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『レト――世界に拒まれた女神』

創作ギリシャ神話


『レト――世界に拒まれた女神』


オリュンポスの頂には、永遠の春があった。


黄金の宮殿には神々の笑い声が響き、白い雲の上を美しい鳥たちが舞っていた。


しかし、その夜。


一人の女神が、月明かりの庭園で泣いていた。


その名はレト。


ティタン神族の血を引く、美しく穏やかな女神だった。


「どうして……どうして私なの?」


レトは震える手で腹を押さえた。


そこには二つの新しい命が宿っていた。


背後から、低い声が響いた。


「レト」


振り向くと、神々の王ゼウスが立っていた。


「ゼウス様……」


「泣いているのか?」


「あなたには分からないでしょう」


レトは涙をぬぐった。


「私はあなたを愛しました。それが罪なのですか?」


ゼウスは黙った。


「あなたには王座があります。雷霆があります。世界を支配する力があります」


彼女は一歩近づいた。


「でも、私には何があるの?」


「私の愛がある」


「愛?」


レトは悲しげに笑った。


「では、その愛で私を守ってください」


ゼウスは目を伏せた。


彼の正妻ヘラは、すでにレトの妊娠を知っていた。


その怒りは、神々さえ震え上がらせるほどだった。


「ヘラには私から話す」


「いつ?」


「時が来れば」


「その時まで、私はどこにいればいいのですか!」


レトの叫びが、夜の庭園に響いた。


ゼウスは答えなかった。


その沈黙こそが、彼女への答えだった。


翌朝。


オリュンポスの大広間。


女王ヘラは、黄金の玉座に座っていた。


その瞳には、冷たい炎が宿っていた。


「レトをここへ」


神々の使者が彼女を連れてきた。


「お呼びでしょうか、ヘラ様」


「顔を上げなさい」


レトが顔を上げると、ヘラはその腹を見つめた。


「そこに、ゼウスの子がいるのね」


「……はい」


「二人も?」


「はい」


ヘラの唇がゆっくり歪んだ。


「ずいぶん幸せそうね」


「私は……」


「黙りなさい!」


雷鳴のような声が広間を揺らした。


「私がどれほど屈辱を味わったか、あなたに分かる?」


「申し訳ありません」


「謝れば済むと思うの?」


レトは涙をこらえた。


「子どもたちには罪がありません」


ヘラは立ち上がった。


「ならば、その子どもたちを産む場所を探すことね」


「えっ?」


「聞きなさい、大地よ! 島々よ! 海に囲まれたすべての国よ!」


ヘラは両手を広げた。


「この女に出産の場所を与えてはならない!」


空が暗くなった。


遠くの山々が震え、海が荒れ狂った。


「そんな……!」


レトは膝をついた。


「お願いします! 私を罰するのは構いません。でも、子どもたちだけは!」


ヘラは冷たく言った。


「母になりたいのでしょう?」


そして顔を近づけた。


「ならば、母になる苦しみを知りなさい」


レトは歩いた。


山を越え、谷を渡り、荒れた海岸をさまよった。


最初にたどり着いたのは、緑豊かな島だった。


「お願いです!」


彼女は島の精霊に叫んだ。


「ほんの数日でいいのです。子どもを産ませてください!」


精霊は悲しそうに首を振った。


「ごめんなさい、レト様」


「なぜ?」


「ヘラ様が恐ろしいのです」


「私の子どもたちが死んでもいいのですか?」


精霊は泣きながら姿を消した。


次の島でも、同じだった。


その次の土地でも。


「ここには来ないでください!」


「ヘラ様に知られたら、私たちまで滅ぼされます!」


「どうか別の場所へ!」


レトの足は傷つき、白い衣は泥に汚れた。


腹の痛みは日に日に強くなった。


ある夕暮れ。


彼女は海辺の岩に座り込んだ。


波が足元を濡らした。


「ごめんね……」


腹を抱いてつぶやく。


「お母さん、あなたたちのために何もしてあげられない」


すると、腹の奥で小さな命が動いた。


レトは息をのんだ。


「……生きているのね」


もう一度、かすかな動き。


「そう……あなたたちは、まだ諦めていないのね」


彼女の目から涙がこぼれた。


「だったら、私も諦めない」


レトは立ち上がった。


「たとえ世界中の神々が敵になっても、必ずあなたたちを産んでみせる」


幾日もの放浪の末。


レトは、不思議な島を見つけた。


それは海の上を漂う、小さな岩だらけの島だった。


木々は少なく、豊かな畑もない。


波に揺られ、どこの国にも属していなかった。


「ここは……?」


島の奥から、か細い声が聞こえた。


「私はデロス」


レトは驚いた。


「島が話しているの?」


「ええ。私は世界のどこにも根を下ろせない、さまよう島」


デロスは寂しそうに言った。


「誰も私を必要としない。誰も私を故郷と呼ばない」


レトはゆっくり膝をついた。


「私と同じね」


「あなたも?」


「ええ。世界中から拒まれたの」


しばらく、波の音だけが響いた。


やがてデロスが尋ねた。


「あなたは何を望むの?」


「子どもを産みたい」


「ここで?」


「お願い。私を受け入れて」


デロスは震えた。


「でも、ヘラ様が怒るわ」


「分かっている」


「私を海の底へ沈めるかもしれない」


レトは唇をかんだ。


「無理なら、断ってもいいの」


立ち去ろうとした、その時。


「待って!」


デロスが叫んだ。


「あなたの子どもたちは、どんな神になるの?」


レトは腹を見つめた。


「分からない。でも、きっと……誰かの希望になってくれる」


長い沈黙。


そして島が答えた。


「ならば、ここで産みなさい」


「本当に?」


「私には何もない。でも、あなたの子どもたちが生まれたら、ここが誰かの故郷になるかもしれない」


レトは声を上げて泣いた。


「ありがとう……!」


その涙が岩に落ちた瞬間、小さな白い花が咲いた。


しかし、試練は終わらなかった。


出産の時が来ても、子どもたちは生まれなかった。


出産を司る女神エイレイテュイアが、ヘラによって足止めされていたのだ。


一日目。


「ううっ……!」


レトは岩にしがみついた。


二日目。


「お願い……誰か……!」


三日目。


声はかすれ、体力は失われていった。


七日目。


レトは意識を失いかけた。


「もう……駄目……」


島の精霊が必死に呼びかける。


「レト様! 眠ってはいけません!」


「苦しい……」


「もう少しです!」


「私は……母になれないの……?」


九日目。


ようやくエイレイテュイアがデロスに到着した。


その瞬間、島を包む空気が変わった。


最初に生まれたのは、銀色の月光を思わせる瞳を持つ女の子。


アルテミス。


レトは震える腕で娘を抱いた。


「あなたが……私の娘……」


赤ん坊は小さな手を伸ばした。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


そして、再び激しい陣痛が訪れた。


「まだ……もう一人……!」


レトは叫んだ。


「お願い! この子も無事に!」


やがて、黄金の光が島を包んだ。


男の子が生まれた。


アポロン。


その産声とともに、雲の切れ間からまばゆい光が差し込んだ。


海が輝き、白鳥たちが空を舞った。


レトは二人を抱き寄せた。


「アルテミス……アポロン……」


涙が頬を伝った。


「お母さんは、あなたたちに会いたかった」


そして、そっと微笑んだ。


「世界があなたたちを拒んでも、私は絶対に拒まない」


長い年月が流れた。


アルテミスは狩猟と野生の女神となり、アポロンは音楽、予言、光などを司る偉大な神となった。


しかし、レトの苦難を笑う者が現れた。


テーバイの女王ニオベだった。


「レトなど、たった二人しか子どもがいないではありませんか!」


女王は人々の前で高笑いした。


「私には多くの息子と娘がいる! なぜ私よりレトを崇めるのです!」


その言葉は、遠く離れたレトの耳にも届いた。


「……私の子どもたちを、侮辱したのね」


傍らにいたアルテミスが弓を握った。


「お母様、許せません」


アポロンも立ち上がった。


「母上がどれほど苦しんで私たちを産んだか、あの女は知らない」


レトは二人を見つめた。


「あなたたち……」


「母上の名誉は、私たちが守ります」


しかし、レトの表情は悲しかった。


「私は、あなたたちに復讐のために生まれてほしかったわけではないの」


アポロンは答えた。


「それでも、母上を踏みにじる言葉を見過ごすことはできません」


アルテミスの銀の弓が、月光を受けて輝いた。


その後、ニオベの家には恐ろしい悲劇が訪れる。


誇り高い女王は、愛する子どもたちを失い、深い悲しみの中で石になったと伝えられる。


レトはその知らせを聞き、静かに目を閉じた。


「母の悲しみを知る者が、また一人増えてしまった……」


勝利の喜びはなかった。


ただ、神々の世界の残酷さが胸に残った。


ある夜。


デロス島の海辺。


レトは一人、静かな波を眺めていた。


そこへアルテミスが現れた。


「お母様」


「アルテミス」


「なぜ泣いているのですか?」


レトは微笑んだ。


「昔を思い出していたの」


「つらかった日々を?」


「ええ」


アルテミスは母の隣に座った。


「私たちが生まれたことを、後悔したことはありますか?」


レトは驚いて娘を見た。


「どうしてそんなことを聞くの?」


「私たちのせいで、お母様は世界中をさまよったから」


レトは娘の手を握った。


「一度もないわ」


「本当に?」


「ええ。あなたたちは私の苦しみではなく、希望だったの」


そこへ、アポロンが黄金の竪琴を抱えて現れた。


「母上、私も聞きたいことがあります」


「何かしら?」


「母上は、ゼウス様を恨んでいますか?」


レトは遠い空を見つめた。


長い沈黙の後、答えた。


「恨んだ夜もあったわ」


二人の子どもは黙っていた。


「でも、私はもう、誰かを恨むために生きたくない」


「では、何のために?」


レトは二人を抱き寄せた。


「あなたたちが、自分の光を失わずに生きるためよ」


東の空が白み始めた。


アポロンの黄金の光が地平線を照らし、アルテミスの銀色の輝きが夜の空に残っていた。


かつて世界に拒まれた女神。


その女神が産んだ二人は、今や神々と人間の世界に欠かせない存在となっていた。


「お母様」


アルテミスがささやいた。


「私たちは、あなたの子どもで幸せです」


アポロンもうなずいた。


「あなたが諦めなかったから、私たちはここにいる」


レトの瞳から、静かに涙がこぼれた。


「ありがとう……」


彼女は二人を強く抱きしめた。


かつて、誰も彼女に居場所を与えなかった。


しかし、彼女は子どもたちのために居場所を探し続けた。


そして、何も持たなかった小さな島は、神聖な誕生の地となった。


デロスの白い花が、朝風に揺れる。


レトは空を見上げ、静かにつぶやいた。


「世界が私を拒んだとしても、私が愛することまで奪うことはできなかったのね」


黄金の朝日が海を染めた。


それは、誰にも祝福されなかった母が、長い苦しみの果てに見つけた光だった。


そして、デロスの海には、いつまでも穏やかな波の音が響いていた。


完。



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