↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/50

『パンドラ ― 最後に残された光 ―』

『パンドラ ― 最後に残された光 ―』


 世界がまだ若かった頃、空はどこまでも青く、海は宝石のように輝いていた。


 人々は病を知らず、老いを恐れず、死の悲しみさえ知らなかった。


 そんな世界に、ひとりの美しい娘が生まれた。


 名は、パンドラ。


 神々からあらゆる贈り物を授けられた、最初の人間の女だった。


 彼女の髪は夜明けの黄金を映し、瞳には春の泉のような輝きが宿っていた。美の女神アフロディーテは彼女に魅力を、アテナは知恵と織物の技を、ヘルメスは巧みな言葉と尽きることのない好奇心を与えた。


 だが、神々の王ゼウスだけは、彼女に奇妙な贈り物を授けた。


 それは、銀の蔦が絡みつく、美しい壺だった。


「パンドラよ」


 雷鳴のような声が天上に響いた。


「この壺を、おまえに授けよう。ただし、決して蓋を開けてはならぬ」


 パンドラは壺を見つめた。


「なぜですか、ゼウス様?」


「知らぬほうが幸せなこともある」


「でも……中には何が?」


 ゼウスの金色の瞳が、冷たく細められた。


「それを問うことすら、許さぬ」


 その声に、パンドラは小さく肩を震わせた。


「……はい」


 彼女は壺を胸に抱いた。


 冷たい陶器の奥で、何かがかすかに動いた気がした。


 *


 パンドラは、心優しい青年エピメテウスの妻となった。


 二人の家は、オリーブの木々に囲まれた丘の上にあった。春には白い花が咲き乱れ、夏には蝉が歌い、夕暮れには海から柔らかな風が吹いた。


「パンドラ!」


 ある日、エピメテウスが籠いっぱいの葡萄を抱えて帰ってきた。


「見てくれ! こんなに採れたぞ!」


「まあ! あなたったら、葡萄を採りに行ったの? それとも木ごと持って帰るつもりだったの?」


「君が喜ぶと思ったんだ」


「ふふっ。もちろん嬉しいわ」


 パンドラは笑い、彼の頬についた土を指で拭った。


「でも、あなたが無事に帰ってきてくれることが、一番嬉しいの」


「大げさだな。世界はこんなにも平和なのに」


「そうね……」


 彼女は微笑んだ。


 けれど、その視線は家の奥へと向かっていた。


 薄暗い部屋の片隅。


 紫色の布をかけられた、あの壺。


 夜になると、そこから声が聞こえるのだ。


『……出して』


 最初は風の音だと思った。


『お願い……ここは暗いの』


 ある夜、パンドラは寝台から起き上がった。


「誰……?」


 返事はなかった。


 彼女は裸足のまま壺へ近づいた。月光が窓から差し込み、銀の装飾を青白く照らしている。


「そこに、誰かいるの?」


『いるわ……ずっと、あなたを待っていた』


 パンドラの胸が高鳴った。


「閉じ込められているの?」


『そうよ。苦しいの。助けて……』


「かわいそうに……」


 彼女が蓋に手を伸ばした瞬間、


「パンドラ!」


 背後から声がした。


 振り返ると、エピメテウスが立っていた。


「何をしているんだ?」


「この壺の中に、誰かがいるの!」


「壺の中?」


「ええ! 助けを求めているのよ!」


 エピメテウスの顔から血の気が引いた。


「触れてはいけない」


「でも!」


「兄のプロメテウスが言っていた。ゼウスからの贈り物には気をつけろ、と」


「それなら、なおさら確かめなければ!」


「パンドラ!」


 彼は彼女の肩をつかんだ。


「君を失いたくないんだ」


 その言葉に、パンドラは唇を噛んだ。


「……わかったわ」


 けれど、胸の奥には小さな棘が残った。


 助けを求める声を、聞かなかったことにしてよいのだろうか。


 *


 それから幾日も過ぎた。


 壺の声は、日ごとに大きくなった。


『寒い……』


『苦しい……』


『どうして助けてくれないの?』


 パンドラは耳を塞いだ。


「やめて……お願い……」


『あなたは優しいのでしょう?』


「……そうよ」


『なら、どうして?』


 彼女は答えられなかった。


 ある日の午後。


 エピメテウスが畑へ出かけ、家にはパンドラひとりが残された。


 空には灰色の雲が広がっていた。


 風が止み、鳥たちの歌声さえ消えた。


 パンドラは壺の前に膝をついた。


「……少しだけ」


 震える指で、蓋に触れる。


「少しだけ、覗くだけなら……」


『ありがとう』


 その声は、ひどく優しかった。


 パンドラは息を吸い込んだ。


 そして――蓋を持ち上げた。


 瞬間。


 轟音が家を揺らした。


「きゃああっ!」


 壺の中から、黒い煙が噴き上がった。


 それは無数の影となり、蛇のようにうねり、窓を突き破って空へ飛び出した。


『自由だ!』


『憎め! 奪え! 傷つけろ!』


『苦しめ! 絶望しろ!』


 耳を裂くような笑い声。


 パンドラは床に倒れ込んだ。


「な、何なの……あなたたちは……!」


 黒い影のひとつが、醜い顔を彼女に近づけた。


『我は病!』


 別の影が叫んだ。


『我は飢え!』


『我は嫉妬!』


『我は争い!』


 最後に、ひときわ巨大な影が天井まで膨れ上がった。


『そして我は、死だ!』


「いやあああっ!」


 パンドラは必死に蓋を押し戻した。


 ガタンッ!


 壺が閉じられた。


 だが、遅かった。


 黒い影はすでに世界へ散っていた。


 遠くで雷が鳴った。


 初めて、世界に冷たい雨が降り始めた。


 *


「パンドラ!」


 扉が勢いよく開いた。


 エピメテウスが駆け込んできた。その腕には赤い傷が走り、血が流れていた。


「あなた……その腕!」


「畑で石が崩れたんだ。こんな痛みは初めてだ……一体、何が起きた?」


 パンドラは震えながら彼を見上げた。


「……開けてしまったの」


「何を?」


「壺を……」


 沈黙。


 雨音だけが二人の間を埋めた。


「……なぜだ」


 エピメテウスの声は、ひどく低かった。


「約束したじゃないか」


「ごめんなさい……」


「どうして!」


 初めて聞く怒声だった。


 パンドラはびくりと身を縮めた。


「助けてって……声がしたの。苦しいって……」


「それを信じたのか!」


「だって、放っておけなかったの!」


 涙が頬を伝った。


「誰かが苦しんでいるのに、知らないふりなんてできなかった……!」


 エピメテウスは言葉を失った。


 パンドラは床に額を伏せた。


「私が……世界を壊してしまった……」


 外では、嵐が荒れ狂っていた。


 花は散り、木々は折れ、遠くの村からは人々の悲鳴が響いてきた。


 初めての苦痛。


 初めての恐怖。


 初めての涙。


 そのすべてが、パンドラの胸を引き裂いた。


「私なんて……生まれてこなければよかった……」


 そのときだった。


『……違うわ』


 かすかな声がした。


 パンドラは顔を上げた。


「……え?」


『まだ、ここにいる』


 声は壺の中から聞こえていた。


 彼女は青ざめた。


「まだ……何かいるの……?」


 エピメテウスが彼女の前に立った。


「もう開けるな!」


『お願い……』


 声は弱々しかった。


『私を、ここから出して』


「だめ……もう、だめよ……」


 パンドラは泣きながら首を振った。


「あなたも、世界を苦しめるのでしょう?」


『いいえ』


「嘘よ! さっきもそう言われた!」


『私は、あなたを待っていたの』


 パンドラの指が止まった。


『ずっと、暗闇の底で』


「……あなたは、誰?」


『私は、希望』


 その言葉は、雨音の中に小さく灯った。


 エピメテウスが息を呑む。


「希望……?」


『苦しみを消すことはできない。死を追い払うことも、失ったものを取り戻すこともできない』


 声は静かに続いた。


『けれど、涙を流す者に、明日を信じる力を与えることはできる』


 パンドラは壺を見つめた。


「……本当に?」


『信じるかどうかは、あなたが決めること』


 長い沈黙が訪れた。


 パンドラはエピメテウスを振り返った。


「……怖いわ」


「ああ」


「また、間違えるかもしれない」


「そうだな」


「それでも……開けたいの」


 エピメテウスは彼女を見つめた。


 その瞳には怒りも悲しみも残っていた。


 だが、やがて彼はそっと手を差し伸べた。


「……今度は、一緒に開けよう」


「あなた……」


「何が起きても、君ひとりの罪にはしない」


 パンドラの瞳から、新しい涙がこぼれた。


 二人は手を重ねた。


 そして、再び蓋を開けた。


 ふわり。


 壺の底から、小さな光が浮かび上がった。


 それは蛍のように頼りなく、星のように美しかった。


 光は二人の周りをゆっくり巡り、やがて開いた窓から外へ飛び出した。


 嵐はまだ続いていた。


 病も、飢えも、争いも、世界から消えてはいなかった。


 それでも。


 雨に打たれた一輪の花が、ゆっくりと顔を上げた。


 傷ついた鳥が、再び翼を広げた。


 泣いていた子供が、母親の手を握り返した。


 パンドラは窓辺に立った。


「……世界は、元には戻らないのね」


「ああ」


 エピメテウスが隣に並ぶ。


「でも、これからどう生きるかは、まだ決められる」


 彼女は彼の傷ついた手を、両手で包んだ。


「私、償いたい」


「どうやって?」


「苦しんでいる人のそばにいるの。泣いている人の手を握るの。私が世界に放ってしまった悲しみから、もう目を背けない」


 エピメテウスは静かに微笑んだ。


「なら、俺も一緒に行こう」


「……怒っていないの?」


「怒っているさ」


 彼は少し困ったように笑った。


「でも、君を愛していることも、本当なんだ」


 パンドラは声を上げて泣いた。


 そして、彼の胸に顔を埋めた。


 やがて雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込んだ。


 それは濡れた大地を照らし、二人の足元に淡い虹を描いた。


 天上からその光景を見下ろしていたゼウスは、何も言わなかった。


 人間に苦しみを与えたはずだった。


 だが、苦しみの中でなお誰かを愛し、明日を望む心までは、神々にも奪えなかった。


 パンドラは空を仰いだ。


「ねえ、エピメテウス」


「何だい?」


「いつか、人々は幸せになれるかしら」


 彼は少し考えてから答えた。


「きっと、幸せを探し続けるんだろうな」


「……そうね」


 パンドラは涙を拭い、微笑んだ。


「それなら私も、探し続けるわ」


 世界には、初めて夜の闇が訪れようとしていた。


 けれど、その空には無数の星が輝き始めていた。


 暗闇が深ければ深いほど、小さな光は鮮やかに見える。


 そして人々は、やがて知ることになる。


 希望とは、苦しみのない世界に咲く花ではない。


 苦しみのただ中で、それでも明日を信じようとする、人間の心そのものなのだと。


 ――それが、パンドラが最後に世界へ贈ったものだった。


              〈終〉



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。