『パンドラ ― 最後に残された光 ―』
『パンドラ ― 最後に残された光 ―』
世界がまだ若かった頃、空はどこまでも青く、海は宝石のように輝いていた。
人々は病を知らず、老いを恐れず、死の悲しみさえ知らなかった。
そんな世界に、ひとりの美しい娘が生まれた。
名は、パンドラ。
神々からあらゆる贈り物を授けられた、最初の人間の女だった。
彼女の髪は夜明けの黄金を映し、瞳には春の泉のような輝きが宿っていた。美の女神アフロディーテは彼女に魅力を、アテナは知恵と織物の技を、ヘルメスは巧みな言葉と尽きることのない好奇心を与えた。
だが、神々の王ゼウスだけは、彼女に奇妙な贈り物を授けた。
それは、銀の蔦が絡みつく、美しい壺だった。
「パンドラよ」
雷鳴のような声が天上に響いた。
「この壺を、おまえに授けよう。ただし、決して蓋を開けてはならぬ」
パンドラは壺を見つめた。
「なぜですか、ゼウス様?」
「知らぬほうが幸せなこともある」
「でも……中には何が?」
ゼウスの金色の瞳が、冷たく細められた。
「それを問うことすら、許さぬ」
その声に、パンドラは小さく肩を震わせた。
「……はい」
彼女は壺を胸に抱いた。
冷たい陶器の奥で、何かがかすかに動いた気がした。
*
パンドラは、心優しい青年エピメテウスの妻となった。
二人の家は、オリーブの木々に囲まれた丘の上にあった。春には白い花が咲き乱れ、夏には蝉が歌い、夕暮れには海から柔らかな風が吹いた。
「パンドラ!」
ある日、エピメテウスが籠いっぱいの葡萄を抱えて帰ってきた。
「見てくれ! こんなに採れたぞ!」
「まあ! あなたったら、葡萄を採りに行ったの? それとも木ごと持って帰るつもりだったの?」
「君が喜ぶと思ったんだ」
「ふふっ。もちろん嬉しいわ」
パンドラは笑い、彼の頬についた土を指で拭った。
「でも、あなたが無事に帰ってきてくれることが、一番嬉しいの」
「大げさだな。世界はこんなにも平和なのに」
「そうね……」
彼女は微笑んだ。
けれど、その視線は家の奥へと向かっていた。
薄暗い部屋の片隅。
紫色の布をかけられた、あの壺。
夜になると、そこから声が聞こえるのだ。
『……出して』
最初は風の音だと思った。
『お願い……ここは暗いの』
ある夜、パンドラは寝台から起き上がった。
「誰……?」
返事はなかった。
彼女は裸足のまま壺へ近づいた。月光が窓から差し込み、銀の装飾を青白く照らしている。
「そこに、誰かいるの?」
『いるわ……ずっと、あなたを待っていた』
パンドラの胸が高鳴った。
「閉じ込められているの?」
『そうよ。苦しいの。助けて……』
「かわいそうに……」
彼女が蓋に手を伸ばした瞬間、
「パンドラ!」
背後から声がした。
振り返ると、エピメテウスが立っていた。
「何をしているんだ?」
「この壺の中に、誰かがいるの!」
「壺の中?」
「ええ! 助けを求めているのよ!」
エピメテウスの顔から血の気が引いた。
「触れてはいけない」
「でも!」
「兄のプロメテウスが言っていた。ゼウスからの贈り物には気をつけろ、と」
「それなら、なおさら確かめなければ!」
「パンドラ!」
彼は彼女の肩をつかんだ。
「君を失いたくないんだ」
その言葉に、パンドラは唇を噛んだ。
「……わかったわ」
けれど、胸の奥には小さな棘が残った。
助けを求める声を、聞かなかったことにしてよいのだろうか。
*
それから幾日も過ぎた。
壺の声は、日ごとに大きくなった。
『寒い……』
『苦しい……』
『どうして助けてくれないの?』
パンドラは耳を塞いだ。
「やめて……お願い……」
『あなたは優しいのでしょう?』
「……そうよ」
『なら、どうして?』
彼女は答えられなかった。
ある日の午後。
エピメテウスが畑へ出かけ、家にはパンドラひとりが残された。
空には灰色の雲が広がっていた。
風が止み、鳥たちの歌声さえ消えた。
パンドラは壺の前に膝をついた。
「……少しだけ」
震える指で、蓋に触れる。
「少しだけ、覗くだけなら……」
『ありがとう』
その声は、ひどく優しかった。
パンドラは息を吸い込んだ。
そして――蓋を持ち上げた。
瞬間。
轟音が家を揺らした。
「きゃああっ!」
壺の中から、黒い煙が噴き上がった。
それは無数の影となり、蛇のようにうねり、窓を突き破って空へ飛び出した。
『自由だ!』
『憎め! 奪え! 傷つけろ!』
『苦しめ! 絶望しろ!』
耳を裂くような笑い声。
パンドラは床に倒れ込んだ。
「な、何なの……あなたたちは……!」
黒い影のひとつが、醜い顔を彼女に近づけた。
『我は病!』
別の影が叫んだ。
『我は飢え!』
『我は嫉妬!』
『我は争い!』
最後に、ひときわ巨大な影が天井まで膨れ上がった。
『そして我は、死だ!』
「いやあああっ!」
パンドラは必死に蓋を押し戻した。
ガタンッ!
壺が閉じられた。
だが、遅かった。
黒い影はすでに世界へ散っていた。
遠くで雷が鳴った。
初めて、世界に冷たい雨が降り始めた。
*
「パンドラ!」
扉が勢いよく開いた。
エピメテウスが駆け込んできた。その腕には赤い傷が走り、血が流れていた。
「あなた……その腕!」
「畑で石が崩れたんだ。こんな痛みは初めてだ……一体、何が起きた?」
パンドラは震えながら彼を見上げた。
「……開けてしまったの」
「何を?」
「壺を……」
沈黙。
雨音だけが二人の間を埋めた。
「……なぜだ」
エピメテウスの声は、ひどく低かった。
「約束したじゃないか」
「ごめんなさい……」
「どうして!」
初めて聞く怒声だった。
パンドラはびくりと身を縮めた。
「助けてって……声がしたの。苦しいって……」
「それを信じたのか!」
「だって、放っておけなかったの!」
涙が頬を伝った。
「誰かが苦しんでいるのに、知らないふりなんてできなかった……!」
エピメテウスは言葉を失った。
パンドラは床に額を伏せた。
「私が……世界を壊してしまった……」
外では、嵐が荒れ狂っていた。
花は散り、木々は折れ、遠くの村からは人々の悲鳴が響いてきた。
初めての苦痛。
初めての恐怖。
初めての涙。
そのすべてが、パンドラの胸を引き裂いた。
「私なんて……生まれてこなければよかった……」
そのときだった。
『……違うわ』
かすかな声がした。
パンドラは顔を上げた。
「……え?」
『まだ、ここにいる』
声は壺の中から聞こえていた。
彼女は青ざめた。
「まだ……何かいるの……?」
エピメテウスが彼女の前に立った。
「もう開けるな!」
『お願い……』
声は弱々しかった。
『私を、ここから出して』
「だめ……もう、だめよ……」
パンドラは泣きながら首を振った。
「あなたも、世界を苦しめるのでしょう?」
『いいえ』
「嘘よ! さっきもそう言われた!」
『私は、あなたを待っていたの』
パンドラの指が止まった。
『ずっと、暗闇の底で』
「……あなたは、誰?」
『私は、希望』
その言葉は、雨音の中に小さく灯った。
エピメテウスが息を呑む。
「希望……?」
『苦しみを消すことはできない。死を追い払うことも、失ったものを取り戻すこともできない』
声は静かに続いた。
『けれど、涙を流す者に、明日を信じる力を与えることはできる』
パンドラは壺を見つめた。
「……本当に?」
『信じるかどうかは、あなたが決めること』
長い沈黙が訪れた。
パンドラはエピメテウスを振り返った。
「……怖いわ」
「ああ」
「また、間違えるかもしれない」
「そうだな」
「それでも……開けたいの」
エピメテウスは彼女を見つめた。
その瞳には怒りも悲しみも残っていた。
だが、やがて彼はそっと手を差し伸べた。
「……今度は、一緒に開けよう」
「あなた……」
「何が起きても、君ひとりの罪にはしない」
パンドラの瞳から、新しい涙がこぼれた。
二人は手を重ねた。
そして、再び蓋を開けた。
ふわり。
壺の底から、小さな光が浮かび上がった。
それは蛍のように頼りなく、星のように美しかった。
光は二人の周りをゆっくり巡り、やがて開いた窓から外へ飛び出した。
嵐はまだ続いていた。
病も、飢えも、争いも、世界から消えてはいなかった。
それでも。
雨に打たれた一輪の花が、ゆっくりと顔を上げた。
傷ついた鳥が、再び翼を広げた。
泣いていた子供が、母親の手を握り返した。
パンドラは窓辺に立った。
「……世界は、元には戻らないのね」
「ああ」
エピメテウスが隣に並ぶ。
「でも、これからどう生きるかは、まだ決められる」
彼女は彼の傷ついた手を、両手で包んだ。
「私、償いたい」
「どうやって?」
「苦しんでいる人のそばにいるの。泣いている人の手を握るの。私が世界に放ってしまった悲しみから、もう目を背けない」
エピメテウスは静かに微笑んだ。
「なら、俺も一緒に行こう」
「……怒っていないの?」
「怒っているさ」
彼は少し困ったように笑った。
「でも、君を愛していることも、本当なんだ」
パンドラは声を上げて泣いた。
そして、彼の胸に顔を埋めた。
やがて雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込んだ。
それは濡れた大地を照らし、二人の足元に淡い虹を描いた。
天上からその光景を見下ろしていたゼウスは、何も言わなかった。
人間に苦しみを与えたはずだった。
だが、苦しみの中でなお誰かを愛し、明日を望む心までは、神々にも奪えなかった。
パンドラは空を仰いだ。
「ねえ、エピメテウス」
「何だい?」
「いつか、人々は幸せになれるかしら」
彼は少し考えてから答えた。
「きっと、幸せを探し続けるんだろうな」
「……そうね」
パンドラは涙を拭い、微笑んだ。
「それなら私も、探し続けるわ」
世界には、初めて夜の闇が訪れようとしていた。
けれど、その空には無数の星が輝き始めていた。
暗闇が深ければ深いほど、小さな光は鮮やかに見える。
そして人々は、やがて知ることになる。
希望とは、苦しみのない世界に咲く花ではない。
苦しみのただ中で、それでも明日を信じようとする、人間の心そのものなのだと。
――それが、パンドラが最後に世界へ贈ったものだった。
〈終〉




