創作ギリシャ神話 ペルセポネ
創作ギリシャ神話 ペルセポネ
第一話 冥府の王は、春の娘を知らない
ペルセポネは、母デメテルの愛情が少しだけ息苦しかった。母を嫌っているわけではない。むしろ、誰よりも大切に思っていた。それでも、花を摘む場所も、食べるものも、着る衣も、母が決めてしまう毎日に、胸の奥で小さな不満が育っていた。
「お母様、今日は一人で野原へ行ってもいいでしょう?」
「いけません。昨日も言ったでしょう。遠くへ行くと危ないのです」
「でも、もう子供ではありません」
「私にとっては、いつまでも可愛い娘です」
デメテルはそう言って、娘の長い金髪を櫛で梳いた。朝日を浴びた髪は黄金の麦穂のように輝き、部屋には薔薇の香油の甘い匂いが漂っている。
ペルセポネは薄桃色のキトンを着ていた。肩を留める金の飾りには小さな花が彫られ、腰には若草色の帯が結ばれている。母が選んだ衣は美しかったが、彼女自身は空の色をした青い衣を着てみたかった。
「今日はニンフたちと一緒にいなさい。お昼には戻るのですよ」
「はい、お母様」
返事をしながら、ペルセポネはため息を隠した。
そのころ、地上からはるか下にある冥府では、ハデスが冷めた朝食を前にしていた。
黒い大理石の食卓には、焼いた羊肉、黒オリーブ、麦のパン、蜂蜜をかけた無花果が並んでいる。しかし、冥府の王はほとんど手をつけていなかった。
「陛下、またお食事を残されるのですか」
老いた従者が心配そうに尋ねた。
「食欲がない」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「昨日も食欲がなかったのだ」
「それでは明日も同じでしょうな」
ハデスは思わず従者を見た。
「お前は私に説教をしているのか?」
「いいえ。心配しているのでございます」
従者が静かに答えると、ハデスはそれ以上何も言えなくなった。
冥府は静かだった。死者たちは決められた場所へ向かい、裁判官たちは魂の生前の行いを調べ、ケルベロスは門を守っている。王としての仕事に不足はない。
それなのに、ハデスは時折、自分が誰からも必要とされていないような寂しさを覚えた。
「地上は今、春だそうだな」
「はい。花々が咲き乱れているとか」
「花か……」
「ご覧になりますか?」
「私が地上へ出れば、人々は怯える」
「陛下は恐ろしいお方ではありません」
「死を司る王を、誰が喜んで迎えるというのだ」
従者は答えなかった。
ハデスは黒い外套を肩に掛け、静かに席を立った。
地上へ出たペルセポネは、久しぶりに胸いっぱいの空気を吸い込んだ。
春の野原には白い水仙や紫の菫が咲き、柔らかな風が草を揺らしている。蜜蜂の羽音が耳元をかすめ、遠くでは小川がさらさらと流れていた。
「ペルセポネ様、こちらにいらしてください!」
水のニンフ、キュアネが手を振った。
「見てください。この花、とても綺麗でしょう?」
「まあ、本当! お母様に見せたら喜ぶわ」
「またお母様ですか?」
キュアネが笑うと、ペルセポネは頬を膨らませた。
「だって、何をしていてもお母様のことを考えてしまうの」
「それほど大切にされているのですよ」
「わかっているわ。でも、一度くらい自分で何かを決めたいの」
そう言って花を摘もうとしたとき、ペルセポネは丘の向こうに黒い衣の男が立っていることに気づいた。
男は背が高く、漆黒の髪を後ろへ流し、銀の留め金で重い外套を留めていた。顔立ちは端正だったが、どこか疲れたような陰りがある。
ペルセポネは不思議に思った。
春の野原にいるのに、その男だけが冬の夜をまとっているようだった。
「こんにちは!」
彼女が声をかけると、男は驚いて振り向いた。
「……私に言ったのか?」
「ほかに誰がいるのです?」
「私が怖くないのか?」
「どうして怖がる必要があるの?」
男は答えに困った。
ペルセポネは彼のそばまで歩いていった。足元の草がくすぐったく、摘んだ花の香りが指先に残っている。
「あなた、お名前は?」
「ハデスだ」
「ハデス……どこかで聞いたことがあるわ」
「冥府の王だ」
その言葉を聞いた瞬間、後ろにいたニンフたちが悲鳴を上げた。
「ペルセポネ様! お離れください!」
「冥府の王です! 危険です!」
ペルセポネも驚いたが、目の前の男は怒るどころか、悲しそうに視線を伏せていた。
「そうだ。私は恐れられる存在だ。もう行きなさい」
「待って」
彼女は思わず呼び止めた。
「あなた、何か悪いことをしたの?」
「何?」
「だって、皆が怖がるからといって、あなたが悪い人とは限らないでしょう?」
ハデスは長い間、彼女を見つめた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
「……変わった娘だな」
「よく言われるわ」
「名前を聞いてもいいか?」
「ペルセポネよ。母はデメテル」
ハデスの表情がわずかに変わった。
「豊穣の女神の娘か」
「ええ。あなたはお母様をご存じ?」
「もちろんだ。立派な女神だ」
「そうでしょう? でも、少し心配性なの」
ペルセポネは近くの岩に腰掛け、隣を指さした。
「座らない?」
「私が?」
「ほかに誰がいるの?」
先ほどと同じ答えに、ハデスは小さく笑った。
その笑顔を見て、ペルセポネは胸が温かくなった。怖い王様だと聞いていたのに、笑うと意外なほど優しい顔になる。
ハデスは少し離れて腰を下ろした。
「冥府には花が咲くの?」
「ほとんど咲かない」
「鳥は?」
「地上のようには歌わない」
「では、毎日何をしているの?」
「死者の裁きや国の管理だ」
「お休みは?」
「……考えたことがない」
ペルセポネは呆れたように目を丸くした。
「それでは疲れてしまうわ!」
「王とはそういうものだ」
「王様だって休んでいいはずよ。美味しいものを食べたり、お散歩したりしないの?」
「食事はする」
「何を食べるの?」
「今日は羊肉とパンと無花果だった」
「美味しそう! でも、お野菜は?」
「オリーブがあった」
「それだけ?」
「それだけだ」
「まあ!」
ペルセポネは本気で心配になった。
「今度、私が作ったお料理を食べさせてあげたいわ。お母様に教わった麦のお粥は、蜂蜜と山羊の乳を入れるととても美味しいのよ」
「君が料理を?」
「ええ。お母様は危ないから火を使わせてくださらないけれど、少しだけなら作れるわ」
「それは料理を作れると言っていいのか?」
「失礼ね!」
ハデスが声を立てて笑った。
ペルセポネもつられて笑った。風が二人の間を通り抜け、彼女の金髪をふわりと持ち上げた。
ハデスは、その光景から目を離せなかった。
彼女は自分を恐れない。冥府の王という肩書きではなく、一人の相手として話してくれる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「ペルセポネ」
「なあに?」
「君はいつも、そんなふうに誰とでも話すのか?」
「そんなふうって?」
「相手が何者かを気にせずに」
ペルセポネは少し考えた。
「だって、名前や身分だけでは、その人がどんな気持ちなのかわからないでしょう?」
ハデスは返事をしなかった。
彼女の言葉が、長い年月の間に冷えきった胸の奥へ、ゆっくり染み込んでいくようだった。
そのとき、遠くからキュアネの声が響いた。
「ペルセポネ様! もうお戻りにならないと!」
「あら、もうそんな時間?」
ペルセポネは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい。お母様が待っているの」
「ああ。帰るといい」
ハデスも立ち上がったが、その声には寂しさが混じっていた。
ペルセポネはそれに気づいた。
「また会える?」
「……私にか?」
「ええ。まだ聞きたいことがたくさんあるもの」
「デメテルは喜ばないだろう」
「お母様には、ちゃんとお話しするわ」
ハデスは困ったように微笑んだ。
「君は本当に不思議な娘だ」
「あなたも不思議な王様よ」
ペルセポネは手に持っていた白い水仙を一本差し出した。
「これ、あげる」
「私に花を?」
「ええ。冥府にはあまり咲かないのでしょう?」
ハデスは花を受け取った。白い花弁は驚くほど柔らかく、かすかな甘い香りがした。
「ありがとう。大切にしよう」
「枯れたら、また持ってきてあげるわ」
彼女は嬉しそうに手を振り、ニンフたちのところへ駆けていった。
ハデスはその姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
冥府へ戻ったころには、いつもの夕食が用意されていた。
「陛下、本日は鶏肉の香草焼きでございます」
「そうか」
「それから、野菜も増やしてみました」
ハデスは従者を見た。
「なぜだ?」
「陛下のお体を考えまして」
「……そうか。ありがとう」
従者は驚いた。王が礼を言うことは珍しくないが、今夜の声はいつもよりずっと柔らかかった。
さらに驚いたのは、王が白い水仙を銀の杯に挿し、食卓の中央へ置いたことだった。
「陛下、その花は?」
「地上でもらった」
「どなたから?」
ハデスはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「私を怖がらなかった娘からだ」
その夜、冥府の王は久しぶりに夕食を残さなかった。
一方、地上ではデメテルが娘の帰りを待っていた。
「ペルセポネ、今日は楽しかった?」
「ええ、お母様。とても!」
「何か変わったことはなかった?」
ペルセポネは少し迷ったあと、正直に答えた。
「今日ね、ハデス様にお会いしたの」
デメテルの手から、葡萄酒を入れた杯が滑り落ちた。
赤い酒が白い床に広がる。
「……今、何と言ったの?」
母の顔から血の気が引いていくのを見て、ペルセポネは初めて、自分が出会った相手のことを何も知らないのだと気づいた。
それでも、あの寂しそうな笑顔を思い出すと、怖い人だったとはどうしても思えなかった。
「お母様、ハデス様は、とても優しい方だったわ」
デメテルは娘の肩を強く抱いた。
「二度と会ってはいけません」
「どうして?」
「お願いだから、私の言うことを聞いて」
その声は怒っているというより、何かを失うことを恐れて震えていた。
ペルセポネは母を抱き返したが、胸の奥には納得できない気持ちが残った。
なぜ、誰もハデスのことを知ろうとしないのだろう。
そして、なぜ母は、あんなにも悲しそうな顔をしたのだろう。
その答えを、彼女はまだ知らなかった。




