コイオス
天と地がまだ若く、神々の輪郭が世界の法則そのものだった時代。
北の果て、星々が極点をめぐる凍てついた高嶺に、ティーターン神族の一柱、コイオスは立っていた。
彼の名は「問う者」、あるいは「天の軸」。
東のヒュペリーオーンが太陽の運行を担い、西のイーアペトスが地を支えるなら、コイオスは北の不動点から世界を見つめ、運行の「意味」をひたすらに測る神だった。
「何をそんなに見つめているのです、我が夫よ」
夜の帳を織り上げたような衣をまとい、妻のポイベーが歩み寄る。彼女は輝く神託の女神であり、予見の光そのものだった。彼女が立つだけで、冷えた北風の鋭さがやわらぎ、銀色の穏やかな光が満ちる。
コイオスは星天から目を離さずに言った。
「北の軸が、わずかに軋んでいる。父ウーラノスが天を去り、弟クロノスが鎌を握ってから、世界の歯車は巡り続けているが……その回転は早まり、熱を帯びすぎている」
「運命の糸が絡まり始めているのですね」
「ああ。弟は己の子を呑み込み続けている。恐れから逃れるために運命を腹に収めようとしているが、呑み込んだ運命は腹の中で育ち、やがて内側から彼を裂くだろう」
コイオスは静かに天球を指先でなぞった。星々は彼の指の動きに従って冷たい軌跡を描く。
「クロノスは問うことをやめたのだ。『なぜ自分が支配するのか』『なぜその座を追われるのか』を考えず、ただ奪われまいと盲目になっている。知を失った力は、自らを滅ぼすだけの嵐だ」
ポイベーは憂いを帯びた瞳で夫を見つめた。
「やがて嵐が来ます。山々が裂け、オリュンポスの頂から雷霆が落ちる日が。……私たちは、どうなるのでしょう」
神託を司るポイベーには、遠い未来の残照が見えていた。巨大な戦争の気配。青銅の檻。地の底の暗闇。
コイオスはその銀色の髪にそっと触れ、微かに微笑んだ。それは北極星の光のように、冷たく、だが揺るぎない笑みだった。
「ティーターンの黄昏は避けられんよ、ポイベー。弟クロノスが招く破滅を、兄である私たちが止めることはできない。だが、絶望する必要もない」
「なぜです?」
「我らの血は、光として受け継がれるからだ」
コイオスは天の一角、まだ名もなき星々の集まりを指し示した。
「我らの娘、レートーを見よ。彼女の心は夜のように深く、穏やかだ。やがて彼女は、雷を操る新しき王の胤を宿すだろう。そして生まれる子は――」
「光の神……アポローン。そして、月を射るアルテミス」
ポイベーが小さく息を呑む。神託の光が、二人の娘から生まれる双子の神々の輝きを映し出したのだ。
「そうだ」コイオスは頷いた。「アポローンは私の『問い』と、お前の『神託』を受け継ぎ、デルポイの地で人々に知恵と真理を授けるだろう。アルテミスは夜の静寂と純潔を抱き、月となって大地を照らす。……私たちが地の底へ沈もうとも、世界の理と光は、彼らの中に生き続けるのだ」
「あなたは……怖くないのですか? 地の底、奈落タルタロスの永遠の闇が」
ポイベーの問いに、天の軸の神は静かに首を振った。
「問い続ける者にとって、闇は恐れるべきものではない。光を見るための背景にすぎんよ。天を支える役目を追われようとも、星々がめぐる限り、私は闇の底から宇宙の理を測り続けるだろう」
その時、遠く南の空が不吉に赤く染まり、大地が低く唸りを上げた。
オリュンポスの蜂起が、クロノスに反旗を翻す若き神々の足音が、遠く地鳴りとなって響いてくる。ティーターノマキア――神々の黄昏の始まりを告げる風が、北の果てまで吹き抜けた。
コイオスは深く息を吸い込み、外套を翻して天の軸へと歩みを進めた。
その背中は、やがて来る敗北と幽閉の運命を知りながらも、一切の揺らぎを見せなかった。
「往こう、ポイベー。終わりの時まで、この軸を支えるのが私の責務だ。神々の世代が移り変わろうとも――真理を探す心だけは、何人たりとも鎖で縛ることはできぬのだから」
北の空で、北極星が一際鋭い光を放ち、来るべき巨神たちの戦乱の夜を静かに見下ろしていた。




