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『夜明けに蒔く種』

薄暮が、アルカディアのなだらかな丘陵を紫紺の影で塗りつぶしていく。西の空には、かつて兄プロメテウスが天から盗み出し、地上の人々に分け与えた火の名残のような、くすぶる朱の光条線線が細く漂っていた。


エピメテウス――「後から考える者」と呼ばれるティタンの神は、粗削りの樫の木の椅子に身を沈め、ただ自分の無骨な両掌を見つめていた。その指の節くれには、乾いた赤土が白くこびりついている。かつて万物に贈り物を配ったときの名残、あるいは、つい先刻まで狂ったように地面を掘りかえしていた証拠だった。


「なぜ、気付かなかった……。なぜ、いつも終わってからしか見えないのだ」


掠れた呟きは、部屋の隅の暗がりへと吸い込まれ、誰にも拾われない。

部屋の中央、踏み固められた土間には、黒ずんだ陶器の壺がぽつんと転がっていた。蓋は無残に弾け飛び、口からはもう何も立ち上っていない。だが、そこから解き放たれた無数の黒い羽音――熱病、飢餓、狂気、老い、そして互いを憎み合う冷酷な猜疑心の囁き――は、すでにこの世界の果てまで飛び散り、野山を、人間の家々を、夜露のように濡らしていた。


「エピメテウス様……」


背後から、衣擦れの微かな音がした。

振り返るまでもなく、その甘い香油の匂いで誰かがわかる。オリュンポスの神々が泥から捏ね上げ、あらゆる美と才を注ぎ込んで創り上げた「最初の女」。パンドラだった。


「……近寄るな、パンドラ」


冷淡を装おうとした声は無残に震え、弱々しい懇願のようになって喉元から漏れ出た。


「お前を責めるつもりはない。責められるいわれがあるのは、私だ。兄上が……プロメテウスが、あれほど厳しく言っていたのだ。『オリュンポスの主、ゼウスからの贈り物は決して受け取るな。災いが仕組まれている』と……。なのに、私はお前のその瞳を見た瞬間に、すべてを忘れた。お前の白い指が私の頬に触れたとき、世界の理などどうでもよくなってしまったんだ」


パンドラは白いペプロスの裾を握りしめ、青ざめた唇を震わせながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。その瞳には、かつて好奇心で輝いていた光はなく、ただ底知れぬ恐怖と悔恨が、深い湖のように揺らめいている。


「違うわ、エピメテウス様。悪いのは私……私なのです。あの壺に触れてはならないと、あなたも仰っていた。なのに、蓋の隙間から漏れる微かな声が、まるで助けを求める子どもの泣き声のように聞こえて……。私が、この指が、あの忌まわしい封印を解いてしまった」


彼女は膝を折り、エピメテウスの足元に崩れ落ちた。震える額が、男の硬い膝に触れる。


「あれは何だったのですか? 蓋を開けた途端、冷たい風が吹き荒れて、黒い霧のようなものが私の顔を撫でていきました。耳元で、嘲笑う声がしたのです。『お前たちの身体を病で朽ちさせよう』『お前たちの愛を疑念で引き裂こう』と……! あんな恐ろしいものが、なぜ世界に放たれなければならないのですか!」


パンドラの背中が、抑えきれないしゃくり上げで波打つ。

エピメテウスは、思わず彼女の細い肩に手を伸ばしかけ――そして、空中で指を止めた。


かつて兄プロメテウスと地上に降り立った日の記憶が、鋭い痛みを伴って脳裏に蘇る。

あの時、神々は兄弟に命じた。泥から生まれた生き物たちに、生きるための力と特質を分け与えよ、と。


『エピメテウス、お前が配る役をやると言うのか?』

兄は、すべてを見通すような澄んだ眼差しで自分を見つめていた。

『そうだ兄上! 私に任せてくれ。鳥には翼を、獣には鋭い牙と速い足を、水に棲むものには鰭を。すべて公平に、見事に配ってみせる!』


誇らしげに請け負った結果はどうだったか。

馬には逞しい筋肉を与え、熊には厚い毛皮を与え、鷹には天空を裂く視力を与えた。夢中になって贈り物を配り終え、最後に残された「人間」の前に立ったとき、手の中には何も残っていなかった。知恵も、強さも、寒さを凌ぐ毛皮すらも。


『エピメテウス……お前はいつもそうだ。目の前の熱情に夢中になり、最後に行き着く先を考えない』

兄は嘆息し、だが決して弟を罵倒することはせず、自らの命を削る道を選んだ。天界の火を盗み、震える人間に授けたのだ。その罪によって、兄はいま、コーカサスの峻険な岩山に鎖で縛り付けられ、毎日のように鷲に肝臓を貪られている。


「兄上は……先を見通す神だった」

エピメテウスは乾いた唇を噛み締め、血の味が広がるのを感じた。

「そして私は、すべてが失われてから、愚かしさに気付く神だ。獣たちを無敵にして人間を丸裸にしたのも私なら、兄の警告を忘れ、お前という甘美な罠を受け入れたのも私だ。……私はいつだって、過去の足跡を数えることしかできない。振り返って、壊れた破片を拾い集めて泣くだけの、無力な道化だ!」


「自分をそんな風に言わないで……!」

パンドラが顔を上げた。涙で濡れた頬に、夜の冷気が張り付いている。

「あなたが私を迎え入れてくれた日、あなたの目は優しさに満ちていました。神々が私に与えた美しさを、人々は遠巻きに恐れ、疑った。けれどあなただけは、『お前が誰であろうと、ここにいていい』と微笑んでくれた! あの優しさは、偽りだったのですか?」


「偽りなものか!」

エピメテウスは叫び、そのままパンドラの華奢な肩を両手で掴み起こした。

その力は強すぎて、彼女を痛めつけたかもしれない。だが、溢れ出す感情の奔流を抑える術を、彼は知らなかった。


「偽りだったなら、どんなに楽だったろう! お前がゼウスの差し向けた毒だと知って憎めたなら、こんなにも胸が引き裂かれることはなかった! 私は……お前を愛しているんだ、パンドラ。世界のすべてが滅び去ろうとも、お前が犯した過ちの深さを知ってもなお、お前を憎むことができない。それが……それが私の、本当の愚かさだ!」


二人の視線が、暗闇の中で激しく絡み合う。

外からは、これまで聞いたこともないような不気味な夜風の唸りが聞こえていた。森の奥で、獣が痛みに狂ったような悲鳴を上げている。人間たちの集落の方角からは、争いと怒号、そして幼子の火がついたような泣き叫ぶ声が風に乗って運ばれてくる。


世界は変わってしまったのだ。

もう二度と、黄金の時代のような、穏やかで飢えも老いもない楽園へは戻れない。

冬の凍てつく寒さが彼らの骨を軋ませ、夏の酷暑が喉を焼き、老いが滑らかな肌を醜い皺で覆い尽くすだろう。人間はパンを巡って殺し合い、疑心暗鬼の刃を互いに向け合うだろう。

そのすべてが、この部屋の、この床の上から始まったのだ。


パンドラは震える唇を噛み、そして、ふと視線を落とした。

その先には、虚ろに横たわる黒い陶器の壺があった。


「……エピメテウス様」

彼女の声が、微かな上擦りを帯びて響いた。

「聞こえませんか?」


「風の音だ。悪意の嘲笑だ。もう耳を傾けるな」


「いいえ、違います。風の音ではありません。……壺の中から、何かが呼んでいるのです」


パンドラはエピメテウスの腕をすり抜けると、這うようにして壺へとすり寄った。

「やめろ、パンドラ! また何が出てくるか分からない!」


「でも、泣いているわ。とても小さくて、頼りなくて……まるで、生まれたばかりの小鳥のような……」

パンドラは恐る恐る、壺の内側へと手を伸ばした。


「待つんだ!」

エピメテウスは駆け寄り、彼女の手首を掴もうとした。

だが、その時。


彼の耳にも、はっきりと届いた。

かすかな、羽撃きのような音。

それは先刻飛び去っていった、毒々しい羽音とはまるで違っていた。

荒れ狂う嵐の底で、かすかに鈴を転がすような、あまりにも儚く、透き通った音だった。


壺の底。

あらゆる苦難と災厄が這い出したあとの、暗く冷たい底に、小さな淡い光が宿っていた。

蛍の光よりも微弱で、息を吹きかければたちまち消えてしまいそうな、青白い燐光。


「これは……?」

エピメテウスの指から力が抜けた。


パンドラが、両手でそっと包み込むようにして、その光を壺の底からすくい上げた。

彼女の手のひらの中で、光は丸くなり、かすかな温もりを放っている。


「あなたは、誰なの?」

パンドラが囁きかけると、光の粒が微かに明滅し、二人の心に直接染み渡るような、澄んだ声が響いた。


『私は、最後に残されたもの。ゼウスの怒りすらも気付かずに底へ沈めた、哀れな小さきもの』


「小さきもの……? お前も、人間に降りかかる呪いなのか?」

エピメテウスが問いかけると、光は微かに震え、悲しげに光彩を揺らした。


『私はエルピス――希望。あるいは、呪いよりも残酷な幻影かもしれません』


光はふわりとパンドラの手を離れ、二人の目の前の空間に漂った。


『これから地上を満たす苦痛の前に、人間は幾度も倒れ、血を流し、愛する者を奪われるでしょう。死の冷たさに怯え、老いの醜さに絶望するでしょう。けれど……私が人間の胸に留まる限り、彼らは立ち止まることができません』


エピメテウスは息を呑んだ。

「立ち止まることが、できない……?」


『ええ。明日には良くなるかもしれない、夜が明ければ光が差すかもしれない……そう信じて、終わりのない苦しみを耐え忍び、傷つきながらも歩み続けてしまう。私こそが、死よりも長く人間を苛む、最も甘美で苛烈な執着なのかもしれないのです』


その言葉は、冷酷なまでに真実を突いていた。

絶望の中で死にゆくことすら許されず、「明日は」と夢見ることの残酷さ。それこそが、神が仕組んだ最大の皮肉かもしれない。


だが。


エピメテウスは、自らの胸に手を当てた。

病が放たれ、死が放たれ、最愛の妻が過ちを犯し、自分が過去の愚行を悔やんで血の涙を流している、この瞬間。

彼の胸の奥で、狂おしいほどに疼いている感情は何だったか。


「……それでもだ」


言葉が、自然と唇から零れ落ちていた。


「エピメテウス様?」

パンドラが驚いたように彼を見上げる。


エピメテウスは、漂う小さな光――エルピスを見つめ、静かに、だが揺るぎない声で言った。


「歩み続けることが残酷だとしても、人間が明日を夢見ることが愚行だとしても……私は、お前を呪いとは呼ばない」


彼は一歩前へ進み出た。

「私はエピメテウス。『後から考える者』だ。私は常に過去を悔やみ、自分の愚かさを嘆き、失われたものの大きさに打ちひしがれて生きていく定めだ。だが……だからこそ、痛感するのだ」


彼は光に手を差し伸べた。触れることはできない。だが、その淡い輝きは、泥に汚れた男の指を柔らかく照らし出していた。


「過去を振り返って悔いることができるのは、心が『今よりも善いもの』を知っているからだ。過ちを痛感できるのは、魂が光を覚えているからだ。もしお前がいなければ、人間はただの泥人形に戻り、苦痛の中で何も思わずに朽ち果てるだけだ。……痛みに悶えながらも、なお星を見上げる力を与えるのがお前なら、私はお前を抱きしめよう」


光が、ふっと強く輝いた。まるで、永い孤独の果てに初めて真の名を呼ばれたかのように。


『愚かな神よ』

声が、今度は微笑むように響いた。

『未来を見通せぬゆえに、今を抱きしめる神よ。あなたのその言葉が、いつか人間たちの祈りとなるでしょう』


エルピスの光は、室内の天井へと舞い上がり、そして柔らかい粒子となって降り注いだ。

それはパンドラの胸へ、そしてエピメテウスの胸へと、静かに染み込んで消えていった。


部屋の中に、再び静寂が戻った。

だが、それは先刻までの息の詰まるような絶望の闇ではなかった。

外の嵐は止んでいない。遠くで響く争いの声も、消えてはいない。明日になれば、彼らは見たこともない過酷な世界と向き合わねばならないだろう。


エピメテウスは、ゆっくりとパンドラに向き直った。

彼女の濡れた瞳に、いまや自分自身の姿が映っている。


「パンドラ」

「はい……」


「明日、私たちは人間の集落へ行く。家を建て、火を焚き、寒さを凌ぐ方法を教えよう。作物を育て、薬草を見つける術を、彼らと共に探そう」


パンドラが、信じられないものを見るように目を見開いた。

「私を……連れて行ってくださるのですか? 世界を壊した、この私を?」


エピメテウスは、力強く、彼女の小さな両手を握りしめた。その温もりは、神々のいかなる奇跡よりも生々しく、確かなものだった。


「世界を壊したのは、私と、お前だ。ならば、その壊れた世界の中で共に泥を被り、種を蒔くのも、私とお前の役目だ。兄上が火をくれたように、私たちは彼らに寄り添おう」


彼は自嘲するように、けれど微かな笑みを口元に浮かべた。

「なに、私は先のことなど何一つ見通せない。明日何が起きるかも分からない。……だが、今日蒔いた種が明日芽吹くかどうかを、お前と共に息を呑んで待つことならできる。それが、私の生き方だ」


パンドラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

だがそれは、もはや絶望の涙ではなかった。

彼女はエピメテウスの胸に顔を埋め、彼の乾いた衣を強く、強く握りしめた。


「はい……。どこへでも、参ります。あなたと共に」


東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。

夜の帳の向こう側から、まだ名も知らぬ小鳥が、凍える空気をついばむようにして一啼きした。

新しい、過酷で、そして限りなく美しい朝が、静かに始まろうとしていた。




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