『天空を抱く背骨』アトラス
『天空を抱く背骨』
世界の最果て、西の果ての断崖には、風の歌すら届かない。
あるのはただ、骨を凍らせる夜気と、頭上から際限なくのしかかる濃紺の質量だけだった。
巨神アトラスの両足は、大地に深くめり込み、足首から上は赤黒い血と泥にまみれていた。足の指はもはや石と化し、大地そのものと癒着して動かない。
ギリ、ギリ、と、自らの頸椎が軋む音が頭蓋の奥で鳴り続けている。
彼が両の腕、太い背中、逞しい肩で支えているのは、球体ではない。星々が蠢き、雲が渦巻き、果てしない重量を宿した「天空」そのものだ。ゼウスとの長きにわたる神々の大戦――ティタノマキアに敗れたあの日から、彼は一秒たりともこの穹窿を下ろすことを許されていない。
「……ふッ、ぐ……ッ」
喉の奥から漏れるのは、苦悶というより獣の唸りだった。
汗が額を伝い、睫毛を濡らし、顎から滴り落ちる。その雫が地面に落ちる前に、夜風に吹かれて氷の粒となり、パチリと乾いた音を立てて砕けた。
「まだ息があるな、タイタンの勇士よ」
不意に、乾いた足音とともに嘲るような声が響いた。
暗闇の裂け目から、黄金の光を帯びた巨躯が現れる。獅子の毛皮を肩に羽織り、血塗られた太い棍棒を杖のように突いた男――ヘラクレスだった。
アトラスは首を動かすことすらできず、血走った眼球だけを微かに動かしてその影を捉えた。
「……誰だ。ゼウスの走狗が……何の用だ……」
声はひび割れ、まるで干上がった川底を擦り合わせるような音だった。
「俺の名はヘラクレス。冥府の狂犬を連れ帰る前の、最後の難行だ。西の果て、ヘスペリデスの園にある黄金の林檎が欲しい。竜ラドンが守るあの樹から、実をもぎ取ってこいと命じられた」
ヘラクレスは白い歯を見せて笑ったが、その瞳には油断のない冷徹な光が宿っていた。
アトラスの荒い呼気が、夜気を白く染める。
「黄金の林檎……あれは、私の娘たちが守るものだ。力ずくで奪おうとすれば、竜はお前を噛み砕くぞ」
「だからこそ、お前に頼みたいのだ、アトラス」
ヘラクレスは歩み寄り、天を支える巨神の足元を見上げた。
「お前が園へ行き、娘たちから林檎をもらってきてくれ。その間――ほんのひととき、俺が代わりにその天を担いでやろう」
沈黙が落ちた。
吹き荒れる風が、二人の英雄の髪を激しく乱す。
アトラスの胸の奥で、数千年ぶりに鈍い熱が脈打った。
(天を……手放す……?)
肩に食い込む天空の重み。骨が軋み、筋肉が裂け、永遠に続くかと思われたこの責め苦から、両腕を解くことができる。
それだけではない。一度自由になれば、この憎きオリュンポスの血を引く若造に天を押し付け、自分は二度とここへ戻らなければいいのだ。
「……いいだろう」
アトラスは低く呻いた。
「だが、貴様に支えられるか? この天は、ただの岩の塊ではないぞ。星々の巡り、風の重み、神々の傲慢……そのすべてが詰まっているのだ」
「試してみるさ。俺の背中も、それなりに修羅場をくぐってきた」
ヘラクレスが獅子の毛皮を脱ぎ捨て、アトラスの真横に滑り込んだ。筋骨隆々たる巨躯が、天の端に触れる。
「さあ、渡せ!」
「……受け取れッ!」
アトラスが微かに腕を緩め、天空の重心をヘラクレスの肩へと預けた。
その瞬間――
「ぐああっ……ッ!!」
ヘラクレスの喉から、裂けるような絶叫が上がった。
太い膝がガクガクと震え、大地にめり込む。首筋の血管が青黒く浮き上がり、眼球が飛び出さんばかりに見開かれた。
「な、なんという……重さだ……! 背骨が、砕ける……ッ!」
「それが天空だ、半神の小僧!」
アトラスは一気に両腕を引き抜いた。
数千年ぶりに、背中に何もない。風が、ただの風として皮膚を撫でていく。
あまりの軽さに、膝がふらついた。両腕を前に突き出すと、手のひらには天空の冷たい青黒い苔と、星屑の銀の粉がびっしりとこびりついていた。
「あはは……あはははは!」
乾いた笑いが口から漏れた。
自由に動く足。曲がる腰。宙を仰ぎ見ることができる首。
アトラスは歓喜に震えながら、西の園へと走った。
大地を踏みしめる感触が、足の裏から生々しく伝わってくる。娘たちの園へ踏み入り、驚き泣き崩れるヘスペリデスたちから、黄金に輝く三つの林檎を受け取る。手のひらに乗る林檎は驚くほど軽く、甘く熟した香りが鼻腔をくすぐった。
「お父様、もう行かれるのですか? もう戻らないで!」
娘たちのすがる声を背に、アトラスは再び断崖へと戻ってきた。
そこには、いまにも圧殺されそうなヘラクレスの姿があった。
全身から滝のような汗を流し、口の端から血の混ざった泡を吹き、男は天を支えていた。首の骨がメキメキと音を立てている。
「戻ったか……アトラス……ッ! 早く、早く代われ……! これ以上は……持たんッ!」
アトラスは手にした黄金の林檎を弄びながら、冷酷に笑った。
「代わる? 誰が代わるものか。私はその重みを、永遠とも思える時の中で味わってきたのだ。今度は貴様の番だ、ヘラクレス。林檎は私がミュケナイへ届けてやる。お前はそこで、我が代わりに永遠の星空を眺めているがいい!」
踵を返そうとしたアトラスに、ヘラクレスが苦悶に満ちた声を絞り出した。
「待て……! 頼む、アトラス……逃げはしない……! 天を背負うのは……俺の宿命だと……諦めよう……!」
「命乞いか? 英雄の名が泣くぞ」
「違う……っ! ただ……肩の骨に、天の角が食い込んで……肉が裂けて痛むのだ……! 頭の上に……獅子の毛皮を敷きたい……! ほんの、ほんの一瞬だけ……敷く間だけ、天を持ってくれ……! それだけでいい……ッ!」
ヘラクレスの双眸は涙と血に濡れ、今にも折れそうな枝のように震えていた。
その惨めな姿に、アトラスの胸に侮蔑と、かすかな哀れみが湧き上がった。
(傲慢なオリュンポスの落とし子も、この天の重みの前には赤子同然か)
「ふん、情けない男だ。一瞬だぞ。毛皮を頭に巻いたら、すぐに代われ」
アトラスは黄金の林檎を足元に置き、再び天の下へと身を滑り込ませた。
腕を伸ばし、その広大な冷たさを掌に受け止める。
「ほら、早く毛皮を――」
ズシリ。
想像を絶する質量が、再びアトラスの両肩に、背骨に、腰へと一気に雪崩れ込んできた。
「ぐ、うううッ……!?」
関節という関節が悲鳴を上げ、足が再び大地の底へと沈み込む。
その瞬間、ふっと視界の端で影が動いた。
ヘラクレスが、身軽に飛び退いたのだ。
その顔には先ほどの苦悶の色など微塵もなく、獅子の毛皮を素早く拾い上げ、地面の黄金の林檎を懐へと収めていた。
「すまないな、アトラス」
ヘラクレスは冷ややかに、だがどこか敬意の混ざった瞳で巨神を見上げた。
「この世で天を背負える男は、お前一人だけだ。俺ごときでは、とても務まらんよ」
「き、貴様……謀ったなッ……! ヘラクレスッ!!」
アトラスの咆哮が虚空を揺るがした。
だが、もう腕を離すことはできない。一ミリでも力を抜けば、天空は落下し、世界そのものが粉々に砕け散ってしまう。怒りに血潮を沸き立たせても、その力はすべて天を押し返すためだけに消費されていく。
「さらばだ、偉大なるティタン」
ヘラクレスは背を向け、一度も振り返ることなく、東の空へと歩み去っていった。
遠ざかる足音がやがて風の音に掻き消され、荒涼たる静寂が再び戻ってくる。
「あああああッ……! ゼウスよ! ヘラクレスよ……ッ!」
アトラスの叫びは、天上の星々をかすかに震わせただけで、誰の耳にも届かなかった。
夜が深まっていく。
天空は冷たく、どこまでも重い。
だが、どれほど呪い、どれほど憎もうと、アトラスの両腕は無意識のうちに天をしっかりと支え続けていた。
なぜ落とさないのか。なぜ力を抜いて、この呪われた世界ごとすべてを終わらせてしまわないのか。
自問するアトラスの脳裏に、かつて天を手放した一瞬の記憶が蘇る。
あの時、天が軋み、世界の縁が歪んだ瞬間の、あの底知れぬ恐怖。
この天の下には、憎き神々だけでなく、彼が愛した娘たちの園があり、風が渡る野があり、小さな命たちが蠢いている。
「……ふん」
アトラスの唇の端から、血に濡れた自嘲の笑みが漏れた。
「……担いでやるさ。貴様らのような浅知恵の神どもには、この世界の重みなど背負えはしないのだからな」
ギリ、と再び背骨が軋む。
アトラスは歯を食いしばり、大地を強く踏みしめた。
星々が頭上で冷たく瞬き、夜明けを待つ夜風が、巨神の頬の乾いた血を静かに撫でていった。




