『腹の中の星辰、あるいは王の秒針』クロノス
天上の神殿オトリュスは、常に寒々とした青氷の光に閉ざされていた。
足元に広がる雲海は、まるで凝固した乳白色の血のようだ。そこから吹き上げる虚無の風が、大理石の列柱を削り、かすかな唸り声を響かせている。
巨神族の王、クロノスは、黒曜石を穿って造られた玉座に深く背を預けていた。
その手には、かつて実の父である天空神ウラノスの男根を薙ぎ払い、母なる大地ガイアを呪縛から解き放った『金剛の鎌(アダマスの大鎌)』が握られている。刃の縁は、いまだに父神が流した星屑の血で鈍く輝いていた。
「……また、ひとつ」
クロノスは掠れた声で呟いた。
白銀の長い髪が、冷たい風に乱れる。彼の深緑の双眸は、広大な虚空のどこをも捉えていなかった。彼が見つめているのは、自らの腹の底――肉の檻の奥底で、蠢き続ける微かな熱の塊だけだ。
「何を怯えていらっしゃるのです、王よ」
静寂を引き裂いたのは、背後から滑り込んできた妻、大地の豊穣を司る女神レアの冷ややかな声だった。
彼女の足音は、雪の上に落ちる枯れ葉のようにかすかだったが、クロノスにはそれが、世界を終わらせる雷鳴のように響いた。
「怯えてなどおらん、レアよ」
クロノスは鎌の柄をぎしりと軋ませ、妻を振り返った。その顔には、傲岸な王の仮面が貼り付けられている。だが、眉間の深い皺と、青ざめた唇を隠すことはできなかった。
「嘘をおつきでない」
レアは歩み寄り、冷たく磨かれた床の上に膝をついた。彼女の腕の中には、羊毛の布で何重にもくるまれた、小さな小さな命が抱かれている。生まれたばかりの、赤子。
「あなたの身体からは、常に時の砂がこぼれ落ちる音がしています。父の呪いに縛られ、影に怯え、自らの血を噛み砕く哀れな大王……。その玉座が、そんなにも血生臭いのですか?」
「黙れ!」
クロノスの咆哮が、神殿の天井を揺るがした。
風が逆巻き、青氷の柱にピキピキと細い亀裂が走る。
「貴様に何がわかる! あの天空の老いぼれが、去り際に大地へ吐き捨てた言葉を、貴様は聞いておらぬのだ! 『お前もまた、己の産み落とした子によって玉座を追われ、泥を舐めることになる』……! あれは預言ではない。父の怨嗟が織り上げた、解けぬ枷なのだ!」
クロノスは玉座から立ち上がり、長い影をレアの足元へと伸ばした。
彼の全身から、目に見えぬ「時」の奔流が立ち上っていた。彼の歩みに触れた空気が、一瞬で枯れ、朽ち、灰へと変わっていく。
「ヘスティアも、デメテルも、ヘーラーも……ハデスも、ポセイドンもそうだ。あやつらの瞳を見たか? 産着の中から私を見上げるあの無垢な瞳の奥底に、私を殺すための研ぎ澄まされた刃が潜んでいるのだ! 奪われる前に奪う。支配される前に呑み込む。それが、万物を統べる王の宿命だ!」
「宿命ですって?」
レアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは大理石の床に触れた瞬間、甘く香る野の花へと姿を変えたが、吹きすさぶ冷気の中ですぐに黒く凍りついた。
「我が子を喰らうことが、王の宿命だと仰るのですか! ヘスティアの柔らかな肌を、デメテルの澄んだ泣き声を……ポセイドンの荒ぶる魂を、あなたはことごとくその暗い喉の奥へと流し込んだ! 神の肉体は不死。死ぬことすら許されず、我が子らは今もあなたの胃袋の中で、暗闇に喘ぎながら生き埋めにされているのですよ!」
「だからこそだ!」
クロノスは自らの腹に、左手を強く押し当てた。
爪が肉に食い込む。確かに感じるのだ。腹の中で、神々の不滅の血肉が、生きながらにして蠢き、時折、爪を立てて父の臓腑を内側から引き裂こうとしているのを。その激痛だけが、クロノスに「まだ王である」という現実を繋ぎ止めていた。
「私の内にある限り、あやつらは反逆の剣を振るうことはできぬ。神の永遠の時間を、私の腹の中で分け与えてやっているのだ。親としての、これ以上の慈悲がどこにある!」
「狂っているわ……」
レアは我が子を抱く腕に力を込め、絶望に満ちた笑みを唇に浮かべた。
「ええ、ええ、お父様ウラノスを鎌で断ち切ったその日から、あなたの時間は狂い果ててしまったのね。過去を恐れ、未来を呪い、今という一瞬の玉座にしがみついて腐っていく……。あなたは時を司る神などではない。ただ時という怪物に追われ続ける、最初の犠牲者よ」
「口を慎め、レア!」
クロノスは一歩を踏み出し、大鎌の先端をレアの喉元へと突きつけた。
冷たい刃の切っ先が、女神の白い首筋に触れる。だが、レアの瞳には一片の恐れもなかった。ただ、底なしの侮蔑と哀憫が、黒い淵のように広がっている。
「……殺すがいいわ。ですが、その前にこの子を見なさい」
レアは布の端をめくった。
そこには、生まれたばかりの男児の顔があった。柔らかな金色の産毛。ふっくらとした薔薇色の頬。そして、その赤子は、向けられた大鎌の冷気にも怯むことなく、小さな手を伸ばして宙を掴もうとしていた。
その無垢な手を見た瞬間、クロノスの胸を、かつて経験したことのない戦慄が貫いた。
(……光だ)
暗黒の虚空を切り裂く、一筋の雷光のような光が、その小さな命の奥底で脈打っていた。
父ウラノスをも超え、自分すらも焼き尽くす、圧倒的な天上の覇気。
「この子の名は……」
クロノスの喉が、からからに渇いた音を立てた。
「ゼウス」
レアは囁いた。その声には、母の祈りと、呪詛が等しく込められていた。
「これが、あなたの最後の息子。あなたの終わりを告げる光」
「よこせ」
クロノスは鎌を捨て、両手を伸ばした。その指先が、微かに震えている。
「よこせ、レア! この光を私の闇に沈めねばならぬ! この子を解き放てば、天は裂け、地は崩れ、ティーターンの支配は灰燼に帰す!」
「嫌……嫌よ! この子だけは渡さない!」
レアは身を翻し、赤子を庇って床に伏せた。豊かな栗色の髪が散らばり、床を濡らす。
だが、巨神の力には抗えない。クロノスは無慈悲に妻の肩を掴み上げ、その胸から赤子をもぎ取った。
「ああああっ! 我が子を! 私の光を返して!」
狂乱するレアがクロノスの脚に縋り付く。その爪がクロノスの脛を裂き、金色の神血が滴り落ちた。だが、クロノスは眉ひとつ動かさず、冷徹に赤子を掲げた。
見下ろす赤子は、泣きもしなかった。
ただ、吸い込まれそうな青い瞳で、自らを呑み込もうとする父の顔をじっと見つめ返している。
その静けさが、何よりも恐ろしかった。まるで「お前の罪を、すべて見届けてやる」と宣告されているかのように。
「……終わりだ」
クロノスは呻くように言った。それは息子への言葉か、それとも自分自身への引導か。
「我が胎内で、永遠の夜を眠るがいい」
クロノスは顎を大きく外し、闇の裂け目のような口を開いた。
躊躇いはなかった。恐怖を塗り潰すには、呑み込むしかなかった。
ごくり、と重い塊が喉仏を押し広げ、食道を通って胃へと落ちていく。
冷たい氷塊を呑み下したかのような感触が、五臓六腑を駆け巡った。
赤子は暴れもしなかった。ただ、ずしりと重い何かが胃の底に落ち、鎮座した。
「……あ、ああっ……あああああ……っ!」
床に伏したレアが、獣のような慟哭の声を上げ、神殿の壁を爪で掻きむしった。
その悲痛な叫びは、冷え切ったオトリュスの山々へと谺し、雲海を波立たせていく。
クロノスはよろめきながら、再び玉座へと身体を沈めた。
腹の奥底に手を当てる。
奇妙だった。
これまで呑み込んできた五人の神々は、胃に落ちた瞬間から激しい熱を放ち、父を呪う呻き声を立てていた。だが、この六人目の赤子は、石のように冷たく、沈黙を保っている。
(呑み込んだのだ……。私は、運命に勝ったのだ)
クロノスは自らに言い聞かせるように、荒い息を吐いた。
(父の呪いなど、この私の腹の底で消え失せた。私は永遠だ。この玉座は、ティーターンの支配は、未来永劫に揺らぐことはない……!)
だが、勝利の美酒に酔うはずの彼の心には、ただ冷え切った虚無だけが広がっていた。
足元で泣き崩れていたレアが、やがてゆっくりと身を起こした。
その顔から、先ほどまでの狂乱と涙が、すっきりと消え失せていた。乱れた衣を整え、立ち上がる彼女の唇には、氷よりも冷たい笑みが浮かんでいる。
「……何がおかしい」
クロノスは眉をひそめた。その胸に、再び不吉な胸騒ぎの針が刺さる。
「哀れな王」
レアは静かに言った。その声は、神殿の冷気よりも冷徹に澄み渡っていた。
「あなたの舌は、時を数えるあまり、我が子の肉の温もりすら忘れてしまったのね」
「……何だと?」
「あなたが呑み込んだのは、ゼウスではありません。クレタ島の洞窟で、大地の底深くから掘り出された、ただの硬い『石』……産着に包まれた、魂の宿らぬ石塊です」
「な……ッ!?」
クロノスは立ち上がろうとした。だが、胃の底に沈んだ『石』が、鉛のように重く彼の身体を玉座に縫い止めた。
言われてみれば、この腹の冷たさは何だ。生命の熱ではない。神の血肉の脈動ではない。これはただの、冷え切った大地の欠片――!
「ゼウスは今、クレタの森で、ニンフたちとアマルテイアの乳に守られ、健やかに笑っています」
レアは一歩、また一歩と後退りながら、影の中へと溶けていく。
「お聞きなさい、クロノス。遠い南の海から、風に乗って微かに届く、あの雷鳴の胎動を。……あの子はやがて大きくなり、あなたのもとへやってくる。そして、その腹を裂き、囚われた兄や姉たちを解き放ち、あなたを最も深い暗黒の奈落へと叩き落とすでしょう」
「謀ったな、レアぁぁッ!」
クロノスは咆哮し、大鎌を振り上げた。
だが、振るわれた刃は空を裂いただけだった。レアの姿はすでに風となり、神殿の隙間からクレタの空へと飛び去っていた。
残されたのは、ただ広大で、冷え切ったオトリュスの神殿。
そして、腹の中に重い石を抱えたまま、立ち尽くす孤独な王だけだった。
「……う、ぐ……っ」
クロノスは膝をついた。
胃の中で、何かが蠢き始めていた。
石に騙されていた五人の神々――ヘスティア、デメテル、ヘーラー、ハデス、ポセイドンが、外からの「光」の気配を察知したかのように、一斉に暴れ狂い始めたのだ。
内側から臓腑を蹴り上げる小さな足。
父の肋骨を押し広げようとする神々の腕。
そして、胃の底に居座る冷たい石が、まるで「終わりの秒針」のように、ゴリリ、ゴリリと重い音を立てて肉を削る。
「私の……私の玉座だ……」
クロノスは床に額を擦りつけ、血を吐きながら呻いた。
「誰にも渡さぬ……。時よ、止まれ……! 未来など、来るな……!」
だが、神殿の青氷を透過して差し込む太陽の光は、無慈悲に傾き、影を伸ばしていく。
遠い南の空の果て。
まだ見ぬ息子の放つ、微かな、けれど確実な雷鳴の予感が、大地を震わせていた。
暗黒の神殿で、クロノスは自らの腹を抱え、ただじっと、その雷光が己を引き裂きに訪れる「その時」を待ち続けるしかなかった。チク、タク、と、自らの血が床を打つ音を、呪われた時計の音のように数えながら。




