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『エピメテウス――災厄の箱を開けた妻を、私は愛していた』

『エピメテウス――災厄の箱を開けた妻を、私は愛していた』


「開けてはならない」


兄は、そう言った。


「何があっても、ゼウスからの贈り物を受け取るな。まして、その中身を確かめようなどと思うな」


プロメテウス。


先を見通す者。


私の兄は、いつだって正しかった。


そして私は、エピメテウス。


後から考える者。


何かが起きてからでなければ、その意味を理解できない愚か者だった。


けれど、兄よ。


あの日、彼女が私の前に現れたとき。


いったい、どうすればよかったというのだ。


オリュンポスの山々が夕日に染まる頃、一人の女が私の家を訪ねてきた。


黄金色の髪。


夜明けの空を閉じ込めたような瞳。


白い衣の裾には、春の野に咲く花々が刺繍されていた。


彼女が一歩進むたび、風が甘く香った。


「あなたが、エピメテウス様?」


「ああ。そうだが」


「よかった」


女は胸に手を当て、ほっと息をついた。


「道を間違えたのかと思いました」


「ここまで一人で?」


「はい。ヘルメス様が途中まで送ってくださいました」


その名を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。


神々の使者。


ゼウスの命令を運ぶ者。


兄の警告が脳裏によみがえる。


「……お前は、誰だ?」


「パンドラと申します」


彼女は微笑んだ。


「すべての贈り物を授かった女、という意味だそうです」


私は言葉を失った。


美しかったからではない。


いや、美しかった。


恐ろしいほどに。


だが、それ以上に奇妙だったのは、彼女の瞳に宿る不安だった。


神々から贈られた存在だというのに、まるで行き場をなくした子供のように、私を見つめていた。


「私は……こちらへ嫁ぐようにと」


「誰が決めた?」


「ゼウス様です」


やはり。


私は奥歯を噛み締めた。


「帰れ」


彼女の笑顔が消えた。


「……え?」


「悪いが、私はお前を迎えられない」


「私が、何か?」


「お前のせいではない」


「では、なぜ?」


答えられなかった。


ゼウスの罠だから。


兄が危険だと言ったから。


そんな理由で、目の前の女を追い返してよいものか。


パンドラは俯いた。


「そう、ですか」


風が吹いた。


彼女の髪が揺れた。


「では、私はどこへ帰ればよいのでしょう」


「……オリュンポスへ」


「私を造った方々は、もう戻る場所ではないと仰いました」


小さな声だった。


「私は、あなたの妻になるために生まれたのだそうです」


彼女は笑おうとした。


だが、うまく笑えなかった。


「それなのに、あなたにも要らないと言われたら……」


涙が一粒、土に落ちた。


私は天を仰いだ。


兄よ。


お前なら、きっと追い返したのだろう。


だが私は。


「……腹は減っているか?」


彼女が顔を上げた。


「え?」


「食事だ。まだなら、一緒に食べよう」


「よろしいのですか?」


「一晩くらいなら」


パンドラは泣きながら笑った。


その瞬間、私は悟った。


きっと私は、この女を追い返せない。


暮らしは、思いのほか穏やかだった。


朝、パンドラは庭の花に水をやった。


昼には小麦を挽き、夕方には竈に火を入れた。


料理は下手だった。


「エピメテウス様!」


「今度は何だ?」


「パンが石になりました!」


「……昨日も石だったな」


「今日は昨日より柔らかい石です!」


「それは進歩なのか?」


彼女は頬を膨らませた。


私は笑った。


神々が造った最初の女は、完璧などではなかった。


失敗して、怒って、笑って。


夜には星を見上げて、どうでもよい質問を繰り返した。


「ねえ、あなた」


「何だ?」


「どうして人間は眠るの?」


「疲れるからだろう」


「どうして疲れるの?」


「働くからだ」


「どうして働くの?」


「……お前は質問が多いな」


「アテナ様から知恵をいただきましたもの」


「では、自分で考えろ」


「でも、あなたの答えが聞きたいのです」


そう言って、彼女は私の肩に頭を預けた。


私は、その重みが好きだった。


温かくて。


柔らかくて。


確かに、そこに生きている。


神々の贈り物などではない。


私の妻だった。


ただ一つ。


家の隅に置かれた、大きな甕を除いては。


「ねえ、あなた」


ある雨の日だった。


パンドラは甕の前に座り込んでいた。


「これ、中に何が入っているのかしら」


黒く焼かれた陶器。


口は重い蓋で塞がれ、奇妙な紋様が刻まれている。


ゼウスが彼女に持たせたものだった。


「触るな」


私は即座に言った。


「どうして?」


「危険だからだ」


「何が入っているの?」


「知らん」


「知らないのに危険だとわかるの?」


私は黙った。


パンドラは甕を見つめた。


「……ときどき、声がするの」


「声?」


「ええ。泣いているような、呼んでいるような」


雨が屋根を叩いた。


「『出して』って」


私は彼女の肩を掴んだ。


「聞くな」


「でも」


「絶対に開けるな」


思いのほか強い声が出た。


彼女がびくりと身を震わせた。


「……ごめんなさい」


その顔を見て、胸が痛んだ。


「いや、私こそ」


「あなたは、私が怖いの?」


「違う」


「では、私が何か悪いことをすると思っているの?」


「そうではない!」


彼女の瞳が揺れた。


私は言葉を探した。


だが、見つからなかった。


先を見通す兄ならば、きっと正しい説明ができただろう。


私はいつも、何かを失いかけてから言葉を探す。


「……お前を失いたくないだけだ」


ようやく、それだけを言った。


パンドラは目を見開いた。


そして静かに、私の手を握った。


「私もです」


その夜、彼女は甕に布を掛けた。


もう二度と、触れないと約束した。


私はその約束を信じた。


災厄は、春の午後に訪れた。


空は青かった。


蜜蜂が花々を渡り、遠くで羊が鳴いていた。


私は薪を取りに森へ出ていた。


帰り道、突然、風が止まった。


鳥の声が消えた。


世界が息を呑んだ。


次の瞬間。


「いやあああああっ!」


妻の悲鳴が響いた。


私は薪を放り出して走った。


家の扉を蹴破る。


そこには、倒れたパンドラがいた。


そして。


甕の蓋が開いていた。


黒い煙が天井を這っていた。


いや、煙ではない。


無数の影。


虫のように蠢き、人の顔を浮かべ、獣の声で笑うもの。


それらが窓から、扉から、屋根の隙間から飛び出していく。


「やめろ!」


私は叫んだ。


「戻れ!」


影は答えなかった。


一つが私の胸を貫いた。


激痛。


生まれて初めて味わう、骨の奥まで染み込む苦しみ。


別の影が喉を焼いた。


息ができない。


また別の影が耳元で囁いた。


『いずれ、お前も死ぬ』


死。


その言葉の意味を、私はその瞬間に知った。


病。


飢え。


争い。


老い。


嫉妬。


憎悪。


絶望。


神々が人間に与えなかったものが、世界へ解き放たれていく。


「閉めろ!」


私は叫んだ。


「パンドラ! 蓋を!」


彼女は泣きながら甕にしがみついた。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


重い蓋が落ちた。


鈍い音が響いた。


影は消えた。


だが、もう遅かった。


窓の向こう。


青かった空に、初めて暗い雲が広がっていた。


遠くの村から悲鳴が聞こえた。


人々は倒れ、苦しみ、互いを疑い始めていた。


世界が変わってしまった。


取り返しのつかないほどに。


「……私が」


パンドラは床に座り込んでいた。


「私が、全部……」


私は何も言えなかった。


「声がしたのです」


彼女は震える唇で続けた。


「苦しい、助けてって。暗くて怖いって」


涙が頬を伝った。


「だから、少しだけ……少しだけ開ければ、助けられると思って……」


私は拳を握り締めた。


怒りがあった。


確かに、あった。


なぜ約束を破った。


なぜ私を待たなかった。


なぜ。


なぜ。


なぜ。


だが、彼女の手を見た。


蓋を閉めようとして擦り切れた指。


血の滲んだ爪。


そして、何より。


自分が何をしたのか理解してしまった女の顔。


「……私を殺してください」


パンドラは言った。


「私がいなければ、こんなことには」


「黙れ」


「でも!」


「黙れと言っている!」


彼女が身を縮めた。


私は膝をついた。


「……私も悪かった」


「あなたは何も」


「知っていた」


私は震える声で言った。


「兄に警告されていた。ゼウスの贈り物は危険だと」


パンドラが顔を上げた。


「ならば、なぜ私を?」


「……愛してしまったからだ」


沈黙が落ちた。


「お前が笑うのを、見ていたかった」


私の声は情けないほど掠れていた。


「お前が焼く石のようなパンを、また食べたかった」


「……あなた」


「お前を一人で帰せなかった。泣いているお前を、放っておけなかった」


私は彼女を抱き締めた。


「愚かだったのは、私も同じだ」


パンドラは声を上げて泣いた。


私の胸に爪を立て、何度も謝った。


その背を撫でながら、私は考えた。


兄よ。


これが、お前の言っていた未来なのか。


やがて、甕の中から小さな音がした。


こつん。


こつん。


私たちは顔を上げた。


「……まだ、何かいる」


パンドラが怯えた。


「開けてはならない」


私は言った。


だが、そのとき。


か細い声が聞こえた。


『お願い』


少女のような声だった。


『私を、ここから出して』


パンドラは首を振った。


「もう、騙されません」


『私は、最後に残されたもの』


「嘘です!」


『私がいなければ、人は明日を迎えられない』


私は甕を見つめた。


『病に倒れても、再び立ち上がるために』


声は続いた。


『愛する者を失っても、誰かを愛するために』


胸が締めつけられた。


『どうか、私を』


「……名前は?」


私は尋ねた。


しばらくの沈黙。


そして。


『エルピス』


希望。


私はパンドラを見た。


彼女も私を見つめ返した。


「……あなた」


「ああ」


「また、間違えるかもしれません」


「そうだな」


「今度こそ、取り返しがつかないかもしれません」


私は苦笑した。


「もう十分、取り返しがつかん」


パンドラは泣きながら笑った。


私は甕の蓋に手を掛けた。


重かった。


まるで世界そのものを持ち上げるようだった。


だが、二人でなら。


「せーの」


蓋が開いた。


小さな光が飛び出した。


金色の、頼りない光。


それは蝶のように羽ばたき、私たちの周りを一度だけ巡った。


そして窓の外へ飛んでいった。


暗い空へ。


苦しむ人々のもとへ。


世界は元には戻らなかった。


病は消えなかった。


飢えも、争いも、死も。


人間は泣くようになった。


大切な者を失い、明日を恐れ、過ぎ去った日々を悔やむようになった。


けれど。


泣きながら種を蒔く者がいた。


傷つきながら隣人に手を差し伸べる者がいた。


墓の前で涙を流した者が、翌朝、生まれた子を抱いて微笑んだ。


人々は苦しみを知った。


そして、苦しみの中でも生きようとした。


ある夕暮れ。


パンドラが私に尋ねた。


「あなたは、後悔していますか?」


私は空を見上げた。


西の果てで、太陽が赤く燃えていた。


「している」


彼女の肩が震えた。


「お前を迎えたことではない」


私は続けた。


「お前に何も話さなかったことだ。危険だとだけ言って、理由を伝えなかったことだ」


「……私も、後悔しています」


「ああ」


「毎日、きっと死ぬまで」


私は彼女の手を握った。


「ならば、一緒に後悔しよう」


「……え?」


「一人で背負うには、重すぎる」


パンドラは俯いた。


「私は、世界を不幸にしました」


「そうかもしれん」


「それでも、私といてくださるの?」


私は少し考えた。


先を見通す兄なら、何と答えただろう。


正しい未来。


正しい選択。


正しい結末。


私は、そんなものを知らない。


ただ、目の前の妻が泣いている。


それだけはわかる。


「パンドラ」


「はい」


「明日の朝は、パンを焼いてくれ」


彼女が瞬きをした。


「……また石になりますよ?」


「構わん」


「歯が欠けます」


「ならば、柔らかく焼く練習をしよう」


「失敗したら?」


「また焼けばいい」


パンドラの瞳から、大粒の涙が落ちた。


「……何度でも?」


「ああ」


私は笑った。


「何度でもだ」


彼女は私の胸に顔を埋めた。


空には、一番星が輝いていた。


私はエピメテウス。


後から考える者。


いつも間違え、いつも悔やみ、失ってからようやく大切なものに気づく愚か者。


だが、今ならわかる。


希望とは、未来を知ることではない。


未来を知らなくても、明日を選ぶことなのだ。


「愛しているわ、エピメテウス」


「ああ。私もだ、パンドラ」


世界には、もう苦しみがある。


私たちはそれを消せない。


けれど、夜が明ければ。


また二人で、パンを焼こう。


たとえ、石のように硬くても。


笑いながら。


何度でも。


――終――



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