『メノイティオス ―― 傲慢なる神が、最後に愛したもの』
創作ギリシャ神話
『メノイティオス ―― 傲慢なる神が、最後に愛したもの』
天を憎み、神々に牙を剥いたティタン神メノイティオス。雷霆に撃たれ、冥府の底へ堕とされた彼には、誰にも語られなかった一つの物語があった。
天が、燃えていた。
黒雲を引き裂く雷光が、オリュンポスの山々を白く染める。
砕けた岩が雨のように降り注ぎ、大地は獣のように呻いていた。
その中心で、一柱の神が笑っていた。
「ハハハハッ! どうした、ゼウス! その程度か!」
メノイティオス。
ティタン神イアペトスの息子にして、プロメテウス、エピメテウス、アトラスの兄弟。
その眼には燃え盛る黄金の炎が宿り、長い黒髪は血と灰に濡れていた。
彼の足元には、砕かれた神々の槍が転がっている。
「貴様ら新しき神々に、我らティタンが膝を折ると思うな!」
雷鳴が轟いた。
雲の彼方から、ゼウスの声が響く。
「メノイティオス! その傲慢こそ、お前を滅ぼす!」
「傲慢だと?」
メノイティオスは唇を歪めた。
「勝った者だけが正義を名乗り、敗れた者を傲慢と呼ぶ。実に都合のよい言葉だな!」
「まだ分からぬか!」
「分かるとも!」
彼は両腕を広げ、天へ吠えた。
「貴様が我らを恐れていることくらいはな!」
次の瞬間、天が裂けた。
ゼウスの雷霆が、メノイティオスの胸を貫いた。
「――ぐ、あああああッ!」
骨が軋み、神血が飛び散る。
彼の巨体は山を砕き、地の底へと落ちていった。
最後に見えたのは、遠ざかる青空だった。
そして――。
「……嫌だ」
不意に、小さな声が聞こえた。
「行かないで、メノイティオス様」
それは、戦場にいるはずのない少女の声だった。
彼がその少女と出会ったのは、戦争が始まるずっと前のことだった。
ティタンたちがまだ大地を自由に歩き、海が神々の歌を映していた時代。
メノイティオスは、山奥の泉で一人の少女を見つけた。
少女は裸足で水辺に座り、傷ついた小鳥を抱いていた。
「……何をしている」
低い声に、少女は顔を上げた。
「この子、翼が折れているの」
「見れば分かる」
「治してあげたいの」
「ならば治せ」
「できないから困っているのよ!」
少女は頬を膨らませた。
メノイティオスは眉をひそめる。
「貴様、誰に向かって口を利いている?」
「あなたこそ誰?」
「我はメノイティオス。ティタンの血を引く神だ」
「そう」
「……それだけか?」
「神様なら、この子を治せる?」
彼は言葉を失った。
恐れも、敬意もない。
ただ、真っ直ぐな瞳が彼を見つめていた。
「……くだらん」
吐き捨てながらも、メノイティオスは小鳥に指を伸ばした。
黄金の光が小さな翼を包む。
折れた骨が繋がり、小鳥は驚いたように羽ばたいた。
「わあっ!」
少女の顔が輝いた。
「ありがとう!」
「礼など要らん」
「でも、嬉しいから言うの」
少女は笑った。
春の陽光が水面に跳ね、その笑顔を照らした。
「私はエイレネ。ここに住んでいるの」
「泉の精霊か」
「ええ。ねえ、また来てくれる?」
「来る理由がない」
「じゃあ、理由を作っておくわ」
「何?」
「次は、あなたに花冠を作ってあげる!」
「……我を愚弄する気か?」
少女は声を立てて笑った。
その日、メノイティオスは二度と来ぬと決めた。
だが三日後、彼は再び泉を訪れていた。
「遅い!」
開口一番、エイレネは怒った。
「何がだ」
「三日も待ったのよ!」
「待てとは言っておらん」
「でも来たじゃない」
「……通り道だ」
「ここ、山の行き止まりだけど?」
「黙れ」
エイレネはくすくす笑い、白い花冠を差し出した。
「はい。約束の花冠」
「要らん」
「せっかく作ったのに」
「我は戦の神だぞ。花など似合わぬ」
「戦う神様は、花を嫌いにならなきゃいけないの?」
メノイティオスは黙り込んだ。
少女は背伸びをして、彼の黒髪に花冠を載せた。
「ほら、似合う」
「……馬鹿な」
「ふふっ。怖い顔をしているけれど、綺麗よ」
「綺麗、だと?」
「ええ。あなたの瞳、夕焼けみたい」
その言葉に、彼は初めて視線を逸らした。
以来、彼は幾度も泉を訪れた。
怒りに任せて岩山を砕いた日も。
兄弟と口論した日も。
誰にも理解されぬ苛立ちを抱えた日も。
エイレネだけは、いつも同じ笑顔で迎えた。
「今日は何に怒っているの?」
「ゼウスだ」
「昨日もゼウスだったわね」
「奴は我らの支配を奪おうとしている!」
「それで、あなたは戦うの?」
「当然だ!」
「……死んでしまうかもしれないのに?」
メノイティオスは鼻で笑った。
「我は神だ。死など恐れぬ」
「私は怖いわ」
エイレネは静かに答えた。
「あなたが帰ってこなくなるのが、怖い」
風が止まった。
泉の水面に、二人の影が揺れている。
「……愚かな精霊め」
彼は少女の額を指先で小突いた。
「我が負けるものか」
「約束して」
「何を」
「必ず帰ってきて」
メノイティオスは答えなかった。
ただ、彼女の頭に大きな手を置いた。
それが彼にできる、精一杯の優しさだった。
戦争は、世界を変えた。
ティタンとオリュンポスの神々が激突し、海は沸騰し、山々は崩れた。
メノイティオスは戦った。
誰より激しく。
誰より誇り高く。
だが戦が長引くほど、彼の胸には別の炎が燃え始めた。
――帰りたい。
あの泉へ。
花冠を編む少女のもとへ。
「メノイティオス!」
兄プロメテウスが叫んだ。
「もうやめろ! この戦いに勝ち目はない!」
「黙れ!」
「お前まで失いたくない!」
「ならば見ていろ! 我がゼウスの首を取ってくる!」
「弟よ!」
メノイティオスは振り返らなかった。
彼は知っていた。
戦いをやめれば、生きて帰れるかもしれない。
だが誇りを捨てて帰った自分を、あの少女はどう見るだろう。
――きっと、笑うのだろう。
『生きていてくれて嬉しい』と。
そう言ってくれるに違いない。
「……くそっ」
彼は歯を食いしばった。
「何故、今になって……!」
戦場の向こうで雷が閃いた。
そして、ゼウスの雷霆が彼を貫いた。
暗闇。
冷たい石。
永遠に響く亡者の呻き。
メノイティオスは、タルタロスの底で目を覚ました。
「……ここは」
腕には黒鉄の鎖。
胸には焼け焦げた傷。
頭上には、二度と届かぬ天の光。
「ゼウス……!」
彼は鎖を引き千切ろうと暴れた。
轟音が冥府を揺るがす。
「出せ! 我をここから出せッ!」
何度も。
何百回も。
だが鎖は砕けなかった。
やがて、彼は動かなくなった。
「……エイレネ」
初めて、その名を口にした。
「待つな」
暗闇に声が溶ける。
「我は……帰れぬ」
そのときだった。
かすかな花の香りが漂った。
「……?」
足元に、一輪の白い花が落ちていた。
「馬鹿な……」
冥府の最深部に、花など咲くはずがない。
続いて、声がした。
「本当に、頑固なんだから」
メノイティオスは息を呑んだ。
闇の向こうに、小さな光が灯る。
そこに立っていたのは、かつて泉で笑っていた少女だった。
「エイ……レネ……?」
「久しぶりね」
「何故ここにいる!」
彼は叫んだ。
「ここは神すら恐れる奈落だぞ! 貴様のような精霊が来る場所ではない!」
「知っているわ」
「ならば帰れ!」
「嫌よ」
「エイレネ!」
少女は静かに歩み寄った。
「あなたが帰ってこないから、私が来たの」
「……愚か者め」
「ええ、そうね」
彼女は笑った。
だがその瞳には涙が滲んでいた。
「ずっと待っていたのよ」
「…………」
「春が来ても、夏が過ぎても、秋の葉が落ちても」
一歩、また一歩。
「冬になって泉が凍っても、あなたを待っていた」
「やめろ」
「毎日、花冠を作ったの」
「……やめろ」
「でも、あなたは来なかった」
メノイティオスは顔を伏せた。
「……すまぬ」
それは彼が生まれて初めて口にした謝罪だった。
エイレネは驚いたように目を見開く。
「今、何て?」
「聞くな」
「もう一度言って」
「断る」
「お願い」
「……すまなかった」
少女の頬を、一筋の涙が伝った。
「本当に……あなたって人は……」
彼女は鎖に繋がれた大きな身体を抱きしめた。
「私は、あなたに勝ってほしかったんじゃない」
「…………」
「偉い神様でいてほしかったわけでもない」
震える声が、奈落に響く。
「ただ、生きて帰ってきてほしかったのよ……!」
メノイティオスの唇が震えた。
ゼウスの雷霆にも屈しなかった神が、たった一人の精霊の涙に打ちのめされていた。
「……我は」
彼は喉を詰まらせた。
「我は……帰りたかった」
エイレネの肩が震えた。
「うん」
「貴様のいる泉へ……」
「うん……!」
「もう一度……あの花を……」
その先は言葉にならなかった。
彼は鎖に繋がれたまま、声を殺して泣いた。
やがてエイレネは、懐から白い花冠を取り出した。
「これ、持ってきたの」
「……まだ作っていたのか」
「当然でしょう?」
少女は微笑み、彼の黒髪に花冠を載せた。
「ほら。やっぱり似合う」
「……この姿でか」
「ええ。誰よりも」
メノイティオスは目を閉じた。
「エイレネ。ここに留まるな」
「でも……」
「貴様には陽の光が似合う。こんな闇にいてはならぬ」
「あなたを置いて?」
「そうだ」
「嫌だと言ったら?」
「……頼む」
彼女は長い沈黙のあと、頷いた。
「分かった。でも、一つだけ約束して」
「何だ」
「私がいなくても、もう自分を傷つけないで」
メノイティオスはゆっくりと顔を上げた。
「……約束しよう」
少女の姿が光に溶け始める。
「さようなら、メノイティオス」
「……さらばだ、エイレネ」
最後に彼女は振り返り、あの日と同じように笑った。
「あなたを愛しているわ」
光が消えた。
奈落には、再び静寂が戻った。
メノイティオスは長い間、動かなかった。
やがて彼は、頭上の花冠にそっと触れた。
「……我もだ」
誰にも届かぬ声で、呟く。
「我も、貴様を愛していた」
その日から、タルタロスの底で神の怒号が響くことはなくなった。
ただ一輪、また一輪と。
黒い岩の隙間に、白い花が咲くようになったという。
そして遥かな地上では、誰も知らぬ山奥の泉に、季節を問わず花が咲き続けた。
それは、天をも恐れなかった傲慢なる神が、最後に守ろうとしたもの。
勝利でも、名誉でも、永遠の支配でもない。
ただ一人の少女との、果たせなかった約束だった。
――神々は彼の傲慢を語り継いだ。
けれど、彼が流した涙を知る者は、誰もいなかった。
ギリシャ神話に登場するティタン神メノイティオスの雷霆による失墜とタルタロスへの幽閉を基にした創作です。泉の精霊エイレネとの関係、会話、結末は本作独自の設定です。




