星を背負う羊(アリエスの沈黙)
星を背負う羊(アリエスの沈黙)
神々の夜は、あまりに重く、冷たい。
オトリュス山の頂は、天から降り注ぐ雷光によって無残に削り取られ、焦げた岩肌からは硫黄の煙が絶え間なく立ち上っていた。十年に及ぶ神々の大戦――ティタノマキア。大地を揺るがす地鳴りの向こうで、オリュンポスの若き雷神が放つ雷霆が、漆黒の空を昼のように引き裂いていく。
その断崖の先端に、南天の星々を司るティタン神、クレイオスが立っていた。
青銅の甲冑は雷で焼け焦げ、螺鈿のような光沢を放つ羊角の兜には深い亀裂が入っている。彼の両腕が虚空を支えるように掲げられるたび、頭上に群がる南天の星座――牡羊の星座が微かな燐光を散らし、戦火の煙に抗うように明滅した。
「……また、ひとつ落ちたか」
クレイオスは呟いた。長大な角の影から覗く金の瞳が、遠く北の尾根を見つめている。
兄たるヒュペリオンの光が翳り、コイオスの築いた天球の軸が軋みを上げて崩れていくのが見えた。
「何をぼんやりと見上げているのです、父上!」
背後から響いたのは、鋭い金属擦過音と、荒々しい足音だった。
破壊の神ペルセス。クレイオスが妻エウリュビアとの間に成した三柱の息子のうちのひとりである。手にした大剣は神々の黄金の血で濡れ、その全身からは焦燥と闘気が黒い陽炎のように立ち上っていた。
「オリュンポスの小僧どもが、麓の防壁を破りました! パラースもアストライオスも、前線で包囲されています! 父上、なぜここに留まっているのです! 南天の星辰の軍勢を率い、今すぐ雷神の首を刎ねに下りねば、我らは全滅します!」
ペルセスの絶叫は、風の唸りにかき消されそうになる。
クレイオスは振り返らなかった。ただ、両腕にかかる天の重みを確かめるように、深く、重い息を吐き出す。
「ペルセスよ。そなたの眼には、天の運行が見えぬか」
「運行など知るものか! 今は戦の最中です!」
「星の巡りとは、すなわち世界の約束だ」
クレイオスの声は、荒れ狂う風のただ中にあって、奇妙なほど静謐だった。悠久の時を巡る巨星のように、いささかの動揺も含まれていない。
「我らティタンが支えてきたこの天蓋はな、力でねじ伏せて留めていたのではない。父ウラノスと母ガイアの痛みを、我らがその身に引き受けることで、かろうじて保たれていたのだ。……だが、クロノスはその誓いを忘れ、ただ己の座に固執した。その歪みが、今、崩れ落ちようとしている」
「ならば……ならば、敗北を受け入れろと仰るのか!」
ペルセスが剣を岩肌に突き立てた。火花が散り、青年の神の顔が屈辱で歪む。
「我らは古き神! 世界そのものを形作った原初の主です! 後から湧いて出たゼウスなどに、この座を明け渡してなるものか! 父上、あなたが羊の角を掲げ、星々を降らせれば、あの傲慢な雷神の軍勢など――」
「星を落とせば、大地が死ぬ」
クレイオスは静かに、だが決して抗えぬ威厳をもって息子の言葉を遮った。
ゆっくりと振り向いた父の顔には、古びた大樹の幹のような皺と、無限の夜空を呑み込んだかのような深い愁思が刻まれていた。
「星は、武器ではない。迷える地上の命が、暗夜に足を踏み外さぬための道標だ。それを私憤のために地上へ叩き落として何とする。それでは、食らった我が子を胃袋に閉じ込めていたクロノスと何ら変わらぬではないか」
「しかし……! このままでは、父上はタルタロスへ……光の一片すら届かぬ奈落の底へ叩き落とされるのですよ!」
ペルセスの声が、かすかに震えた。憤怒の仮面の下から、父を失うことへの幼い恐怖が漏れ出していた。
クレイオスの荒削りな唇が、わずかに綻ぶ。
「ペルセス。そなたは破壊の神だ。だが、破壊とはただ消し去ることではない。古い殻を砕き、次なる命の芽吹きを待つことだ」
クレイオスは息子の肩に、ごつごつとした巨大な手を置いた。神の血の熱と、南天の夜気のような冷たさが混ざり合い、ペルセスの頑なな身体を包み込む。
「そなたの娘……ヘカテを覚えているな」
「……ヘカテを? ええ、あの子がどうかしたのです」
「あの子の瞳には、夜の帳と、その先にある松明の光が宿っている。ゼウスとて、あの子の力だけは奪えまい。天と地と海、三つの境を照らす鍵を持つ者として、次の世でも敬われるはずだ」
「父上……」
「我らが沈まねば、夜は明けぬのだよ、我が子よ」
その瞬間、大気が張り裂けんばかりの轟音が山頂を揺るがした。
天が裂け、青白い閃光が落ちる。雷霆。オリュンポスの王が放った、必滅の一撃。
オトリュス山の防壁が粉々に吹き飛び、百五十匹の腕を持つ巨人ヘカトンケイルたちの雄叫びが、すぐそこまで迫っていた。万の巨石が宙を飛び交い、夜空を埋め尽くす。
「来たか」
クレイオスはペルセスの肩を強く押し返した。
「行け、ペルセス。アストライオスとパラースを連れ、西の海の果てへ逃れよ。そなたたち若い世代に、罪はない」
「嫌だ! 俺も残る! 共に戦う!」
「行けと命じている!」
クレイオスが吼えた。その咆哮は、夜空の星座たちを一斉に震わせる巨角の響きだった。
頭上の牡羊の角が神々しい金色の光を放ち、押し寄せる巨石の嵐を空中で押し留める。見上げるペルセスの瞳に、父の巨大な背中が焼き付く。
「我が血を受け継ぎし者よ。生き延びて、夜の深さを子らに伝えよ。星がどれほど遠くとも、空を見上げれば必ずそこにあると……それを伝えるのが、我が血族の務めだ!」
クレイオスは両腕を天に向かって広げた。
南天のすべての星々が、彼の呼びかけに応えて一斉に輝きを増す。それは敵を滅ぼすための光ではなく、退路を照らし、崩れ落ちる天蓋をただ一人で支え止めるための、命を削る輝きだった。
「父上――ッ!」
ペルセスの叫びを残し、巻き起こった光の奔流が彼を山裾へと押し流していく。
一人残された山頂。
もう、雷の光を遮るものは何もない。目の前に現れたのは、勝利を確信したオリュンポスの神々の冷徹な眼差しだった。足元の大地が割れ、底知れぬ冥府の底、タルタロスの鎖がジャラジャラと音を立てて這い上がってくる。
「クレイオス。ティタンの巨角よ」
雲の上から、雷神の驕傲に満ちた声が降り注ぐ。
「貴様の星辰の巡りも、ここまでだ。奈落の闇に沈み、永遠の悔恨に繋がれるがいい」
クレイオスは、這い寄る漆黒の鎖を見つめ、そして静かに笑った。
足首に冷たい鉄が巻き付き、引きずり込まれながらも、彼の金の瞳は決して曇らなかった。
「笑わせるな、オリュンポスの若造よ」
低く、地底に木霊する声。
「光が輝くのは、深き夜があってこそだ。太陽が沈むことを恐れるお前たちに、本当の星の美しさは分からぬ」
鎖が全身に巻き付き、彼の肉体を奈落の深淵へと引きずり落としていく。
だが、闇に呑まれる最後の瞬間まで、クレイオスの視線は天にあった。南の空の片隅で、誇り高き角を持つ牡羊の星が、どんな雷光よりも清らかに、静かに瞬いていた。
「……巡るがよい、夜よ。お前たちが飽き果て、闇に怯えるその日まで……私は底の底で、星を数えて待っていよう」
天が閉じ、地が塞がる。
星を背負った巨神は、微笑みを湛えたまま、底知れぬ闇の底へと沈んでいった。




