『星を数える巨神――クレイオス、最後の夜』
『星を数える巨神――クレイオス、最後の夜』
まだ、夜空に星座というものがなかった時代。
星々は、黒い天蓋に散らばる無数の火の粉だった。
獅子も、白鳥も、狩人もいない。
ただ、光があるだけ。
その光を、毎夜飽きることなく見上げる巨神がいた。
ティタン十二神の一柱、クレイオス。
大地の女神ガイアと天空神ウラノスの息子。
彼は兄弟たちのように王座を欲しがらず、黄金を求めず、ただ天空を愛していた。
「また星を見ているの?」
背後から、柔らかな声がした。
振り向くと、妻のエウリュビアが立っていた。
海神の娘である彼女の髪は、夜の海のように青く、月明かりを受けて銀色に輝いていた。
「今夜は、東の星が一つ増えた」
「昨日も同じことを言っていたわ」
「昨日は西だった」
「まあ、細かいこと」
エウリュビアは笑った。
クレイオスも笑った。
「お前は海の波を数えるだろう」
「ええ」
「私は星を数える。それだけの違いだ」
「波は数えられないわ。次から次へと生まれるもの」
「星も同じだ」
「でも、あなたは数えている」
「いつか数え終わるかもしれぬ」
「そのときは?」
クレイオスは空を見上げた。
「……新しい星を探す」
妻は声を立てて笑った。
その笑い声を、彼は何よりも愛していた。
*
ある夜、天空の果てが赤く染まった。
燃えているのではない。
怒っているのだ。
神々の父ウラノスが、大地へ向かって咆哮していた。
「我が子らよ! なぜ、父に逆らう!」
山々が震え、海が逆巻いた。
クレイオスは兄弟たちとともに、母ガイアの前に立っていた。
ガイアの瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「子らよ」
大地の女神は言った。
「私は、もう耐えられぬ」
末弟クロノスが、黄金の鎌を握り締めた。
「母上。俺がやる」
「クロノス……」
「父上の支配を終わらせる」
兄弟たちの間に沈黙が落ちた。
クレイオスは一歩進み出た。
「待て、クロノス」
「何だ、兄上」
「父を倒した後、誰が天空を治める?」
クロノスは笑った。
「俺だ」
「お前が?」
「ああ。俺なら父上よりもよく治められる」
「何をもって、そう言える?」
クロノスの笑顔が消えた。
「兄上は、俺を疑うのか?」
「問うているだけだ」
「ならば答えよう。俺は父上のようにはならぬ!」
クレイオスは、弟の瞳を見つめた。
そこには、若き神の燃えるような自信があった。
「……そうか」
「兄上も力を貸してくれるな?」
クレイオスは空を仰いだ。
無数の星が、何も知らぬ顔で瞬いていた。
「私が望むのは、ただ一つだ」
「何だ?」
「星々が、明日も同じ空に輝くこと」
クロノスは肩をすくめた。
「そんなもの、当たり前だろう」
クレイオスは答えなかった。
当たり前。
神々が最も軽々しく口にする言葉だった。
*
ウラノスは倒れた。
クロノスが新たな支配者となった。
大地には黄金の時代が訪れた。
人間はまだ老いを恐れず、争いも少なく、豊かな実りを享受した。
クレイオスは、再び星を数え始めた。
「一つ、二つ、三つ……」
「父上!」
背後から声がした。
長男アストライオスだった。
黄昏と星々に縁の深い神である。
「父上、教えてください」
「何をだ?」
「星は、なぜ落ちないのです?」
クレイオスは笑った。
「落ちたいと思わぬからだ」
「本当に?」
「いいや」
「父上!」
息子が頬を膨らませる。
クレイオスは大きな手で、その頭を撫でた。
「分からぬことを、分からぬと言える神でありなさい」
「神でも分からないことがあるの?」
「山ほどある」
「父上にも?」
「私など、知らぬことばかりだ」
アストライオスは目を丸くした。
「では、なぜ星を数えるのです?」
クレイオスは、夜空を指差した。
「知らぬものを、少しでも知りたいからだ」
「全部分かったら?」
「そのときは、少し寂しいな」
父子は笑った。
そのとき、遠くの宮殿から、悲鳴が響いた。
クレイオスの笑顔が消えた。
*
「また、子を呑んだのか」
クレイオスは、クロノスの玉座の前に立っていた。
巨大な広間には、黄金の柱が並んでいる。
その中心で、クロノスは杯を傾けていた。
「何の話だ?」
「レアの子だ」
クロノスの手が止まった。
「……ああ」
「生まれた子を、また呑み込んだと聞いた」
「それがどうした」
クレイオスは拳を握った。
「どうした、だと?」
「兄上。俺には予言がある」
「知っている」
「俺の子が、いつか俺を倒すという予言だ」
「だから、子を呑むのか」
「そうだ」
「父ウラノスを倒したお前が?」
クロノスの顔が歪んだ。
「黙れ!」
雷鳴のような声が響いた。
「俺は父とは違う!」
クレイオスは、静かに弟を見た。
「同じことを、昔も言ったな」
クロノスは立ち上がった。
「兄上に何が分かる!」
「分からぬ」
「ならば口を出すな!」
「だが、恐れていることは分かる」
クロノスの瞳が揺れた。
クレイオスは続けた。
「お前は、まだ生まれたばかりの子を恐れている」
「俺は王だ!」
「王だからこそ、恐ろしいのだろう」
「違う!」
「王座を失うことが」
「黙れ!」
「父と同じ末路を辿ることが」
クロノスが杯を投げつけた。
黄金の杯が、クレイオスの足元で砕けた。
「出て行け!」
クレイオスは動かなかった。
「クロノス」
「出て行けと言っている!」
「……お前は、父よりもよく治めると言った」
クロノスの顔が強張った。
「私は、その言葉を信じたかった」
沈黙。
クレイオスは踵を返した。
背後で、弟の声がした。
「兄上!」
彼は足を止めた。
「俺は……間違っていない」
クレイオスは振り返らなかった。
「それを決めるのは、お前ではない」
*
時が流れた。
クロノスの子ゼウスが成長し、父に反旗を翻した。
天空は裂け、大地は燃えた。
ティタン神族と若きオリュンポスの神々との戦争。
後に、ティタノマキアと呼ばれる戦いだった。
十年。
神々は十年もの間、互いを傷つけ続けた。
山は砕け、川は干上がり、海には炎が降り注いだ。
クレイオスもまた、戦場に立っていた。
「父上!」
アストライオスが駆け寄ってきた。
「もうおやめください!」
「……アストライオス」
「なぜ戦うのです! 父上は、クロノス叔父上の行いを正しいと思っていないのでしょう!」
クレイオスは、血に染まった手を見つめた。
神の血だった。
「……そうだ」
「ならば、なぜ!」
「私は、ティタンだからだ」
「それだけですか!」
息子の叫びが、胸を刺した。
クレイオスは目を閉じた。
「それだけだ」
「そんな……」
「私たちは、同じ母から生まれた兄弟だ」
「だから、間違いに付き合うのですか!」
クレイオスは答えられなかった。
遠くで、雷が落ちた。
ゼウスの雷霆だった。
山一つが、白い光の中で消えた。
アストライオスは父の腕を掴んだ。
「父上! 逃げましょう!」
「どこへ?」
「星の下へ!」
クレイオスは息子を見た。
「星の下?」
「昔、父上が教えてくれたではありませんか。分からぬことを、分からぬと言える神になれと!」
息子の瞳から、涙がこぼれた。
「ならば、今こそ言ってください! この戦いが正しいのか、分からないと!」
クレイオスは、長い間、何も言わなかった。
やがて、かすれた声で答えた。
「……分からぬ」
アストライオスの目が見開かれた。
「父上……」
「何が正しかったのか、もう分からぬ」
クレイオスは空を見上げた。
煙に覆われた天空には、星が一つも見えなかった。
「私は、星を守りたかっただけなのだ」
そのとき、天空が白く裂けた。
ゼウスの雷が、戦場を貫いた。
「父上!」
アストライオスの叫びが、光に呑まれた。
*
戦いは終わった。
ティタン神族は敗れた。
クロノスも、クレイオスも、深淵タルタロスへと幽閉されることになった。
底のない闇。
星も、月も、太陽も届かぬ場所。
クレイオスは、冷たい岩の上に座っていた。
「……兄上」
闇の向こうから、声がした。
クロノスだった。
「まだ、生きているか」
「神は、そう簡単には死なぬ」
「……そうだったな」
長い沈黙が流れた。
やがて、クロノスが笑った。
乾いた、虚しい笑いだった。
「俺は、父よりもよい王になれたと思うか?」
クレイオスは答えなかった。
「なあ、兄上」
「……なれなかった」
クロノスの笑いが止まった。
「そうか」
「だが、お前だけが間違えたのではない」
「何?」
「私も間違えた」
クレイオスは、闇の中で手を開いた。
かつて星を指差した手。
息子の頭を撫でた手。
戦場で、同族を傷つけた手。
「私は、お前を止められたかもしれぬ」
「……兄上」
「それなのに、最後まで、お前の隣に立った」
クロノスは、何も言わなかった。
クレイオスは続けた。
「兄弟であることと、間違いを共にすることは、同じではなかった」
闇の中で、クロノスが嗚咽した。
王だった神が、幼子のように泣いていた。
クレイオスは、ただその声を聞いていた。
*
どれほどの時が過ぎたのだろう。
タルタロスには昼も夜もない。
クレイオスは、いつものように天を見上げた。
もちろん、何も見えない。
「……一つ」
彼は呟いた。
「二つ、三つ……」
隣でクロノスが顔を上げた。
「兄上、何をしている?」
「星を数えている」
「……ここに星などないぞ」
「知っている」
「では、何を数える?」
クレイオスは、わずかに微笑んだ。
「覚えている星を数えているのだ」
クロノスは黙った。
「東に、青く輝く星があった」
クレイオスは目を閉じた。
「その隣に、小さな赤い星。さらに南には、三つ並んだ白い星が……」
「兄上」
「何だ」
「……星は、まだ輝いているだろうか」
クレイオスは答えた。
「輝いているさ」
「どうして分かる?」
「私たちが負けても、星まで負けたわけではない」
クロノスは、長く息を吐いた。
「……そうか」
クレイオスは、再び星を数え始めた。
「四つ、五つ、六つ……」
その声は、深淵の闇へ静かに溶けていった。
*
遥か地上。
黄昏の空に、最初の星が輝いていた。
アストライオスは、その星を見上げていた。
傍らには、母エウリュビアが立っている。
「母上」
「何?」
「父上は、今も星を数えているでしょうか」
エウリュビアは、しばらく黙っていた。
海から吹く風が、彼女の髪を揺らした。
「……ええ」
やがて、微笑んだ。
「あの人なら、きっと」
「でも、タルタロスには星がありません」
「そうね」
「それでも?」
エウリュビアは、息子の手を握った。
「あなたのお父様はね」
彼女の瞳に、涙が光った。
「星が見えないからといって、星が消えたと思うような方ではないのよ」
アストライオスは空を見上げた。
青い夕闇に、一つ、また一つと光が生まれていく。
「父上!」
息子は、届かぬ深淵へ向かって叫んだ。
「今夜も、星が出ています!」
風が吹いた。
「昨日よりも、たくさん!」
その声は、大地を渡り、海を越えた。
そして、誰も知らぬほど深い闇の底で。
クレイオスが、ふと顔を上げた。
「……七つ」
微笑みながら、彼は呟いた。
「八つ、九つ……」
見えない星を。
決して失いたくなかった光を。
巨神は、今日も数え続けていた。
星を失った神は、星を忘れなかった。
それが、ティタン神クレイオスに残された、最後の自由だった。
――終――
創作注:クレイオスがティタン十二神の一柱であり、エウリュビアを妻とし、アストライオスらの父であること、またティタン神族がゼウスとの戦いに敗れたことはギリシャ神話の伝承に基づきます。一方、クレイオスが星を数える性格であったこと、クロノスとの対話、アストライオスとの別れ、タルタロスでの心情などは本作独自の創作です。




