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『デロスの産声』

波が、岩肌を噛み砕くように砕け散っていた。


飛沫は霧となって立ち込め、塩の匂いが冷えた風に乗って吹きつける。暗緑色のエーゲ海は荒れ狂い、まるで天と地そのものが彼女を拒絶しているかのようだった。


レトは濡れた岩壁に背を預け、崩れ落ちるように膝をついた。

重く膨らんだ腹に両手をあてがう。その内側で、二つの命が激しく胎動していた。片方は燃えるような熱を帯び、もう片方は凍てつくほどに澄み切った光を放ち、彼女の肉体を内側から引き裂かんばかりに蠢いている。


「ああ……っ、う……!」


痛みが背骨を駆け上がり、レトの唇から乾いた呻きが漏れた。

かつてティタン神族の最も穏やかで優しい女神と讃えられた面影は、もはやどこにもない。引き裂かれた衣は泥と潮水で汚れ、絹のようだった銀灰色の髪は潮風に絡まり、頬には枯れ果てた涙の跡が白く浮き出ていた。


「もう……どこにも、ないというの……?」


かすれた声は、逆巻く波音に掻き消された。


大神ゼウスの愛を受け、その胤を宿した。ただそれだけの罪だった。

オリュンポスの正妻、嫉妬の炎に狂う大女神ヘラは、天と地に向かって呪詛の宣託を下したのだ。

――『陽の当たるいかなる大地、いかなる島も、この女に産屋を貸すことまかりならぬ』


トラーキアの深い森は、レトの足音が近づくや否や木々を揺らして拒絶した。

『立ち去れ、レト! ヘラ様の雷を恐れぬか!』

肥沃なアッティカの大地は、彼女が足を踏み入れた途端にひび割れ、毒虫を吐き出した。

『我らの麦を枯らさないでおくれ! ここはお前の死に場所ではない!』


あらゆる都市、あらゆる島、あらゆる岩礁が、狂える女王の怒りを恐れて扉を閉ざした。巨大な大蛇ピュートーンが地を這い、彼女の影を執拗に追い詰めた。逃げて、逃げて、地の果てまで追い縋られ、いま辿り着いたのが、この波間に頼りなく揺れる荒涼たる岩塊だった。


「お前は……誰だ」


低く、波の底から響くような声がした。


レトが顔を上げると、岩肌が微かに蠢き、老いた巨人のような顔の起伏を結んでいた。草木も生えぬ、痩せ細った灰色の島。どこにも根を下ろさず、波に揺られるまま海を彷徨う流浪の岩礁――オルテュギア。


「私は……レト。コイオスとポイベの娘……」


レトは脂汗に塗れた額を岩に押し当て、震える指先で冷たい石肌を撫でた。


「知っているぞ」

島は乾いた擦過音を立てて呟いた。

「ゼウスの寵愛を受け、ヘラの呪いを買った哀れな女神よ。だが、疾く去るがいい。私にはお前を受け入れる力などない。見ての通り、私は海底に根すら持たぬ、浮き草のような漂流岩にすぎぬのだから」


「お願い……オルテュギア、聞いて……!」


レトは激痛に顔を歪めながら、すがりつくように両腕で岩を抱きしめた。


「私を哀れんでとは言わない! 私の命がここで尽きても構わない! でも……この子たちを……! 腹の中で、この子たちが泣いているの。もう、息ができないと……外の光を見たいと、もがいているのよ!」


「断る」

島の声は冷酷だった。

「ヘラ様の怒りは海を沸騰させ、天を焦がす。お前を匿えば、私はゼウスの妻によって海の底、暗黒のタルタロスへと沈められるだろう。神々の諍いに巻き込まれるのは御免だ。私はただ、波に漂っていたいのだ」


「あなたは、縛られていない!」


レトの喉から、血を吐くような叫びが迸った。


「大地でもない、確固たる島でもない……波間に漂うあなただからこそ、ヘラの呪いは届かない! 『陽の当たる大地』に属さない、孤独なあなただけが……この子たちの命を救えるの!」


「……それがどうした。私に何の利があるというのだ?」

島は嘲るように身を揺らし、周囲の波を白く泡立たせた。

「私は見捨てられた岩塊だ。草木も実らず、羊の一頭も飼えず、誰からも愛されず、崇められもせぬ。そんな私が、なぜ神々の呪いを背負ってまで、お前を助けねばならん?」


鋭い陣痛が、レトの全身を貫いた。

「ああぁぁっ……!」

視界が真っ白に染まる。胎内で、二つの力が激突するように渦巻いていた。黄金の矢のような熱と、銀の弓のような冷徹な光。母の肉体を苗床にして、神となるべき存在が無理やりに殻を破ろうとしている。


レトは爪が割れ、血が滲むのも構わず、岩肌を強く掴んだ。その瞳に、死の淵から這い上がるような、恐ろしくも神聖な光が宿る。


「……誓うわ」


「何だと?」


「オルテュギア、あなたに誓う! 冥府の川ステュクスにかけて、決して破れぬ神々の誓いを立てる!」


レトは息を継ぎ、一言一言に己の魂を削るように言霊を込めた。


「もし……もしあなたが私に産屋を貸し、この子たちを世に出してくださるなら……! 私が産む最初の子、輝ける太陽の神アポロンの最初の神殿を、あなたの胸の上に建てさせましょう! 世界中の人間が、王も、詩人も、貧しき者も、あなたを目指して海を渡ってくる! 金銀の供物が山と積まれ、百頭の牛があなたの上で捧げられる! あなたはもはや、見捨てられた漂流岩ではない……世界で最も崇高な、神託の聖域となるのよ!」


島が、ぴたりと揺れを止めた。


風の音だけがごうごうと鳴り響く。

灰色の岩肌に刻まれた起伏が、レトの血まみれの指先を、そしてその奥にある決死の眼差しをじっと見つめていた。


「……まことか」


「神々の名において、決して違えはしない! 私の命、私の神性、すべてを担保にしてもいい! だから……お願い……!」


レトの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、渇いた岩肌に吸い込まれていった。それは懇願であり、取引であり、何よりも子を救わんとする母の、剥き出しの咆哮だった。


沈黙ののち、海の底深くから、地鳴りのような重い振動が響き渡った。


ゴゴゴゴ……と音を立てて、海底から巨大な四本の金剛石の柱がせり上がり、漂う島をしっかりと海底に繋ぎ止めた。海神ポセイドンが、レトの悲痛な祈りに応え、島を大地へと固定したのだ。


島が、低く答えた。


「……よかろう、レトよ。我が身をお前の産屋とせよ。我が名はオルテュギアより改め、顕れし島――『デロス』とならん」


「ああ……ありがとう……、ありがとう、デロス……!」


レトは崩れ落ち、島の中央へと這っていった。そこには、吹き荒れる潮風に耐えるように、一本の痩せたオリーブの木が根を張っていた。


レトはその幹に両腕を回し、しがみついた。

しかし、試練は終わらなかった。


天上に君臨するヘラは、なおも諦めていなかったのだ。出産の女神エイレイテュイアを黄金の雲の中に閉じ込め、地上へと降りることを禁じていた。産褥の女神がいなければ、神の子は生まれることができない。


一日が過ぎた。三日が過ぎた。五日が過ぎ、七日が過ぎた。

レトの苦悶は九日九晩に及んだ。


「うああああっ! お母様……! どなたか……早く……!」


オリーブの樹皮は、レトが爪を立てたことで引き裂かれ、樹液を涙のように流していた。レトの全身は熱病に侵されたように焼け焦げ、喉はひび割れ、もはや叫び声すら掠れた呼気となって漏れるばかりだった。

神の肉体でありながら、死の影がその輪郭を侵食し始めていた。


その凄惨な光景に、オリュンポスの女神たち――ディオーネ、レアー、テミス――がいたたまれずにデロスの浜辺に集まってきた。だが、ヘラの目を盗んでエイレイテュイアを連れてこない限り、誰も手を出せない。


『虹の女神イリスよ!』女神たちが叫ぶ。『ヘラ様に隠れて、エイレイテュイアを連れてくるのです! 黄金の首飾りを授けると約束なさい!』


時は、瞬刻を争っていた。

レトの瞳の光が、ふっと薄れかけたその時――。


天から、一筋の虹が島へと突き刺さった。

光の中から、輝く産褥の女神エイレイテュイアが駆け下りてくる。


「レト! 今です!」


エイレイテュイアの手が、レトの額に触れた瞬間、堰を切ったように奇跡が始まった。


「生まれろ……! 私の光……世界を照らす、私の子供たちよッ!!」


レトの最後の絶叫が、天蓋を突き破った。


まず、銀の光を纏った娘、アルテミスが滑り出た。生まれたばかりの幼き女神は、母の苦痛を救うため、自ら立ち上がって母の産褥を助けた。

そして――。


ゴオオォォッ!


天が割れたかのような轟音とともに、目も眩むばかりの黄金の光が炸裂した。

弟神、アポロンの誕生だった。


その瞬間、荒れ狂っていたエーゲ海の波が、鏡のように静まり返った。

暗雲は瞬く間に四散し、紺碧の空からあたたかな陽光が、余すところなくデロス島へと降り注いだ。


灰色の、痩せ細っていたはずの岩肌から、奇跡のように無数の金色の百合が芽吹き、一斉に花を開いた。島全体が、芳しい香りと、黄金の光に包まれていく。白鳥たちが空を七度旋回し、歓喜の歌を囀り始めた。


「……あ……」


オリーブの木陰で、レトはぐったりと横たわっていた。

乱れた髪が、金色の光に透けて輝いている。その腕の中には、太陽の輝きを宿した男児と、月の静謐さを湛えた女児が、仲睦まじく寄り添っていた。


アポロンが、小さな手を開いて母の頬に触れた。その掌から、尽きることのない温もりと生命の力が、疲れ果てた母の身体へと流れ込んでくる。


レトの目から、今度は苦痛のためではない、温かな涙が幾筋もこぼれ落ちた。


「ああ……私の光……。私の愛しい、神々よ……」


レトは二人を抱きしめ、頬を寄せた。

九日九晩の地獄のような苦しみも、世界中から拒絶された孤独も、この小さな温もりを胸に抱いた瞬間、すべてが聖なる喜びに昇華されていった。


島が、誇らしげに、温かな潮騒の音を立てて囁いた。

『見よ、レト。お前の流した涙が、我が土を黄金に変えた。世界は今日から、この場所を光の聖地と呼ぶだろう』


レトは微笑んだ。その顔には、もはや追われる者の怯えはなかった。

世界で最も美しく、最も力ある双子神の母となった女神は、黄金の花々が咲き乱れる大地の上で、誇り高く空を見上げた。


遥かな天上のオリュンポスへ、そして嫉妬に震える女王ヘラへ向けて、レトの澄んだ瞳が、勝利と慈愛の光を静かに投げかけていた。



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