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『雷霆の王は、娘の涙を知らない』

『雷霆の王は、娘の涙を知らない』


――創作ギリシャ神話・ゼウスと人間の少女――


 オリュンポスの山頂に、雷が落ちた。


 黄金の柱が震え、神々の酒杯から葡萄酒が跳ねる。


「ゼウス! またあなたね!」


 神々の女王ヘラが、玉座から立ち上がった。


「今度は何を怒っているのです!」


「人間どもだ!」


 天空の王ゼウスは、白銀の髭を逆立てた。


「雨が降らぬと文句を言い、降らせれば洪水だと騒ぐ! 晴れにすれば暑い、曇らせれば寒い! わしを何だと思っておる!」


「天候を司る神でしょう」


「そうだ!」


「ならば、少しは加減を覚えなさい」


「……おまえは昔から容赦がないな」


「結婚した日から変わっておりません」


 ヘラは涼しい顔で葡萄酒を飲んだ。


 そのとき、伝令神ヘルメスが翼の生えた履物を鳴らして飛び込んできた。


「父上! 下界から苦情です!」


「またか!」


「テッサリアの村で、三か月も雨が降っていません」


「雨を降らせればよかろう!」


「父上が『しばらく晴天にしてやる』とおっしゃったので」


「……いつだ?」


「三か月前です」


 ゼウスは咳払いした。


「神の三か月など、まばたきほどの時間だ」


「人間の畑では、小麦が枯れる時間です」


 ヘルメスの声が、珍しく静かだった。


 ゼウスは眉をひそめた。


「ならば今夜、雷雨を送ろう」


「雷雨では困るそうです」


「何だと?」


「村の少女が、こう祈っております。『雷はいりません。畑に染み込む雨をください』と」


 ゼウスの額に青い血管が浮いた。


「人間の小娘が、雷霆の王に注文をつけるだと!」


 ヘラは微笑んだ。


「会ってみたらいかが?」


「わしが?」


「ええ。神殿で怒鳴るより、よほど勉強になるでしょう」


 *


 翌朝。


 テッサリアの小さな村に、一人の老人が現れた。


 灰色の外套に、曲がった杖。


 ただし、立派すぎる白髭だけは隠しきれていない。


「おい、小娘!」


 老人は、井戸の底を覗き込んでいた少女に声をかけた。


「水を一杯くれぬか!」


 少女は振り返った。


 十二歳ほどだろうか。


 日に焼けた頬。擦り切れた麻の服。裸足の踵には、乾いた土がこびりついていた。


「お水?」


「そうだ。喉が渇いた」


「……半分なら」


「半分?」


「井戸の水、もう少ししかないの」


 少女は小さな木杯に水を注ぎ、老人へ差し出した。


 ゼウスは杯を見つめた。


「おまえは飲まぬのか?」


「あとで飲む」


「喉は渇いておらぬのか?」


「渇いてるよ」


「ならば、なぜわしに渡す?」


 少女は不思議そうに首をかしげた。


「おじいさんも渇いてるんでしょう?」


 ゼウスは黙った。


 水はぬるく、少し土の匂いがした。


 オリュンポスの甘露とは比べようもない。


 それでも、一滴残さず飲んだ。


「名は?」


「リュカ」


「父親は?」


「いない」


「母親は?」


「病気」


 少女は空を見上げた。


「雨が降らないから、お母さんの薬草も枯れちゃった」


「……神に祈ればよかろう」


「毎日祈ってるよ」


「何と?」


「ゼウス様、雨をくださいって」


 老人は胸を張った。


「ふむ。ならば、いずれ届くだろう」


「でも、雷はいらない」


「なぜだ!」


 思わず声が大きくなった。


 少女は肩をすくめた。


「去年、雷で村の大きな樫の木が燃えたの。あの木の下で、お父さんが休んでいたんだ」


 乾いた風が吹いた。


「……父親は、雷で?」


「うん」


 リュカは俯いた。


「ゼウス様は、きっと悪い人じゃないと思う。でも、雷を投げる前に、下に誰かいるか見てくれたらいいのに」


 ゼウスの手から、杖が滑り落ちた。


 *


「おじいさん、どうしたの?」


「……いや」


 ゼウスは少女の顔を見た。


 神々の王である自分に、人間が何を望んでいるか。


 そんなことを、考えたことがあっただろうか。


「リュカ。おまえはゼウスを憎んでおらぬのか?」


「憎い日もあるよ」


「……そうか」


「でも、憎んでも雨は降らないでしょう?」


 少女は空っぽの木杯を抱えた。


「それに、お父さんがよく言ってたの。『怒るときは怒っていい。でも、怒りだけで一日を終えるな』って」


 ゼウスは、胸の奥に奇妙な痛みを覚えた。


 雷に打たれたことなどない。


 だが、今の言葉は、どんな雷霆より深く突き刺さった。


「……わしには娘がおる」


「そうなの?」


「ああ。賢い娘だ。わしよりも、ずっと」


「じゃあ、その子に相談したら?」


「何を?」


「怒りすぎない方法」


 ゼウスは目を丸くした。


 そして、突然笑い出した。


「はっはっは! このわしが、娘に怒り方を教わるのか!」


「おじいさん、笑いすぎ!」


「いや、面白い! 実に面白い!」


 久しぶりに、腹の底から笑った。


 *


 その夜。


 オリュンポスに戻ったゼウスは、知恵の女神アテナを呼び出した。


「アテナ!」


「お呼びですか、父上」


「人間に雨を降らせるには、どうすればよい?」


 アテナは瞬きをした。


「……雨雲を集めればよろしいのでは?」


「違う! 畑に染み込む雨だ!」


「では、風を弱め、雲を厚くし、長く静かに降らせればよろしいかと」


「ふむ」


「父上?」


「何だ?」


「なぜ、急にそのようなことを?」


 ゼウスは玉座の肘掛けを指で叩いた。


「……人間の小娘に、雷はいらぬと言われた」


「それは賢明な判断ですね」


「おまえまで!」


 アテナは笑った。


「父上。雷は力を示しますが、雨は命を育てます」


「……知っておる」


「知っていることと、心に留めることは違います」


 ゼウスは黙り込んだ。


 しばらくして、低い声で呟いた。


「わしは、下界を見ておらなんだ」


 アテナの表情が柔らかくなった。


「今からでも、見ることはできます」


 *


 夜明け前。


 テッサリアの空に、灰色の雲が広がった。


 雷鳴はなかった。


 稲妻も走らなかった。


 ただ、ぽつり、と一滴。


 乾いた土に、小さな黒い染みができた。


 ぽつり。


 ぽつり。


 やがて、静かな雨が降り始めた。


「……雨?」


 リュカは寝台から飛び起きた。


 窓を開ける。


 冷たい雫が頬に触れた。


「お母さん! 雨だよ!」


 寝台の母が、弱々しく微笑んだ。


「本当……?」


「うん! 雷も鳴ってない!」


 リュカは裸足で外へ飛び出した。


 村人たちが家々から顔を出していた。


「雨だ!」


「畑が助かるぞ!」


「神様が聞いてくださった!」


 歓声が上がる。


 リュカは両手を広げ、空を見上げた。


「ゼウス様ー!」


 雨粒が睫毛に溜まった。


「ありがとう!」


 そして、少し考えてから叫んだ。


「でも、去年の雷のことは、まだ怒ってるからねー!」


 雲の上で、ゼウスがむせた。


「……あの小娘め!」


 隣に立つヘラが、くすくす笑った。


「よろしいではありませんか」


「感謝しておきながら、怒っておるぞ!」


「人間とは、そういうものでしょう」


「神に対して不敬ではないか!」


「あなたが父親を奪ったのです。感謝だけを求めるのは、少々欲張りでは?」


 ゼウスは口を閉じた。


 やがて、深く息を吐く。


「……そうだな」


 ヘラは驚いて夫を見た。


「まあ。あなたが素直に認めるなんて」


「わしとて、たまには認める!」


「百年に一度くらい?」


「千年に一度だ!」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


 *


 それから、テッサリアの村には、季節ごとに穏やかな雨が降るようになった。


 リュカの母は少しずつ元気を取り戻し、畑には青い麦が芽吹いた。


 村人たちは、ゼウスへの感謝を込めて小さな祭壇を作った。


 ただし、その祭壇には奇妙な文字が刻まれていた。


『雷を投げる前に、下を見てください』


 ヘルメスがその報告を持ち帰った日、オリュンポスは大騒ぎになった。


「父上! これは神への命令では?」


「……よい」


「え?」


「残しておけ」


 ゼウスは、雲の切れ間から村を見下ろした。


 小さな少女が、青い麦畑を走っている。


 その隣には、母親の姿があった。


 ゼウスは微笑んだ。


「わしは天空の王だ」


「はい」


「雷霆を握り、神々を従え、世界を揺るがすことができる」


「はい」


「だが……」


 ゼウスは、ゆっくり手を開いた。


 掌には、今にも落ちそうな小さな雨粒が一つ。


「たった一滴の雨を、誰かの涙にしないことのほうが、難しいのだな」


 ヘルメスは何も言わなかった。


 そのとき、遠くでヘラの声が響いた。


「ゼウス! また勝手に人間界へ行ったのでしょう!」


「……む」


「今度は何に化けたのです!」


「老人だ!」


「本当に老人だけでしょうね!」


「もちろんだ!」


 アテナが小声で囁いた。


「父上。今度こそ、正直にお答えください」


「正直だ!」


 オリュンポスに、神々の笑い声が広がった。


 天空の王は、今日も少しだけ不器用だった。


 それでも、雷を投げる前に、ほんの一瞬、下界を見つめるようになった。


 神が偉大なのは、間違えないからではない。


 間違いに気づいたあと、もう一度、人間の声を聞こうとするからなのかもしれない。



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