雷光の杭、タルタロスの咆哮
雷光の杭、タルタロスの咆哮
天が裂け、灼熱の紫電がオトリュス山を舐め尽くしていた。
十年に及ぶ神々の大戦――ティタノマキアは、まさに終局を迎えようとしていた。大地はひび割れ、そこから吹き出すマグマが夜空を赤黒く染め上げる。風は血と硫黄の混じり合った毒煙を巻き上げ、巨神たちの流した黄金の血、神血が、川となって黒ずんだ岩肌を伝い落ちていた。
「引くな! 退くなどと口走るな、兄弟たちよ!」
吹き荒れる暴風の中、ひときわ巨大な影が岩峰の上に仁王立ちしていた。
メノイティオス。イアペトスの息子にして、「激憤」と「傲慢」の名を冠せられた巨神である。
その肉体は鍛え上げられた青銅の彫像の如く分厚く、筋骨隆々たる腕には幾筋もの血管が怒張していた。剛毛に覆われた胸板は激しく上下し、獣めいた琥珀色の瞳は、雲海を裂いて攻め寄せてくるオリュンポスの神軍を睨みつけていた。
「もう潮時は過ぎたのだ、メノイティオス!」
背後から響いたのは、弟プロメテウスの乾いた声だった。先見の明を持つ弟は、焼けただれた外套を翻し、冷め切った視線で兄の背中を見つめていた。
「天の配剤はすでに決した。ゼウスはヘカトンケイレス(百手巨人)を解き放ち、キュクロプスの鍛えた雷霆を手に入れた。これ以上の抗戦は、ただ自らの魂を虚無に投げ込むに等しい」
「黙れ、プロメテウス!」
メノイティオスは振り向きもせず、大気を震わせる咆哮を返した。足元の岩盤が、彼の怒気の重さに耐えかねて蜘蛛の巣状に砕け散る。
「貴様は先が見えすぎるあまり、足元の誇りを踏みにじっているぞ! 我らは原初の空と大地を継ぐティターンだ! あのクロノス様を父と仰ぎ、世界を統べてきた王家の血筋だぞ! 後から湧き出た小童どもの雷に怯え、膝を屈して慈悲を乞うなど……そんな泥水を啜って生き延びるくらいなら、この両腕で天蓋を握り潰して死んでやる!」
「誇りでは雷霆を防げぬと言っているのだ!」
普段は沈着冷静なプロメテウスが、思わず声を荒らげた。その切れ長の瞳に、兄への憐憫と焦燥が走る。
「お前はその激情ゆえに自らを滅ぼす! 退け、メノイティオス! 今ならばまだ、恭順の姿勢を示せば幽閉で済むかもしれんのだ!」
「恭順だと? 笑わせるな!」
メノイティオスは獰猛に嗤った。牙のように尖った歯列の隙間から、灼熱の息が漏れる。
「俺の名はメノイティオス! 不遜にして傷つきやすき魂を持つ者! 誰にも屈さず、天の掟すら嘲笑うために、この強大な四肢を与えられたのだ! 弟よ、貴様が賢者として生き延びるというなら、好きにするがいい。だが俺を憐れむな。俺の血潮は、一度たりとも冷えたことがないのだからな!」
そのとき、天空の暗雲が渦を巻き、中心が白銀の光に灼き抜かれた。
ゴォォォォン――!
腹の底を揺るがす地響きとともに、雲を割って現れたのは、黄金の戦車を駆るオリュンポスの主神ゼウスだった。その右手には、キュクロプスが鍛え上げた至高の兵器、白熱する『ケラウノス(雷霆)』が握られている。放たれる余波だけで、大気はイオン化し、周囲の岩石が瞬時に蒸発していく。
「見よ、滅びの申し子ティターンども!」
天空に轟くゼウスの声は、絶対の法そのものだった。神威の圧力が、まるで目に見える重力のようにオトリュス山へ圧し掛かる。
「クロノスはすでに縛についた。残る逆賊どもよ、武器を捨て平伏せよ。さもなくば、この雷が貴様らの神性を焼き尽くすであろう!」
周囲にいたティターンの兵卒たちが、その圧倒的な力に気圧され、次々と膝をついていった。剣を落とし、顔を覆い、神威の光から目を背ける。
だが――ただ一人、メノイティオスだけは違った。
「吠えるな、簒奪者の餓鬼がァッ!」
メノイティオスは大地を蹴った。踏み込みの衝撃で、彼が立っていた巨岩が一瞬で粉塵へと爆散する。
彼は山ほどもある漆黒の大岩を両手で抱え上げると、頭上高く掲げた。筋繊維が千切れんばかりに軋み、皮膚の裂け目から黄金の血が噴き出す。だが、その痛覚すら彼の狂暴な闘志の薪となった。
「貴様のような若造の光が、原初の闇より濃いこの俺を灼けるとでも思うたか! 食らえっ!」
唸りを上げて投げ飛ばされた巨岩は、音速を超えて大気を裂き、ゼウスの戦車へと一直線に突き進んだ。
それは、敗北を悟りながらも天に向かって唾を吐きかける、純粋な反逆の意志だった。
ゼウスの目が冷ややかに細められた。
「……身の程を知らぬ、不遜なる獣め」
ゼウスが右手をわずかに振る。
放たれたケラウノスは、光の軌跡すら残さぬ速度で空間を跳躍した。
飛翔する巨岩は、雷霆が触れた刹那、微粒子となって霧散した。
そして光は勢いを落とすことなく、岩盤の上に仁王立つメノイティオスの胸板へと直撃した。
ズガァァァァァァァン――ッ!!!
世界が一瞬、完全な白に染まった。
遅れて届く破砕音。衝撃波がオトリュス山の上半分を薙ぎ払い、吹き飛んだ土砂が赤い嵐となって舞い上がる。
「ぐ、があああああああっ……!」
胸を貫かれたメノイティオスは、青白い電弧に全身を焼かれながら、大地に縫い止められていた。
胸の中央には、神の骨すら融解させる雷の杭が深々と突き刺さっている。衣服は焼き尽くされ、頑強を誇った皮膚は炭化し、皮膚の下を流れる神血が沸騰して蒸気を上げていた。常人であれば魂ごと霧散している破壊力だ。
だが、メノイティオスは倒れなかった。
彼は焦げ落ちた両足で、血みどろの大地を踏みしめ、なおもゼウスを睨みつけていた。炭化した唇の端を吊り上げ、血の泡を吐き散らしながら嗤っているのだ。
「メノイティオス……!」
瓦礫の陰から、プロメテウスが息を呑んで兄を見つめていた。その瞳には、止められなかった運命への慟哭が滲んでいた。
ゼウスは戦車の上から見下ろし、眉をひそめた。
「我が雷を受けてなお、膝をつかぬか。何が貴様をそこまで駆り立てる。勝ち目のない戦に、誇りなど残らぬものを」
「……は……ははっ!」
メノイティオスは、肺腑を焼かれた掠れ声で笑った。
「勝ち負けだと……? 神の世の覇権など、もとより俺の知ったことか……! 俺が……このメノイティオスが許せぬのはな……何者かが俺の上に立ち、運命を指図することだけだ……!」
メノイティオスは、震える右手を伸ばした。
自らの胸に突き刺さる、白熱した雷霆の柄を、素手で握りしめたのだ。
ジュウウウッ、と手のひらが炭化する凄絶な音が響く。それでも彼の指は緩まない。
「貴様が新しい世界の秩序を築くというなら……俺はその車輪の下で、未来永劫、呪詛の礫となって転がり続けてやる……! 見ろ、ゼウス! 貴様の光は、俺の膝を折ることすら適わぬではないかッ!」
「不遜の極みよ」
ゼウスの声から、すべての感情が消え失せた。
「ならば、光の届かぬ地の底で、その傲慢を反芻するがいい。生きて天を仰ぐこと、二度と許さじ」
ゼウスが左手を掲げ、大地を指差した。
その意思に応じるように、メノイティオスの足元で、底知れぬ亀裂がぽっかりと口を開けた。
そこはエレボス(暗黒)のさらに深淵、世界の最底辺――神々すら忌み嫌う無明の牢獄、タルタロスへと続く奈落の門だった。
奈落の引力が、重傷を負ったメノイティオスの巨体を呑み込もうと引きずり込む。
「兄さんッ!」
プロメテウスが手を伸ばしかけた。だが、メノイティオスは一瞬だけ弟の方を見やり、血まみれの顔で力強く首を振った。
その眼差しには、後悔など微塵もなかった。あるのは、自らの意志で選び取った破滅に対する、冷え切るほどに純粋な歓喜だった。
「生き延びろよ、プロメテウス! 小利口なお前が、いつかあの傲慢な雷の主を出し抜く日を……俺はこの地の底の特等席から、楽しみに眺めていてやる!」
雷霆の杭が深く肉体を灼き穿ち、メノイティオスは闇の中へと落下していった。
吸い込まれる間際、暗黒の裂け目から響き渡ったのは、断末魔の悲鳴などではなかった。
それは、勝利者である天の神々を心の底から嘲笑い、自らの存在を夜の底に刻みつけるような、果てしのない哄笑だった。
「ハハハハハッ! アーッハハハハハハッ……!」
やがて亀裂は轟音とともに閉じ、オトリュス山には黒煙と静寂だけが残された。
空には雨が降り始めていた。それは戦火を消す恵みの雨ではなく、世界が塗り替えられたことを告げる、冷たい時代の涙雨だった。
プロメテウスはただ一人、炭化した大地に立ち尽くし、兄が落ちていった奈落の蓋をじっと見つめていた。
耳の奥には、今もまだ、あの傲慢で、不器用で、誰よりも純粋だった暴君の咆哮が、雷鳴よりも激しく鳴り響いていた。




