『雲の玉座、雷霆(ケラウノス)の重み』ゼウス
『雲の玉座、雷霆の重み』
オリンポスの頂を巻く雲海は、朝な夕なに黄金と紫のグラデーションを描いて漂う。
下界の人間どもは、ここを「永遠の宴の庭」と崇め、葡萄酒と香煙を捧げては平伏していた。
だが、その黄金の回廊の奥、白磁と青銅で組み上げられた至高の玉座に腰掛ける男――神々の父ゼウスの瞳には、乾いた鉛色の光しか宿っていなかった。
「……また、嵐を呼んだのかい。退屈しのぎに海をかき乱すのは、ポセイドンだけで十分だろうに」
冷徹で滑らかな声が、大理石の床を滑ってきた。
振り返るまでもない。孔雀の羽を模した豪奢な長衣をまとい、黄金の錫杖を手にした正妻、ヘラである。その眦は剃刀のように鋭く、ゼウスの足元に転がる黒ずんだ青銅の杯を一瞥した。
「退屈しのぎではないさ、ヘラ」
ゼウスは重い顎鬚を撫で、吐息をついた。
右の手のひらには、青白く脈打つ光の棘――かつて巨人族の巨躯を焼き払い、父クロノスの腹を裂いた雷霆が、かすかに火花を散らしている。
「下界の王が、国境の川を巡って民を何千と殺し合っている。祈りの煙が立ち上るたび、その血生臭さに鼻が曲がりそうだ。少しばかり天を轟かせ、己の無力さを思い出させてやったまでのこと」
「ふん。思い上がった王を懲らしめた、とでも言いたげね」
ヘラは玉座の肘掛けに細い指を置き、氷のような笑みを浮かべた。
「その実、愛人にする隙を狙っていた小国の王女が、戦火で死にかけているのを助けたかっただけでしょう? あなたの雷は、いつだって下半身の都合で落ちるものね」
「ヘラ」
ゼウスの声が低く沈んだ。
その瞬間、オリンポスの空を覆う雲が濃密な墨色に染まり、遠くエーゲ海の波頭が泡立ち、大地がかすかに軋んだ。最高神の怒りの兆候。下界であれば神官たちが卒倒し、羊を生贄に捧げる瞬間だ。
だが、ヘラは眉一つ動かさず、至近距離から夫の双眸を睨み据えた。
「睨んだところで、私の血は凍らないわ。忘れたの? 私もまた、あなたと同じクロノスの腹から吐き出された神よ。雷を握ったからといって、あなたがこの宇宙の孤独な暴君である事実は変わりはしない」
「……下がれ」
「言われずとも。傲慢な夫の顔を見ているより、孔雀に餌をやっている方が何倍も気高い時間を過ごせますから」
衣擦れの鋭い音を残し、ヘラは回廊の彼方へと去っていった。
広大な神殿に、再び静寂が降りる。
ゼウスは手のひらの雷霆を見つめた。青白い光は、握る者の骨まで透かして見せるほど熾烈に燃えている。
神々を従え、運命の糸すら睥睨する力。
だが、この力を手に入れてからというもの、ゼウスの皮膚に触れるものは、震え上がる畏怖か、打算に満ちた懇願か、あるいはヘラのような冷酷な憎悪だけだった。
「父上。お呼びでしょうか」
背後から、風のような足音が忍び寄る。
翼の生えた黄金のサンダルを履き、ケーリュケイオンの杖を手にした使い神、ヘルメスだ。飄々とした笑みを浮かべているが、その足取りは決してゼウスの間合いの内側には踏み込んでこない。誰もが、最高神の不意の気まぐれを恐れているのだ。
「ヘルメスか」
ゼウスは雷霆の輝きをわずかに弱めた。
「下界の様子はどうだ。プロメテウスが火を与えて以来、人間どもは少しは賢くなったか?」
「賢くなった、と言えば聞こえはいいですがね」
ヘルメスは肩をすくめ、杖をくるりと回した。
「連中は鉄を鍛え、城壁を築き、今や神々の神託すら都合よく解釈して騙し合っていますよ。神殿に捧げる牛の肉は骨ばかりのクズ肉にして、自分たちで脂の乗った肉を喰らっている。父上の雷を恐れてはいますが……どこか、嵐の去るのを待つ豚のような目をして天を仰いでいます」
「豚、か」
ゼウスは苦笑し、手元の杯に視線を落とした。
「かつて、クロノスに呑み込まれた兄弟たちを救い出したとき、私は信じていたのだ。理不尽な巨神たちの支配を終わらせ、正義と秩序に満ちた世界を作れるとな」
「今でも世界は秩序に満ちていますよ。あなたが玉座に座り、逆らう者を焼き払うという、完璧な秩序です」
「それは秩序ではない。ただの『膠着』だ」
ゼウスは立ち上がった。
巨躯が動くだけで、大理石の床が微かに震える。
「神々は死なぬゆえに変わらぬ。ヘラは嫉妬を永遠に繰り返し、アレスは血を貪り続け、アポロンは冷ややかに琴を爪弾くだけだ。そして人間どもは、短い命の火花の中で、懲りもせず同じ過ちを繰り返す。……ヘルメス。私は何のために、この灼けるような雷を握り続けているのだ?」
ヘルメスは一瞬だけ、その薄い笑みを消した。
だが、すぐに道化の仮面を張り直す。
「おやおや、全知全能の最高神が、哲学者のようなお悩みですか? そんな顔をしていては、アフロディーテの誘惑も台無しですよ」
「戯言を」
ゼウスは手を振り、ヘルメスを下がらせた。
ヘルメスは深く一礼し、風となって消えた。
一人残されたゼウスは、玉座を離れ、雲の切れた欄干へと歩み出た。
遥か下界には、オリーブの木立に囲まれた小さな村が見える。
夕暮れの光が、質素な石造りの家々を赤く染めていた。
ふと、ゼウスの神眼が、村外れの小さな麦畑を捉えた。
そこには、老いた農夫が一人、鍬を振るっていた。
痩せこけた体、ひび割れた手足。男の背中は曲がり、額からは大粒の汗が土の上に落ちていた。
男の傍らには、粗末な木製の祭壇があり、干からびたイチジクが二つ、供えられている。
ゼウスは身を乗り出し、その老人の呟きに耳を澄ませた。
神への呪詛か、それとも雨乞いの絶叫か。
『天の父よ』
老農夫の声は、風にかき消されそうなほど掠れていた。
『今日も無事に麦の根を掘り起こせました。西の空が赤いゆえ、明日は晴れましょう。嵐を鎮めてくださり、ありがとうございます。……どうか、隣村の娘に嫁いだ私の孫が、無事に子を産み落とせますように』
老人はそう言って、泥まみれの手を合わせ、深く頭を下げた。
それだけだった。
富を乞うでもなく、敵の死を願うでもなく、ただ今日一日の労働を終えた感謝と、他者の安寧を祈る、小さく、乾いた言葉。
ゼウスの胸の奥で、何かが小さく音を立てて弾けた。
幾千の生贄の牛よりも、金銀で飾られた壮麗な神殿の祝詞よりも、その泥臭い祈りが、最高神の鼓膜を震わせた。
「……愚かなことだ」
ゼウスは呟いた。
「明日の夜には、ヘパイストスが鍛えた旱魃の風が吹くやもしれぬのだぞ。お前たちの祈りなど、私の気まぐれ一つで吹き飛ぶ芥に過ぎぬというのに」
だが、ゼウスの手は、無意識のうちに雷霆の輝きをそっと抑え込んでいた。
青白い閃光が収まり、オリンポスの空を覆っていた重苦しい暗雲が、静かにほどけていく。
雲海を抜けて差し込んだ夕日が、地上を、そして老農夫の小さな麦畑を、柔らかな黄金色で包み込んだ。
「ゼウス様」
背後から、今度は戦乙女アテナの凛とした足音が響く。
「東の海で怪物が暴れております。いかがなさいますか」
ゼウスは振り返らず、夕暮れの空を見つめたまま、静かに息を吸い込んだ。
手のひらに残る雷霆は、先ほどよりも微かに、けれど熱く脈打っていた。
退屈と孤独の檻の中で、神としての生をただ浪費していた巨躯に、再び重たい使命の熱が巡っていく。
「アテナよ」
「はっ」
「盾を取れ。海を鎮めに行くぞ」
ゼウスは欄干に手をつき、下界の小さな麦畑に背を向けた。
「あの老人の麦が、潮風で枯れてしまっては興醒めだからな」
神々の父は、かつてティタンを打ち倒したあの鋭い足取りで、夕闇迫る回廊を歩み出した。
その背中に、遠く地上から届いた冷たい夜風が、かすかな安堵の吐息のように寄り添っていた。




