大河の母テテュス
大河の母テテュス
世界がまだ若く、山々も海も今とは違う姿をしていた頃。
オケアノスの広大な流れを見渡す白銀の宮殿に、一人の女神が住んでいた。
その名はテテュス。
万物を潤す水の母であり、数え切れないほどの川の神々と、水の精霊たちを生み育てた大女神である。
その朝、テテュスは青い絹の長衣をまとい、窓辺に立っていた。
銀色の髪が朝日に照らされ、川面のようにきらめく。
窓の外には無数の支流が見えた。
雪解け水を運ぶ川。
森を潤す川。
人々の畑を育てる川。
どの流れも彼女の子供たちだった。
背後から穏やかな声が聞こえた。
「また朝から見守っているのかい、テテュス」
振り向くと、夫であるオケアノスが立っていた。
長い青緑色の衣をまとい、豊かな髭を揺らして微笑んでいる。
テテュスは少し困ったように笑った。
「だって心配なのですもの」
「子供たちはもう十分大きい」
「それでも母親ですから」
オケアノスは豪快に笑った。
「何千年経っても変わらないな」
「あなただって同じでしょう?」
「まあ、それは認めよう」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
宮殿の扉が勢いよく開いた。
「母上!」
飛び込んできたのは若い川の神ポタモスだった。
水色の短衣をまとった青年で、まだ少し頼りない。
テテュスは驚いた。
「どうしたのです?」
「大変なんです!」
「落ち着きなさい」
「姉上たちが喧嘩しています!」
「また?」
テテュスは額を押さえた。
オケアノスは吹き出した。
「今回は何が原因だ?」
「どちらの川が美しいかで……」
「くだらない」
「父上、それを本人たちの前で言わないでください」
ポタモスは真顔で答えた。
テテュスはため息をつきながら立ち上がった。
「行きましょう」
宮殿の大広間へ向かうと、案の定、二人の娘が言い争っていた。
「私の川の方が透明です!」
「いいえ、私の川の方が魚が豊富です!」
「透明な方が美しいわ!」
「生き物がいる方が素敵よ!」
どちらも水の精霊オケアニデスである。
周囲では兄弟姉妹たちが呆れ顔だった。
テテュスは静かに言った。
「二人とも」
その声だけで大広間が静まり返った。
「お母様……」
「何を争っているのですか」
「でも……」
「どちらが優れているかなど決める必要がありますか?」
二人は黙った。
テテュスは優しく続けた。
「透明な川は素晴らしいわ」
「……はい」
「魚が豊富な川も素晴らしいわ」
「はい」
「どちらも違う役目を持っているのです」
窓から吹く風が、娘たちの髪を揺らした。
「花を咲かせる川もあれば、人を助ける川もある。船を運ぶ川もあれば、魚を育てる川もある」
テテュスは微笑んだ。
「違うからこそ価値があるのですよ」
二人の娘は顔を見合わせた。
やがて小さく頭を下げる。
「ごめんなさい」
「私も」
周囲から安堵の声が漏れた。
オケアノスはこっそり囁いた。
「見事だな」
「毎日のことですから」
「私にはできん」
「でしょうね」
夫婦はくすりと笑った。
その日の昼。
宮殿では大きな食卓が囲まれていた。
焼きたての白いパン。
蜂蜜をたっぷりかけた山羊乳のチーズ。
オリーブ。
無花果。
香草をまぶした川魚の炭火焼き。
葡萄の甘い香りが広間に満ちている。
何百人もの子供たちが集まり、賑やかに食事をしていた。
「母上、これ美味しい!」
「母上、見てください!」
「母上!」
「母上!」
次々に呼ばれ、テテュスは苦笑する。
「一人ずつにしてください」
「無理ですね」
オケアノスが笑う。
「君は人気者だ」
「あなたもでしょう」
「いや、皆まず君のところへ行く」
テテュスは少し照れた。
だが、その笑顔は嬉しそうだった。
夕方になると、宮殿の外は黄金色の光に包まれた。
テテュスは一人で河畔を歩いていた。
水面が夕日を映して輝いている。
さらさらと流れる水音。
涼しい風。
湿った土の香り。
世界は穏やかだった。
そこへオケアノスが隣に並ぶ。
「疲れたか?」
「少しだけ」
「子供たちが多すぎるからな」
「でも幸せですよ」
テテュスは川を見つめた。
「昔は世界に何もありませんでした」
「そうだな」
「けれど今は、あんなに多くの命が生きています」
遠くでは鹿が水を飲み、小鳥が枝でさえずっている。
川辺には花が咲いていた。
そのすべてが水によって育まれている。
「私は思うのです」
テテュスは静かに言った。
「命を支えることは、とても尊いことだと」
オケアノスはうなずいた。
「君らしい答えだ」
「そうでしょうか」
「ああ」
彼は妻の肩を優しく抱いた。
「君は昔から誰かを育てることを喜びとしてきた」
テテュスは少しだけ目を潤ませた。
「私は特別な神ではありません」
「そんなことはない」
「ゼウスのような力もありません」
「必要ない」
「クロノスのような権力もありません」
「それも必要ない」
オケアノスは穏やかに微笑んだ。
「世界は君の水なしには生きられない」
夕陽が二人を黄金色に染めた。
テテュスは静かに夫の肩へ頭を寄せた。
大河は今日も流れている。
山から海へ。
海から雲へ。
雲から雨へ。
そして再び大地へ。
命をつなぐ終わりなき循環のように。
テテュスはその流れを見つめながら、小さく微笑んだ。
母であること。
育てること。
支えること。
それは決して目立つ力ではない。
だが世界を生かし続ける、最も優しい力だった。
夕暮れの川面は、まるでそのことを知っているかのように、どこまでも穏やかに輝いていた。




