよ。それに、火を絶やすわけにはいかないもの」


ヘスティアは、飾り気のない羊毛のキトンをそっと撫で下ろした。漂白すらされていない、素朴な生成りの布地は、触れるだけで指先に乾いた安心感を与えてくれる。神々の好む、きらびやかで肌を刺すような絹の衣など、彼女には息が詰まるだけの枷だった。


「神座の争いにすら加わらぬお前を見ていると、時折、本当に我らと同じ血が流れているのか疑わしくなるよ。ポセイドン伯父上も、お前を手に入れようと躍起になっているというのに。海を統べる力と、太陽を射止める私の光、どちらを選ぶ気だ?」


からかうようなアポロンの瞳の奥に、独占欲という名の暗い濁りを見つけてしまい、ヘスティアの胸はぎゅっと縮み上がった。求婚という美名のもとに、自分をただの戦利品として飾り立てたいだけの男たち。波の轟きのような乱暴さも、焼き尽くすような陽光の傲慢さも、彼女にとっては等しく息を止めたくなるほどの暴力でしかなかった。


「どちらも選ばないわ。私は、誰の妻にもならないと父クロノスの御名とステュクスの水にかけて誓ったはずよ。……それより、お腹が空いたなら、焼きたての麦パンをちぎってあげましょうか。火のそばで温め直したばかりよ」


ヘスティアは努めて穏やかな声を作りながら、炉の縁に置かれた素焼きの皿へ手を伸ばした。指先が素焼きの粗い肌に触れると、じんわりとした温もりが伝わってくる。粗挽きの大麦をこね、蜂蜜と少量の山羊の乳を混ぜて、灰の中でじっくりと焼き上げた丸パン。表面は香ばしく焦げていて、割ると立ち上る湯気とともに、どこか甘酸っぱい穀物の香りが鼻腔をくすぐった。


「ふん、私はネクタルとアンブロシアで満ち足りている。そのような泥臭い人の食い物など、口にする気にはなれんよ」


アポロンは侮蔑するように口元を歪め、外套を翻して歩み去っていった。その足音が遠ざかるのを見届けながら、ヘスティアはほっと息を吐き出し、胸に溜まっていた重たい塊を吐き出すように肩を落とした。神々の宮殿にあって、彼女を安らげてくれるのは、こうした飾りのない食べ物と、静かに爆ぜる薪の匂いだけだった。


ヘスティアは一人、膝を抱えて炉床の前に座り直した。パチパチと小さな爆ぜる音が耳朶を打つ。赤く熾きた炭火の熱が、彼女の白い頬をほんのりと赤く染め上げ、冷え切っていた手足の先へとゆっくりと血を通わせていく。この温もりの中にいる時だけが、自分が自分であっていいのだと許されているような気がした。


「ずいぶんと陰気な顔をして座り込んでいるな、姉上」


低く、地鳴りのような声が耳朶を揺らした。顔を上げると、黒い毛皮を豪快に肩に巻き、全身から潮風の生臭い香りを放つポセイドンが立っていた。濡れたような濃藍色の瞳が、獲物を狙う海獣のようにギラギラと光っている。彼が近づくだけで、周囲の空気が重苦しく湿り気を帯び、ヘスティアの皮膚に粟粒のような鳥肌が立った。力尽くで引きずり込まれそうな深海の闇を思わせるその視線が、ヘスティアは昔から苦手でたまらなかった。


「……ポセイドン。またゼウスと口論でもしてきたの?」


ヘスティアは恐れを押し殺し、穏やかな声音を保ちながら問いかけた。ポセイドンの荒々しい感情が、まるで高波のように自分へと押し寄せてくるのが肌で感じ取れたからだ。触れ合えば骨まで砕かれそうなほどの猛々しい力。それが自分に向けられているという事実に、背筋が生温かい汗で濡れていく。


「あの傲慢な小僧が、また海の祭壇に捧げる牛の数に難癖をつけてきたのだ。忌々しい。……だが、お前のこの場所に来ると、幾分か頭の熱が引く。どうだ、ヘスティア。いい加減に私の宮殿に来い。深海の底に、真珠と珊瑚で埋め尽くしたお前だけの寝所を作ってやる。冷たい海の底なら、あのような騒がしい連中の声も届かんぞ」


ポセイドンが伸ばしてきた逞しい腕には、太い血管が浮き出ており、海水で濡れた獣のような熱気が宿っていた。その指先が自分の肩に触れそうになった瞬間、ヘスティアの全身を激しい拒絶の戦慄が駆け抜けた。奪われる、と心が叫んでいた。海に呑まれれば、この小さな炎も、穏やかな温もりも、すべてが一瞬で黒い水底に消え去ってしまう。


「やめて、ポセイドン!」


思わず声を荒らげると、ヘスティアは立ち上がり、炉の火を背にして両手を広げた。生成りのキトンがぱさりと擦れ合う。その瞳には、普段の柔和さからは想像もつかないほどの強い光が宿っていた。


「私はどこにも行かないわ。海の底の冷たい真珠も、天上の黄金も、私には毒でしかないの。私が守りたいのは、このささやかな火の温もりだけ。誰かの支配下に下るくらいなら、私は永遠に処女のまま、この炉の灰に埋もれて消えてしまいたい」


ポセイドンは伸ばしかけた手を止め、わずかに眉をひそめた。姉の目の奥に揺らめく、決して消えることのない頑なな光に気圧されたかのように、男は忌々しそうに息を吐き捨てた。


「……頑固な女だ。そんな煤まみれの場所で、一生を終えるつもりか」


「ええ、喜んでそうするわ」


ヘスティアが毅然として答えると、ポセイドンは吐き捨てるように嘲笑を残し、湿った足音を響かせながら去っていった。


張り詰めていた空気がふっと緩んだ途端、ヘスティアの膝から力が抜け、床へとへたり込んだ。心臓が胸の裏側を激しく打ち鳴らしている。恐怖と安堵が入り混じり、指先が微かに震えていた。神々の求愛は、愛などではない。ただの所有欲と支配欲の押し付け合いに過ぎない。そんなものに身を委ねてしまえば、自分という存在は瞬く間に擦り減り、灰のように散ってしまうだろう。


ヘスティアは震える息を吸い込みながら、炉の中に積まれた干しイチジクと干し葡萄を小皿に取った。乾燥して皺の寄った果実を一つ、口に含む。噛みしめると、太陽の恵みをぎゅっと凝縮したような強い甘みと、野葡萄の微かな渋みが舌の上に広がり、引き絞られていた神経をじんわりと解きほぐしていった。素朴で、確かな大地の味。これこそが、自分を繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。


「ヘスティア様……」


ふいに、弱々しい声が炉の片隅から聞こえた。視線をやると、神々に仕える人間の召使の少女が、怯えたように柱の影から顔を覗かせていた。粗末な麻の着物を着たその身体は、寒さと恐怖で小刻みに震えている。オリュンポスの神々の気まぐれな怒りや諍いに巻き込まれ、いつ雷や波に呑まれるかと怯えながら日々を生きる哀れな定命の者。ヘスティアは、その姿に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。神々の身勝手な振る舞いに怯えるその瞳は、先ほどまでの自分自身の心の鏡写しのようだった。


「おいで。寒かったでしょう」


ヘスティアは柔らかな笑みを浮かべ、手招きをした。少女はおずおずと歩み寄り、炉の前に膝をつく。ヘスティアは、まだ温かい麦パンを惜しみなくちぎり、小皿に残っていたオリーブ油を少し浸して少女の手のひらに乗せてやった。緑色を帯びた新鮮な油は、若草のような青々しい香りを放っている。


「召し上がれ。神々のための贅沢な酒肉よりも、こういうもののほうが、お腹を優しく温めてくれるわ」


少女は驚いたように目を見張り、それから泣きそうな顔をしてパンにかぶりついた。カリッとした皮と、油を吸ってしっとりとした中身を咀嚼するたびに、少女の強張っていた頬の筋肉が緩んでいく。


「……すごく、美味しいです。ヘスティア様、私、さっきオリュンポスの広場で神々が怒鳴り合っているのを見て、怖くてたまらなくて……」


「ええ、わかるわ。あの声は、魂を削るものね」


ヘスティアは少女の痩せた肩にそっと手を置いた。人間の冷え切った体温が、ヘスティアの掌を通じて伝わってくる。神々は人間を蟻のように見下すが、ヘスティアにとっては、この脆く傷つきやすい命の鼓動こそが愛おしかった。自分と同じように痛みに怯え、寒さに震え、小さな温もりに救いを求める存在。


「でも、安心して。この火がある限り、ここには誰も無礼な真似はさせないわ。私がゼウスに約束させたの。神々であれ人間であれ、この炉端に身を寄せる者は、誰からも害されてはならないってね」


少女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ち、素焼きの皿を濡らした。その温かい涙を見て、ヘスティアの胸に巣食っていた冷たい孤独が、ふわりと溶けていくのを感じた。


自分の居場所は、華やかな黄金の神座などではない。傲慢な神々の寵愛を競い合うことでもない。こうして、冷え切った誰かの手を温め、飢えた者に一切れのパンを分け与え、静かに燃える火を見守ること。それこそが、自分がオリュンポスに留まる唯一の理由であり、果たすべき役目なのだ。


夜が深まるにつれ、山頂の風は一段と冷たさを増し、宮殿の石柱を唸らせた。だが、炉の中の赤い熾火は、まるで小さな命のようにトクトクと静かな熱を放ち続けている。薪が爆ぜる音と、満ち足りた少女の寝息が、静寂を満たしていた。ヘスティアは膝の上の布地に触れ、もう一度、深く穏やかな息を吸い込んだ。胸の奥底に灯った小さな火は、外の冷酷な嵐に決して吹き消されることはないと、彼女は確信していた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。