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『潮騒の揺り籠、琥珀の果実』

『潮騒の揺り籠、琥珀の果実』


 どこまでも続く世界の果て、天の川がそのまま地上に降りてきたかのような大河オケアノスの底には、神々の喧騒を拒む静寂が満ちていた。海底にそびえる宮殿は、白真珠を砕いて練り上げた壁と、深海から昇る燐光でほのかに青く染まっている。

 主神オケアノスは、ひんやりとした玉座に深く身体を預けていた。彼が身に纏っているのは、深海の一番深い場所から織り上げたという、鈍い銀色を帯びた藍色の長衣だ。目の粗い絹のような布地は、彼が呼吸を微かに変えるたび、波の紋様を描いて滑らかに揺らめく。その肌からは、塩辛い潮の香りと、嵐の前に漂うどこか湿った大気の匂いが、絶えず微かに立ち上っていた。

 海の底は、地上の誰よりも静かだ。しかし、彼の耳には絶えず音が届いている。世界のすべての川、すべての泉、そしてすべての涙が巡り巡って戻ってくるこの場所では、水のざわめきそのものが世界の吐息だった。

 その静寂を、軽やかな足音が破る。

「お父様、またそうして世界の果てを眺めていらっしゃるのね」

 現れたのは、彼の愛娘の一人、オケアニスのドリスだった。彼女の纏う薄衣は、浅瀬の海が太陽を浴びたときのような、鮮やかなエメラルドグリーンをしている。細かな襞が寄った裾には、小さな巻貝や美しく磨かれた琥珀の粒が縫い付けられており、彼女が歩くたびに、からからと乾いた、しかし心地よい涼やかな音を立てた。

 オケアノスは、波が引くような穏やかな声音で応じた。

「ドリスか。ゼウスたちの騒がしい宴の音が、どうにもここまで響いてきてな。少しばかり、耳を休めていたのだよ」

「まあ、オリンポスのあの方々はいつも賑やかですものね。でも、お父様がそうして引きこもってばかりいらっしゃるから、海の眷属たちも少し退屈していますわ。ほら、今日は私がお食事をお持ちしましたの。たまには口を動かして、元気を出してくださいな」

 ドリスは、手にした大きな銀のトレイを、珊瑚を削って作られた円卓の上に置いた。

 トレイの上には、海の恵みと、地上の楽園から運ばれた瑞々しい品々が並んでいた。メインは、大ぶりな白身魚を海底の熱水鉱床の熱でふっくらと蒸し上げ、野生のハーブと、ほんのり酸味のある木の実の汁を注いだ料理だ。湯気とともに、磯の香ばしさと、鼻をくすぐる爽やかな柑橘の香りが立ち上る。その傍らには、透き通った琥珀色をした大粒の葡萄と、冷やされた山羊の乳のチーズ、そして、オケアノスの流れの果てにある島で採れたという、蜜のように甘い葡萄酒が満たされた冷たい水晶の杯があった。

 オケアノスは、娘の気遣いに口元を僅かに緩め、長衣の袖を払って卓に向かった。

「お前が選んだものなら、どれも美味そうだ」

「当然ですわ。お父様は放っておくと、ただの真水ばかり召し上がるのですから。さあ、冷めないうちにその魚を召し上がって。身がとても締まっていて、美味しいはずよ」

 言われるままに、オケアノスは骨を象った小さな箸で白身魚の肉を崩し、口に運んだ。

 舌の上に触れた瞬間、温かい魚の脂がじわりと広がり、ハーブの清涼感が引き締まった身の甘みを引き立てる。噛みしめるたびに、海の滋味が身体の隅々にまで染み渡るようだった。冷えた山羊のチーズを一口かじると、濃厚なコクと塩気が、口の中に残ったハーブの香りと混ざり合い、絶妙な調和を生み出す。

「……美味いな。地上の者たちが、火を使って肉を焼くのを好む理由が少し分かる気がする。この温かさは、確かに心を落ち着かせる」

「そうでしょう? お父様はいつも世界の始まりの冷たさの中にいらっしゃるけれど、時にはこういう温もりも必要なのですわ。それにしても、オリンポスではまたゼウス様が新しい人間の娘に目をつけたとかで、ヘラ様が酷い嵐を起こそうとしていらっしゃるのよ。そのせいで、私の可愛い人魚たちも、波が高くて遊べないと零していましたわ」

 ドリスは呆れたように溜息をつき、琥珀色の葡萄の皮を器用に剥きながら言った。その指先から、甘酸っぱい果汁の匂いがふわりと漂う。

 オケアノスは葡萄酒の杯を取り、ゆっくりと傾けた。喉を通り過ぎる葡萄酒は、熟した果実の濃厚な甘みと、オークの樽のような深い渋みを持っており、彼の胸の奥をじんわりと熱くさせた。

「ゼウスのあやつは、相変わらず落ち着きがないな。天空を統べる者が、そう何度も足元を揺らしてどうする。雷の光は、深海の底にまで届いて目障りなのだ」

「本当に。クロノス様を倒したときは頼もしかったのでしょうけれど、いざ平和になると、あの有り余る力がすべて妙な方向に向かってしまうのね。お父様が代わりに世界を治めればよかったのに、と私は時々思いますわ。そうすれば、世界はもっとこの大河のように、静かで淀みのないものになったでしょうに」

 娘の無邪気な言葉に、オケアノスは苦笑を浮かべた。しかし、その胸の奥には、ほんの少しの寂寥感と、古い時代への追憶が去来していた。

 かつて、ティタンの神々が世界を支配していた頃。彼はただ、世界を取り巻く外洋として、世界の境界線を守る役目に徹していた。弟たちのように権力を欲することも、ゼウスたちのように新しい時代を打ち立てようと戦うこともしなかった。それは臆病ゆえではない。ただ、循環し、すべてを包み込む「水」という自らの本質を、誰よりも理解していたからだ。

「ドリスよ。流れる水は、一箇所に留まって王座に就くことはできぬのだ。私は、すべての水が還る場所であり、同時にすべての命が始まる場所であればそれでいい。ゼウスたちがどれほど派手に戦い、地上を傷つけようとも、その傷から流れる血を洗い流し、海へと変えるのが私の役目だ」

「お父様は、本当に欲がありませんのね。でも、その大きな背中を見ていると、私はとても安心するの。地上の人間たちが、嵐を恐れてお父様に祈りを捧げる気持ちが、私にはよく分かりますわ」

 ドリスはそう言って、優しく微笑みながらオケアノスの藍色の袖に触れた。

 その時、宮殿の揺らめく燐光が、一瞬だけ激しく明滅した。

 オケアノスの鋭い眉が、僅かに跳ね上がる。彼の耳は、遥か数千里離れた地上の川で、激しい地響きと、人間の悲鳴が上がったのを捉えていた。地王ポセイドンが、また気まぐれに三叉の矛を大地に突き立て、地震を起こしたのだ。大気は震え、海面は激しく泡立っているに違いない。

 しかし、この深海には、その衝撃も微かな震えとなって届くだけだった。

「……ポセイドンのやつめ。また大地を怒らせたな。ドリス、すまないが、少し席を外すぞ。あやつが暴れた後の波を宥めねばならん。眷属たちが怯えてしまう」

「あら、もうお仕事ですの? せっかくのお食事がまだ残っていますのに」

「案ずるな、この魚の味はしっかりと覚えた。戻ったら、その残りの葡萄を一緒に食べよう」

 オケアノスは立ち上がり、銀色の長衣の裾を翻した。彼が動くと、宮殿の床を滑る水の流れが、まるで意思を持った生き物のように彼の足元にまとわりつき、道を作る。

 彼は宮殿のテラスへと歩み出た。そこからは、果てしなく広がる深海の闇と、その中を泳ぐ光る魚たちの群れが一望できた。冷たい海水が、彼の大きな身体を包み込む。その冷たさは、彼にとって我が家そのものの心地よさだった。

 オケアノスは、大きく息を吸い込んだ。彼の胸が膨らむと同時に、世界のすべての大洋が、呼応するように静かに波を打ち始める。

「静まれ、我が血肉たる水よ。怒りを収め、ただ私の中に流れ込め」

 彼が低く呟くと、その声は水の振動となって、瞬く間に世界中の海へと伝播していった。

 荒れ狂おうとしていた遠くの海面が、まるで見えざる巨大な手に撫でられたかのように、なだらかに沈静化していく。ポセイドンの荒々しい神気も、オケアノスの圧倒的な包容力の前には、ただの水飛沫に過ぎなかった。

 テラスの陰から、ドリスがその様子を誇らしげに見つめていた。

「やっぱり、お父様が一番強い神様だわ。誰もそれを知らないだけ。でも、それでいいのよね」

 彼女は、残された冷たい葡萄酒を一口含み、その甘さに目を細めた。

 オケアノスは、世界のざわめきが完全に収まるのを見届けると、ゆっくりと振り返った。彼の表情には、先ほどと変わらぬ穏やかな、そして少しだけ疲れたような慈愛の笑みが浮かんでいた。

「待たせたな、ドリス。さあ、その琥珀の果実を、私にもひとつ分けておくれ。海の静寂を取り戻した後の果物は、きっと格別に甘いに違いない」

 世界の果ての大河は、今日もまた、すべての命の営みを包み込みながら、音もなく流れ続けていた。



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