世界をめぐる青き河 オケアノス
世界をめぐる青き河
まだ神々の時代が若かったころ。
オトリュス山の朝は、黄金色の光に包まれていた。
ティタン神族の長老オケアノスは、山頂の大理石の回廊に立ち、遥かな地平線を見つめていた。
長い青銀色の髪が風に揺れる。
深い海を思わせる蒼い長衣には、銀糸で波模様が刺繍されている。肩には白い貝殻を連ねた飾りが輝き、その姿はまるで大海そのものだった。
背後から柔らかな声が聞こえた。
「また世界を見ているのですか、あなた」
振り返ると、妻のテテュスが微笑んでいた。
水色の薄衣をまとい、長い金髪を真珠でまとめている。
オケアノスは穏やかに笑った。
「見飽きることがないからな」
「毎日同じ景色でしょう?」
「いや。毎日違う」
テテュスはくすりと笑った。
「変わった人」
「よく言われる」
二人は並んで朝日を眺めた。
山の下では雲海がゆっくり流れている。
遠くから海鳥の鳴き声が聞こえた。
潮の香りが風に乗って届く。
オケアノスは目を細めた。
「今日も良い日になりそうだ」
「また旅ですか?」
「少しな」
テテュスはため息をついた。
「世界を一周する河の管理でしょう?」
「そうだ」
「あなたは働きすぎです」
「河が溢れたら人間も神々も困る」
「真面目ねえ」
オケアノスは苦笑した。
戦いが好きな兄弟たちと違い、彼は争いを好まなかった。
世界を取り囲む巨大な河。
それが彼自身だった。
オケアノスの流れは大地を潤し、海へと注ぎ、雲となり、再び雨となる。
生命の循環そのものだった。
朝食の席では娘たちが騒いでいた。
川の精霊たち。
ナイアスたち。
数千人を超える子供たちである。
「父上!」
「父上!」
「見て見て!」
「私、新しい花を見つけたの!」
「私は魚を捕まえた!」
「私は泳ぎで一番!」
オケアノスは笑いながらうなずいた。
「そうかそうか」
巨大な食卓には焼きたてのパン、蜂蜜、白いチーズ、オリーブ、干しイチジク、葡萄が並んでいる。
娘たちは夢中で食べていた。
テテュスが呆れる。
「あなた、ちゃんと叱ってください」
「何を?」
「甘やかしすぎです」
「元気が一番だ」
「本当に困った人」
娘たちは歓声を上げた。
「やった!」
「父上大好き!」
オケアノスは笑った。
この時間が好きだった。
戦争も陰謀もない。
ただ家族が笑っている。
それだけで十分だった。
その日の昼。
オケアノスは世界の外縁へ向かっていた。
巨大な青い河が果てしなく流れている。
水面には陽光がきらきらと踊っていた。
魚たちが跳ねる。
海鳥が舞う。
潮風が頬を撫でる。
オケアノスは満足そうにうなずいた。
「今日も順調だな」
そのとき。
遠くから雷鳴が響いた。
轟音。
空気が震える。
嫌な予感がした。
現れたのは弟のクロノスだった。
黒い王衣をまとい、黄金の鎌を携えている。
「兄上」
クロノスが低く言った。
「どうした」
「父上を倒す」
オケアノスは静かに目を閉じた。
やはり。
そういう話だった。
「争うのか」
「当然だ」
「多くの血が流れるぞ」
「必要な犠牲だ」
クロノスの瞳には野心が燃えていた。
若き王者の光。
だが同時に危うさもあった。
オケアノスは河面を見つめた。
波が揺れる。
静かな水面。
「クロノス」
「なんだ」
「勝っても失うものはある」
「失わねば得られぬものもある」
クロノスはそう言った。
しばらく沈黙が流れた。
やがてオケアノスは微笑む。
「お前らしいな」
「兄上は参加しないのか」
「私は河を守る」
「そうか」
クロノスは残念そうでもあり、安心したようでもあった。
「兄上は変わらないな」
「お前もな」
二人は笑った。
兄弟だからこそ分かる。
決して同じ道は歩けない。
それでも家族だった。
クロノスが去った後、オケアノスは長く空を見上げた。
白い雲が流れていく。
やがて戦いが始まるだろう。
世界は変わる。
神々も変わる。
王も変わる。
だが。
河は流れ続ける。
生命を運び続ける。
それが自分の役目だ。
夕暮れ。
オケアノスは家へ戻った。
厨房から香ばしい匂いが漂ってくる。
テテュスが魚の香草焼きを作っていた。
皿には海老の煮込み。
レモンを搾った白身魚。
焼きたての小麦パン。
葡萄酒。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「難しい顔をしていますね」
「少しな」
テテュスは優しく笑った。
「食べましょう」
「そうだな」
二人は席についた。
窓の外では夕日が河を赤く染めている。
娘たちの笑い声が聞こえる。
魚の香ばしい匂い。
焼きたてのパンの甘い香り。
葡萄酒の芳醇な香り。
オケアノスは静かに目を細めた。
「世界は変わるだろう」
「ええ」
「だが、この時間だけは守りたい」
テテュスはそっと彼の手を握った。
「あなたなら守れます」
「そう思うか」
「もちろん」
その温もりに、オケアノスは微笑んだ。
王にならなくてもいい。
英雄にならなくてもいい。
ただ世界を巡り、人々を潤し、家族を守る。
それで十分だった。
窓の外では、永遠の河が静かに流れていた。
まるで世界そのものを優しく抱きしめるように。




