↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/46

『正義の女神は、涙を知らない』

『正義の女神は、涙を知らない』


創作ギリシャ神話・短編小説|約3,000字


――天秤は罪の重さを量る。けれど、愛の重さを量ることはできない。


## 第一章 黄金の天秤


オリュンポスの夜明けは、いつも美しかった。


薔薇色の雲が神殿の白い柱を染め、遥か下界では、まだ眠りの中にある人間たちの町が朝靄に沈んでいた。


その静寂の中、ひとりの女神が黄金の天秤を磨いていた。


テミス。


神々の掟を守り、正義と秩序を司る女神。


彼女の銀色の瞳は、嘘を見抜き、罪を量り、いかなる嘆願にも曇ることがなかった。


人々は彼女を讃えた。


神々は彼女を敬った。


しかし、誰ひとりとして、彼女を抱きしめようとはしなかった。


「正義とは、孤独なものですね」


ある朝、娘のディケがそう呟いた。


テミスは天秤から目を離さず、静かに答えた。


「正義に孤独も幸福もありません。ただ、正しくあるだけです」


ディケは悲しそうに微笑んだ。


「では、お母様は一度も泣いたことがないのですか」


その問いに、テミスの指が止まった。


磨き上げた天秤の皿に、彼女自身の顔が映っている。


美しく、冷たく、まるで大理石の彫像のような顔。


「涙は、判断を曇らせます」


それだけ答えると、彼女は再び天秤を磨き始めた。


けれど、その日から、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。


## 第二章 罪を犯した少年


その日の夕暮れ、テミスの神殿に一人の少年が連れてこられた。


名をリュコンといった。


まだ十六歳。痩せた肩に粗末な麻布をまとい、裸足には血が滲んでいた。


少年は神聖な泉から水を盗んだという。


その泉は神々に捧げられたものであり、人間が許しなく触れることは禁じられていた。


「掟を知っていたか」


テミスが問うた。


「はい」


少年は震える声で答えた。


「ならば、なぜ破った」


少年は俯いた。


長い沈黙のあと、小さな声が漏れた。


「妹が……死にかけていたのです」


神殿の空気が揺れた。


「村には雨が降らず、井戸は枯れ、妹は三日も水を飲めませんでした。神々の泉なら、妹を救えると思ったのです」


「それでも掟は掟です」


テミスの声は冷たかった。


少年は唇を噛み、やがて顔を上げた。


「では、女神様」


その瞳には、恐怖よりも深い悲しみが宿っていた。


「妹を見殺しにすることが、正義だったのですか」


テミスは答えなかった。


少年の言葉が、神殿の高い天井に吸い込まれていく。


黄金の天秤が、かすかに震えた。


## 第三章 掟と心


夜、テミスはひとり神殿に残った。


月光が床に青白い帯を描き、遠くで梟が鳴いていた。


天秤の片皿には、少年の罪を象徴する黒い石。


もう片方には、掟を守るための白い石。


黒い石が沈んだ。


判決は明白だった。


少年は神聖な泉を汚した罪で、十年の追放を受けねばならない。


「それが正義……」


テミスは呟いた。


だが、その声は不思議なほど弱かった。


彼女の脳裏に、少年の言葉が蘇る。


――妹を見殺しにすることが、正義だったのですか。


そのとき、神殿の扉が開いた。


現れたのは、冥府の女王ペルセポネだった。


黒い衣の裾から、春の花の香りが漂っていた。


「随分と苦しそうね、テミス」


「私は苦しんでなどいません」


「ならば、どうしてそんな顔をしているの?」


ペルセポネは静かに近づき、天秤を見つめた。


「あなたの秤には、罪と掟しか載せられないのね」


「正義とはそういうものです」


「では、愛は?」


テミスは眉を寄せた。


「愛は不公平を生みます。愛する者を優遇すれば、秩序は崩れるでしょう」


ペルセポネは悲しげに笑った。


「そうね。でも、愛を知らない正義は、ときに残酷なものになるわ」


「残酷であろうと、掟は守られねばなりません」


「あなたは掟を守りたいの? それとも、掟によって守られるべきものを守りたいの?」


テミスは言葉を失った。


ペルセポネはそれ以上何も言わず、夜の闇へ消えていった。


残された女神は、初めて自分の天秤を恐ろしいものだと思った。


## 第四章 妹の祈り


翌朝、少年への判決が下されようとしていた。


神殿には神々が集まり、ゼウスは玉座から厳しい眼差しを向けていた。


テミスが宣告のために立ち上がった、そのときだった。


「待ってください!」


幼い声が響いた。


扉の前に、小さな少女が立っていた。


細い手足、土埃に汚れた頬。


少年の妹だった。


少女はよろめきながら兄に駆け寄り、その胸にしがみついた。


「お兄ちゃんを連れていかないで!」


少年は妹を抱きしめた。


「どうして来たんだ。まだ身体が……」


「お兄ちゃんがいなくなるって聞いたから……」


少女は泣きながらテミスを見上げた。


「女神様、悪いのは私です。私がお水を欲しいって言ったから……」


「お前に罪はありません」


テミスが答えると、少女は首を振った。


「じゃあ、どうしてお兄ちゃんが罰を受けるの?」


その問いは、あまりにも幼く、あまりにも真っ直ぐだった。


「お兄ちゃんは、私を助けてくれただけなのに」


少女の涙が、白い大理石の床に落ちた。


一滴。


また一滴。


テミスは、その涙を見つめた。


不意に、遠い昔の記憶が胸をよぎった。


まだ世界が若く、神々の掟さえ定まっていなかった頃。


母ガイアの温かな腕の中で、彼女は尋ねたことがあった。


――お母様、正しいこととは何ですか。


大地の女神は、幼い娘の髪を撫でながら答えた。


――誰かの痛みを、自分の痛みとして感じることから始まるのよ。


長い歳月の中で、テミスはその言葉を忘れていた。


秩序を守ることに心を砕き、いつしか秩序そのものを愛してしまった。


目の前では、少年が妹を守るように抱きしめている。


その姿を見た瞬間、テミスの胸に、鋭い痛みが走った。


## 第五章 女神の涙


「テミスよ」


ゼウスの声が雷鳴のように響いた。


「判決を下せ」


神々の視線が一斉に集まった。


テミスは黄金の天秤を持ち上げた。


黒い石は、依然として重かった。


罪は消えない。


掟を破った事実も変わらない。


しかし――。


「この少年には罪があります」


少女が息を呑んだ。


少年は静かに目を閉じた。


「けれど、その罪は、自らの欲望のために犯されたものではありません」


テミスは天秤を見つめた。


「妹の命を救うためでした」


「掟を曲げるつもりか」


ゼウスが低く唸った。


テミスは首を横に振った。


「いいえ。掟を、正しく解釈するのです」


彼女は黒い石を取り上げた。


「この少年には、枯れた泉を清め、荒れた土地に水を引く務めを与えます。追放ではなく、命を救うための償いを」


神々の間にざわめきが広がった。


「そして、神聖な泉の水を命の危機にある者へ与えることを、罪としてはならない」


ゼウスの眉が険しくなった。


「なぜだ」


テミスはまっすぐに答えた。


「神々の掟が守るべきものは、神々の誇りではなく、この世界の調和だからです」


長い沈黙が訪れた。


やがて、ゼウスは目を閉じた。


「……よかろう」


その一言で、少年の運命は変わった。


少女が歓声を上げ、兄の首に飛びついた。


少年は声を殺して泣いた。


その姿を見つめていたテミスの頬を、不意に温かなものが伝った。


彼女は驚いて指先を当てた。


濡れていた。


涙だった。


幾千年もの間、一度として流したことのない涙。


それは銀色の光を宿し、天秤の皿へ落ちた。


澄んだ音が響いた。


すると不思議なことに、天秤は左右どちらにも傾かず、静かに釣り合った。


テミスはその光景を、ただ見つめていた。


胸の奥で凍りついていた何かが、春の雪のように溶けていく。


それは悲しみであり、喜びであり、長い孤独の終わりでもあった。


## 終章 天秤に載らぬもの


それから幾年もの歳月が流れた。


少年は成長し、村に水路を築いた。


かつて乾ききっていた大地には麦が実り、泉の周囲には白い花が咲くようになった。


人々はその泉を「慈悲の泉」と呼んだ。


ある春の日、ディケは母の神殿を訪れた。


テミスはいつものように、黄金の天秤を磨いていた。


けれど、その表情は以前とは違っていた。


厳しさの奥に、かすかな温もりがあった。


「お母様」


ディケは微笑んだ。


「正義とは、何なのでしょう」


テミスはしばらく考えた。


窓の外では、柔らかな風がオリーブの葉を揺らしていた。


「正義とは、ただ罪を量ることではありません」


彼女は天秤を置いた。


「罪の向こうにある苦しみを知り、それでも公平であろうと努めることです」


ディケは母の手を取った。


その手は、思っていたよりも温かかった。


「では、お母様。涙は判断を曇らせますか」


テミスは静かに笑った。


「曇らせることもあるでしょう」


そして、娘の手を優しく握り返した。


「けれど、涙を知らぬ者には、見えない真実もあるのです」


遥か下界では、夕陽が大地を黄金色に染めていた。


泉のほとりで、一人の青年が幼い妹と笑い合っている。


その声は天上まで届かなかった。


それでもテミスには、二人の幸福が感じられるようだった。


彼女はそっと目を閉じた。


かつて、正義は冷たい星のように、遠くから世界を照らすものだと思っていた。


けれど今は知っている。


正義とは、人々の痛みに触れながら、それでも光を失わぬための、果てしない祈りなのだと。


黄金の天秤が、夕陽を受けて輝いた。


その片皿には掟があり、もう片方には慈悲があった。


そして、そのどちらにも載せることのできないものが、女神の胸に静かに宿っていた。


それを、人間たちは愛と呼ぶ。


――正義の女神テミスが初めて涙を流した日、世界はほんの少しだけ、優しくなった。


完



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。