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炉の火を守る女神 ヘスティア

創作ギリシャ神話 ヘスティア


炉の火を守る女神


 ヘスティアは、自分の火が誰かの役に立っていることを嬉しく思う一方で、その温かさを誰も自分自身のものとしては見てくれないことに、ほんの少し寂しさを覚えていた。


 オリュンポスの宮殿では、朝から神々の笑い声が響いている。白い大理石の柱の間を春の風が通り抜け、庭に咲く月桂樹の葉を揺らしていた。ヘスティアは薄い琥珀色のキトンに深紅のヒマティオンを重ね、中央の炉の前に座っていた。栗色の髪は首の後ろで緩く結い、金の留め具で留めている。


 炉の上では、蜂蜜を加えた麦粥が静かに煮えていた。焼きたての大麦パンにはオリーブ油を塗り、山羊の乳で作った白いチーズと、黒く熟した無花果を添えてある。神々の食卓としては質素だが、ヘスティアはこうした食事が好きだった。


「姉上、また朝から働いているのか」


 振り向くと、ゼウスが立っていた。青い刺繍のある白いキトンを着て、肩には紫の外套を掛けている。


「働いているつもりはありませんよ。皆が温かいものを食べられるようにしているだけです」


「それを働くと言うのだ。今日はアポロンが新しい竪琴を披露する。姉上も来るといい」


「ありがとう。でも、この粥を見ていなくては」


「火を弱めればよかろう」


「そういうわけにもいきません。火は放っておくと、すぐに機嫌を損ねますから」


 ゼウスは笑ったが、ヘスティアは微笑むだけだった。神々は雷や海や戦争については熱心に語るのに、毎日燃えている炉の火については、誰も尋ねようとしない。


 やがてデメテルが厨房へやって来た。麦の穂を編み込んだ緑の衣をまとい、腕には新鮮な野菜を抱えている。


「姉さん、今朝のパンはいい香りね」


「あなたが育てた麦がよかったのよ」


「それでも、こんなにふっくら焼けるのは姉さんのおかげだわ」


 デメテルはパンを一切れちぎり、口に運んだ。


「おいしい。外は香ばしくて、中は柔らかい。ペルセポネにも食べさせたいわ」


「今度来たときに焼いてあげましょう」


「ねえ、姉さん。たまには炉のそばを離れたらどう?」


 ヘスティアは木匙を動かす手を止めた。


「私が離れたら、誰が火を守るの?」


「誰かに頼めばいいでしょう」


「誰に?」


 デメテルは答えに詰まった。ヘスティアはその沈黙を責める気にはなれなかった。誰も悪気がないことを知っていたからだ。


 昼になると、アポロンの竪琴が宮殿に響き渡った。銀の弦が奏でる澄んだ音色は、遠く厨房まで届いた。神々の歓声が上がるたび、ヘスティアは少しだけ顔を上げた。


「楽しそうね」


 そう呟いたとき、炉の火が小さく揺れた。


「あなたも聞きたいの?」


 もちろん返事はない。それでもヘスティアは、火が自分の話し相手になってくれているように感じた。


 その午後、宮殿に一人の老女が訪ねて来た。人間の世界から山道を登って来たという。粗い麻の衣は土埃に汚れ、足には擦り切れた革紐の履物を履いていた。


「ヘスティア様に、お目にかかりとうございます」


 門番からそう伝えられ、ヘスティアは不思議に思った。人間が神々を訪ねるときは、たいていゼウスやアテナ、あるいはアポロンに願いを持って来るものだった。


 老女は炉の前に案内されると、深々と頭を下げた。


「女神様、どうかお礼を申し上げさせてください」


「私に? 何かして差し上げたかしら」


「昨年の冬、私の村は大雪に閉ざされました。食べ物も少なく、幼い孫が熱を出しましてね。もう駄目かと思った夜、家の炉だけは消えずに燃えてくれたのです」


 老女の声は震えていた。


「私はその火で粥を煮て、孫の身体を温めました。春になって、あの子はまた庭を走り回れるようになりました」


「それはよかったわ」


「村の者は皆、ゼウス様が雪を止ませてくださったおかげだと言いました。でも、私には分かるのです。あの夜、私たちを生かしてくれたのは、炉の火でした」


 ヘスティアの胸が、静かに熱くなった。


「それで、私を訪ねてくださったの?」


「はい。たいしたものは持って来られませんでしたが」


 老女は小さな布包みを差し出した。中には、丸く焼かれた大麦パンが一つ入っている。表面には少し焦げ目があり、手でこねた跡が残っていた。


「孫と一緒に焼きました。女神様に召し上がっていただきたくて」


 ヘスティアは両手でパンを受け取った。


「ありがとう。とても嬉しいわ」


「こんな粗末なもので、申し訳ありません」


「いいえ。私には何よりの贈り物です」


 パンはすでに冷めていた。それでも一口食べると、麦の素朴な甘みが広がった。ほんの少し塩が強く、端のほうは硬かったが、ヘスティアには宮殿のどんなご馳走よりおいしく感じられた。


「お孫さんは、お元気?」


「ええ。今では私よりよく食べます。毎朝、炉の前に座って『火の女神様、おはよう』と言うのですよ」


 ヘスティアは思わず笑った。


「まあ。私にも挨拶をしてくれるのね」


「はい。あの子は、火には女神様が住んでいると信じています」


 老女が帰ったあと、ヘスティアは長い間、炉の前に座っていた。宮殿の奥からはまだ竪琴の音が聞こえていたが、もう寂しくはなかった。


 夕方、ゼウスが再び厨房へ顔を出した。


「姉上、今日の演奏は素晴らしかったぞ。聞き逃したのは残念だったな」


「ええ。でも、私にも素敵なお客様がいらしたの」


「ほう。誰だ?」


「人間のおばあさんよ。お孫さんと焼いたパンを届けてくださったの」


 ゼウスは卓上の小さなパンを見て首を傾げた。


「それだけのために、山を登って来たのか」


「そうよ」


「人間とは不思議なものだな」


「本当にね」


 ヘスティアは微笑んだ。


「でも、ゼウス。私は今日、とても大切なことを教わったの」


「何を?」


「火は、燃えているだけでは意味がないと思っていたわ。誰かが使い、誰かの役に立って、初めて価値があるのだと」


「違うのか?」


「ええ。火がそこにあるだけで、安心できる人もいるのね」


 ゼウスはしばらく黙って炉を見つめた。


「姉上の火が消えたら、この宮殿も随分寒くなるだろうな」


「それは困るでしょう?」


「ああ。大いに困る」


 珍しく真面目な顔で答える弟を見て、ヘスティアは声を立てて笑った。


 夜になると、神々は食卓を囲んだ。香草を詰めた羊の焼き肉、オリーブの実、蜂蜜をかけた無花果が並び、葡萄酒の香りが広間を満たした。ヘスティアは皆の皿に料理を取り分けながら、ふと老女の言葉を思い出した。


 遠い人間の村では、今頃、小さな男の子が炉の前に座っているのだろう。薪がはぜる音を聞きながら、祖母の焼いたパンを食べているかもしれない。


「姉上」


 デメテルが声をかけた。


「今日は何だか嬉しそうね」


「ええ。とても」


「何かいいことがあったの?」


「私の火を、好きだと言ってくれる人がいたのよ」


 デメテルは少し驚いたあと、柔らかく笑った。


「そんなの、私だって好きよ。姉さんの火も、姉さん自身も」


「ありがとう」


 ヘスティアは妹の手を握った。温かな指先だった。


 食事が終わり、宮殿が静まり返った頃、ヘスティアは最後に炉の薪を整えた。赤い炎がゆっくりと揺れ、石壁に金色の光を映している。


 明日も、この火を守ろう。


 誰かが帰って来たとき、冷えた手をかざせるように。悲しい夜には温かな粥を煮られるように。喜びの日には、大勢でパンを分け合えるように。


 ヘスティアは炉の前に膝をつき、小さな声で囁いた。


「おやすみなさい。明日もよろしくね」


 薪がぱちりと音を立てた。


 それは、遠い村から届いた返事のようにも聞こえた。



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