『底に残されし蝶』パンドラ
乾いた風がオリーブの銀葉を揺らし、波のさざめきのような微かな音を立てていた。
ヘパイストスの工房の炉が、かつて自分という土塊を焼き固めた日のことを、パンドラはぼんやりと思い出していた。鍛冶神の頑丈な指先が輪郭を撫で、アフロディテが息を吹きかけて美の雫を落とし、ヘルメスが舌に巧みな言葉と好奇心の棘を植えつけた。そして、オリュンポスの王ゼウス自らが、その胸に小さな鍵と重々しい匣を託したのだ。
「決して開けてはならぬ」と。
神々の声は今も耳の奥底に張り付いて離れない。神話が命じる戒めは、人の心においては最も純度の高い毒薬となることを、神々は知っていたはずだった。
「パンドラ、何をぼんやりと空を見つめているんだい?」
中庭の敷石をサンダルで叩きながら、夫であるエピメテウスが葡萄の蔓を抱えて歩み寄ってきた。豊かな巻き毛に汗を光らせ、口元にはいつも変わらぬ、無防備で穏やかな笑みをたたえている。彼の名は「後悔する者」、あるいは「あとから気づく者」。前もってすべてを見通す兄プロメテウスとは正反対の、あまりに人の良すぎるタイタンの末裔。
「……いえ。少し、風の匂いが変わったような気がして」
パンドラは胸元に隠した鍵の冷たさを衣越しに指先で確かめながら、微笑みを返した。
「風? ああ、西から心地よい風が吹いているね。今日は野の麦もよく実っている。兄上の言っていた不吉な予言なんて、何ひとつ当たりはしない。君がこの館に来てくれてから、我が家はずっと春のようだ」
エピメテウスは心底嬉しそうにパンドラの肩に手を置いた。その手の温もりが、かえってパンドラの胸の奥に冷たい棘を突き刺す。
「エピメテウス……あなたは、恐ろしくはないの?」
「恐ろしい? 何がだい?」
「あの匣よ。大神ゼウスが私に持たせた、青銅と黒檀の匣。奥の間で、夜ごとに鈍い唸り声を上げているように思えてならないの。まるで、中で何千もの何かが爪を立てて、蓋を引っ掻いているような……」
エピメテウスは困ったように眉を下げ、優しく首を振った。
「気のせいだよ、パンドラ。あれは天界からの贈りものだ。兄上は『ゼウスの贈りものには裏がある、決して受け取るな』と口を酸っぱくして警告したが、私は君を受け入れた。そして君は、こんなにも優しく、美しい。神々が私たちを滅ぼそうとするはずがないじゃないか」
「でも、開けてはならぬと言われたのよ。開けてはならぬものを、なぜ人は手元に置かねばならないの? 見ることの叶わない宝など、それは祝福ではなく呪いではないの?」
パンドラの声音がわずかに震え、切迫した色が混じった。琥珀色の瞳が揺れている。
エピメテウスは一瞬たじろいだが、すぐにいつもの呑気な笑みを取り戻し、彼女の手を包み込んだ。
「考えすぎだよ。忘れよう。見なければいいだけの話だ。さあ、今日は夕餉に山羊の乳のチーズと無花果をたっぷり用意したんだ。冷たい泉の水で葡萄酒を割ろう」
夫の手を握り返しながら、パンドラは喉の奥に広がる渇きを覚えていた。
「見なければいい」。
なぜ男たちは、そう簡単に目を背けることができるのだろう。そこに世界を根底から覆す秘密が横たわっているかもしれないというのに、なぜ無邪気に無花果の甘さだけに浸っていられるのだろう。
知りたい。
どうしても、知りたい。
その渇望は、神々が彼女の血肉に混ぜ合わせた、決して癒えることのない猛毒だった。
*
夜が天幕を広げ、館は深海のような静けさに沈んだ。
エピメテウスの規則正しい寝息が寝台から聞こえてくる。彼は今夜も何の疑いも持たず、泥のように眠っていた。窓からは冷ややかな月光が差し込み、白い大理石の床に長い影を落としている。
パンドラは音もなく身を起こした。
素足が冷たい石を踏む。首から提げた細い革紐の先で、青銅の鍵がかすかに鳴った。チリン、と鈴のような澄んだ音。その微かな響きが、館の奥から呼応する何かを呼び覚ましたように感じられた。
(おいで、パンドラ)
誰の声でもない。だが、風の唸りのような、あるいは無数の囁き声の重なりのような響きが、奥の間の暗がりから這い寄ってくる。
(美しいパンドラ。知恵ある女よ。お前はただの飾り人形として作られたのか? 神々の戯れに盲目に従うだけの、空っぽの器として息をしているのか?)
「違う……」
パンドラは唇を噛み、奥の間へと続く重い樫の木の扉を押し開けた。蝶番がきしみ、暗闇が彼女を迎え入れる。
部屋の中央、白亜の台座の上に、それは鎮座していた。
オリュンポスの鉱物で鍛えられた黒檀の匣。蓋には蛇と蔦が絡み合う緻密な彫金が施され、月の光を吸い込んで鈍くぎらついている。昼間は沈黙を守っていたはずの匣の周りの空気が、陽炎のように揺らめいていた。
パンドラは台座に膝をついた。冷気が匣の隙間から漏れ出し、彼女の剥き出しの膝を撫でる。
「……何が入っているの?」
独り言のように呟いた言葉に、匣の中から直接、頭蓋を震わせるような囁きが返る。
(神々がお前たちから隠した、世界の真実だ)
(知るのだ、パンドラ。知ることこそが、土人形のお前が真の人間になる唯一の道だ)
胸の奥が熱く焼けるようだった。好奇心はもはや火花ではなく、制御不能の業火となってパンドラの理性を焼き尽くそうとしていた。
震える指先が胸元から鍵を外す。冷たい青銅の感触が、異様なほど熱を帯びた指に心地よかった。
鍵穴は、匣の正面で、まるで小さな瞳のように口を開けていた。
「だめよ、パンドラ」
彼女は自分自身に言い聞かせた。
「開ければ、戻れなくなる。エピメテウスの穏やかな笑顔も、あの葡萄棚の木漏れ日も、すべて壊れてしまうかもしれない」
だが、もうひとつの声が耳元で甘く毒を吐く。
(戻る必要などどこにある? 無知の楽園に飼い慣らされた羊のままで、お前は本当に満ち足りているのか?)
「私は……!」
カチリ。
乾いた金属音が、静寂の底に響き渡った。
パンドラの手が、無意識のうちに鍵を差し込み、回していた。
その瞬間、世界の箍が外れるような、低く重い地響きが足元を走った。
「あ……」
後悔の波が瞬時に押し寄せ、パンドラは手を引っ込めようとした。だが、遅かった。
鍵が外れた青銅の留め金が跳ね上がり、蓋がわずかに、指一本分だけ持ち上がった。
シューッ、という、煮え滾る油に水を注いだような異音が漏れ出す。
次の瞬間、爆発的な突風が匣の中から吹き荒れた。
「きゃあああっ!」
パンドラは石床に吹き飛ばされた。
匣の蓋が跳ね飛ばされ、中から噴き出したのは、黒煙の柱だった。いや、それは煙ではなかった。蛾のように羽ばたき、蛇のように蠢き、獣のように牙を剥く、無数の影たちの群れだった。
部屋の壁を黒い影が埋め尽くし、天井を覆い、狂乱の叫び声を上げる。
『我らは病! 骨を軋ませ、肉を腐らせ、息を奪うもの!』
『我らは老い! 若き肌を枯らし、瞳の光を奪い、背を曲げるもの!』
『我らは嫉妬! 疑心! 憎悪! 狂気! 飢餓! 死!』
影たちは嘲笑しながら、パンドラの周りを渦巻いた。
ある影は氷のような爪でパンドラの頬をかすめ、ある影は耳元で呪詛の言葉を叫び散らす。
「しまれ! 閉まりなさい!」
パンドラは床を這い、嵐のような瘴気の中に腕を突っ込んだ。皮膚が焼けるように熱く、呼吸をするたびに肺が針で刺されたように痛む。
涙で視界が滲む中、彼女は両手で必死に重い蓋を掴み、力任せに押し下げようとした。
「お願い、戻って! 出ないで!」
だが、影たちは彼女の細い腕をすり抜け、あるいは突き飛ばし、開け放たれた窓へ、扉の隙間へと雪崩を打って逃げ出していく。夜空へ解き放たれた無数の黒い悪霊たちは、星々の光を呑み込みながら、静まり返っていた地上の村々へ、人間の住処へと四方八方に散っていった。
「パンドラ! 何事だ!」
騒ぎを聞きつけたエピメテウスが、青ざめた顔で部屋に飛び込んできた。
しかし彼が見たのは、部屋を埋め尽くす異形の気流と、床に倒れ伏して泣き叫ぶ妻の姿だった。
「来るな、エピメテウス! 逃げて!」
パンドラが叫んだ瞬間、一体の黒い影がエピメテウスの胸を貫くようにすり抜けていった。
エピメテウスの体が硬直する。その優しい瞳から光が失われ、眉間に深い苦悶の皺が刻まれた。
「う……ぐああああっ! な、何だこれは……痛い、胸が……心が、引き裂かれるようだ! 疑いが……憎しみが……パンドラ、お前、お前はいったい何をしたんだ!」
かつて聞いたことのない、憎悪と恐怖に満ちた夫の怒声。
それが、解き放たれた「災厄」の最初の一撃だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
パンドラは血を吐くような思いで、全体重をかけて蓋を叩きつけた。
ドシン!
重い衝撃音とともに、蓋が閉ざされた。
青銅の留め金が再び落ち、部屋の中の狂風がぴたりと止んだ。
嵐は去った。
だが、すべては手遅れだった。
部屋の中には、焦げたような悪臭と、冷え切った絶望だけが残されていた。
窓の外を見れば、遠くの街のあちこちから、今までに地上には存在しなかった「悲鳴」と「泣き声」が、夜風に乗って微かに届き始めていた。病が人を冒し、死が忍び寄り、争いが火を噴いたのだ。
エピメテウスは壁にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返しながら、底冷えのするような目でパンドラを睨みつけていた。
「お前が……お前の好奇心が、世界を壊したんだ。神々の警告通り、お前は災いそのものだった……」
「エピメテウス……」
パンドラは這い寄ろうとしたが、夫は嫌悪を露わにして後ずさった。
その拒絶は、どんな病の爪よりも深く、パンドラの胸を抉った。
彼女は一人、冷たい床に突っ伏した。
涙が敷石に落ち、暗い染みを作る。
神々の声が、頭上のはるかな天から響いてくるようだった。
(見よ、これが人間だ。知恵を欲し、分を弁えず、自らの手で楽園を焼き尽くす愚かな土塊よ)
「私は……なんてことを……」
世界を滅ぼしたのは、自分だ。
愛する人の心に憎悪を植え付け、平穏な大地に永遠の苦痛を解き放ったのは、自分のこの浅ましい指先だ。
死んでしまいたかった。このまま冷たい石となって、二度と目覚めぬ闇の底へ沈んでしまいたかった。
その時だった。
コツ、コツ。
密閉されたはずの黒檀の匣の底から、小さな音が響いた。
金属を引っ掻く不吉な音ではない。
もっと頼りなく、柔らかな、まるで小鳥が殻を内側から突くような、微かな音。
パンドラは恐る恐る顔を上げた。
エピメテウスも息を呑み、警戒するように匣を見つめている。
「……まだ、何かが残っているの?」
パンドラは震える声で呟いた。
もうこれ以上、何が出てくるというのだろう。世界を焼き尽くす炎か、すべてを凍りつかせる虚無か。
(開けて……)
匣の隙間から漏れ聞こえてきたのは、先刻の悪霊たちのような毒々しい嘲笑ではなかった。
生まれたばかりの赤子のようにか細く、それでいて澄み切った、泣きそうなほど愛らしい声だった。
(お願い、パンドラ。私を出して。暗くて、息が詰まりそうなの)
「だめだ!」エピメテウスが叫んだ。「開けるな! もう一言も信じるな! これ以上、何を世界に撒き散らす気だ!」
パンドラは立ち尽くした。
夫の言う通りだった。再び開ければ、今度こそ完全にすべてが失われるかもしれない。神々の罠は二重にも三重にも張り巡らされているはずだ。
だが、パンドラの耳には、その小さな声が、災厄に満ちた世界で泣き叫ぶ人間たちの叫び声と重なって聞こえた。
「もし……もしこの子が、あの恐ろしいものたちよりも残酷な何かだとしたら、私は世界を二度殺すことになる」
パンドラは匣に手を伸ばした。
「でも、もしこの子が……あの暗黒を生き抜くために、どうしても必要な何かだとしたら?」
「パンドラ、やめろ!」
エピメテウスの制止を振り切り、パンドラは自らの罪のすべてを引き受ける覚悟で、再び留め金を外した。
両手に力を込め、黒檀の蓋を、今度は恐れることなく一気に押し上げた。
眩い光が溢れ出した。
それは悪霊のような嵐ではなく、夜明けの光を思わせる、淡く温かな黄金の燐光だった。
匣の底からふわりと浮かび上がってきたのは、掌に乗るほど小さな、光を放つ蝶のような存在だった。白く透き通る翅を震わせ、それは暗い部屋の中をゆっくりと旋回した。
光が通った場所に落ちていた瘴気の残滓が、朝露が消えるように浄化されていく。
光の粉がエピメテウスの胸に降り注ぐと、彼の強張っていた顔から毒気が抜け、険しかった目元に涙が浮かんだ。
「これは……」
エピメテウスが呆然と呟いた。
光の蝶は、泣き崩れていたパンドラの元へと降りてきた。
そして、涙に濡れた彼女の頬に、そっと触れた。
温かかった。凍えきっていた心が、春の陽だまりに包まれるようにじんわりと解けていく。
「あなたは……だれ?」
パンドラが問うと、小さな光は彼女の胸の真上に留まり、鈴の鳴るような声で囁いた。
(私の名は、エルピス)
「エルピス……?」
(そう、希望。悪しき神々が人間に絶望を刻みつけるために、匣の最も深き底に隠し、封じ込めたもの)
希望はパンドラの瞳を見つめた。その光はあまりに小さく、今にも吹き荒れる夜風にかき消されてしまいそうだった。
(パンドラ。これから世界は、お前が解き放った災厄によって涙に濡れるだろう。病に倒れ、老いに怯え、憎しみに引き裂かれ、人は自らの運命を呪うだろう)
「ああ……私の罪です。私が世界を壊してしまった……」
(ええ、罪は消えない。傷は癒えない。けれど、だからこそ私はここにいる)
希望の蝶はパンドラの額に口づけするように光を散らした。
(どんなに深い闇が訪れても、どんなに苦しい病に臥せっても、人は私の名を呼び、明日を信じることができる。私がその胸にある限り、人はどれほど打ちのめされても、再び立ち上がり、歩き出すことができるの)
パンドラは胸の前に両手を掲げた。希望の蝶はその掌にそっと収まり、柔らかな光を灯し続けた。
エピメテウスが歩み寄り、今度は拒絶することなく、パンドラの隣に跪いた。
二人は寄り添い、暗闇の中で輝くそのあまりにも小さく、けれど決して消えることのない光を見つめた。
窓の外では、まだ黒い夜が広がっている。
災厄はすでに大地を満たし、人間の歴史は今、苦難と試練の幕を開けたばかりだった。
風は冷たく、海は荒れ狂っている。
けれど、パンドラはもう瞳を逸らさなかった。
胸の奥に宿った温もりを抱きしめ、訪れるべき過酷な朝に向かって、彼女は静かに、けれど確かに息を吸い込んだ。
「生きましょう」
世界で最初の女は、愛する男の手を握り、夜明けの空を見つめて呟いた。
「私たちは、苦しみながら、それでも信じて、生きていくのよ」
掌の中の希望が、その言葉に応えるように、ひときわ強く、美しく瞬いた。




