『狭間の王イアペトス――穿たれる天と地』
『狭間の王イアペトス――穿たれる天と地』
世界の西の果てを襲う夜風は、刻一刻と冷たさを増していった。漆黒の羊毛の長衣をまとったイアペトスは、足元の岩肌から伝わる大地の震えを、その頑丈な足の裏で敏感に感じ取っていた。天を支える彼の巨躯は微動だにしないが、胸の奥では、先ほど旅立っていった次男プロメテウスへの予感めいた不安が、冷たい澱のように沈殿している。
卓上に残された、山羊のチーズの酸っぱい匂いと、飲み乾された赤ワインの残り香が、夜の湿った空気に混ざり合っていた。
「父上、プロメテウスは本当にやる気です」
アトラスが、濃紺の外套を風に激しくなびかせながら言った。彼の声は、怒りと焦燥で低くひずんでいる。天の一角を支える彼の太い腕には、青白い血管が浮き出ていた。
「あやつは、一度決めたら梃子でも動かん。我が息子ながら、あの執念深さは誰に似たものか」
「のんきなことを言っている場合ですか! ゼウスの怒りを買えば、あの男がただで済むはずがない。火を盗むなど、オリンポスに対する公然たる反逆です。我らチタン一族は、さらに深い奈落へ突き落とされるかもしれないのですよ」
アトラスの瞳には、かつてゼウスの雷によって焼き尽くされた戦場の光景が、恐怖とともに蘇っているようだった。彼の肌からは、極限の緊張からくる酸っぱい汗の匂いが立ち上り、イアペトスの鼻腔を突いた。
イアペトスは、ゆっくりと首を横に振った。
「アトラスよ、お前は世界を守るためにその腕を使っている。だがプロメテウスは、世界を動かすためにその知恵を使おうとしているのだ。どちらが偉いわけでもない。ただ、我らはすでに敗者なのだ。これ以上、何を失うことを恐れる?」
「私は……私は、これ以上父上や兄弟たちが傷つく姿を見たくないだけです!」
息子の叫びは、崖下に打ち付ける荒波の轟音にかき消されそうだった。しかし、その不器用な優しさは、イアペトスの凍てついた心を確かに揺さぶった。イアペトスは、大きな手を伸ばしてアトラスの逞しい肩を掴んだ。
「分かっている。お前の優しさは、この天の重みよりも尊い」
そのとき、突如として天の穹窿が、不自然な鳴動を始めた。
バリバリと音を立てて、西の夜空が割れる。しかし、それはゼウスの雷ではない。もっと昏く、禍々しい、大地の底から湧き上がるような魔力の気配だった。
「この気配は……まさか、タルタロスの封印が?」
アトラスが息を呑んだ。
暗黒の空から、一条の紫色の光が降り注ぎ、彼らの立つ宮殿の庭へと突き刺さった。激しい衝撃波が走り、円卓の上に残されていた銀の杯が甲高い音を立てて転がり、石の床にワインの残滓をぶちまけた。果物の無花果が、地面に落ちて無残に潰れる。
光の渦が収まったあとに立っていたのは、ぼろぼろの灰色の布をまとった、一人の男だった。その肌は血の気を失って白く、全身から焦げた肉と、悍ましい硫黄の臭気を放っている。
「……イアペトス、兄よ……まだそんなところで、ゼウスの奴隷をやっているのか」
男が顔を上げた。その声は、地底の底で砂利を擦り合わせるように掠れていた。
「メノイティオス……!」
イアペトスは、思わず声を詰まらせた。それは、チタン神族の戦いにおいてゼウスに傲慢さを咎められ、真っ先に雷で撃ち抜かれてタルタロスへと落とされた、イアペトスのもう一人の息子、三男のメノイティオスだった。
メノイティオスの瞳には、理性などひとかけらも残っていなかった。あるのは、オリンポスへの、そして世界への、ただ純粋な呪詛と狂気だけだ。
「ああ、懐かしい我が家だ。だが、冷たいな。奈落の底はもっと熱かったぞ。這い上がるのに、どれだけの肉を削ぎ落としたか、お前たちには分かるまい」
メノイティオスは、狂ったように笑いながら、ふらふらとした足取りで歩を進めた。彼が歩くたびに、足元の草花が黒く枯れ果てていく。
「メノイティオス、正気に戻れ! なぜここへ来た。お前の肉体は、もう限界のはずだ!」
アトラスが、天を支えながら叫んだ。助けに行きたくとも、彼がここを動けば天が落ち、世界が壊れてしまう。
「正気? そんなものはタルタロスの業火で焼き切れたよ、兄さん。私はね、ただ壊したいのだ。ゼウスが作ったこの偽りの平穏を、この手で、根底から!」
メノイティオスが両腕を掲げると、彼の体内から、どす黒い魔力の炎が噴き出した。その熱風が、イアペトスの漆黒のキトンを激しくなびかせる。鼻を突くのは、我が子の肉が今まさに、内側から崩壊していく死の匂いだった。
彼は狂気に突き動かされ、天を支えるアトラスの足元へ向かって、その呪いの炎を放とうとした。
「やめろ、メノイティオス!」
イアペトスの咆哮が、夜の帳を切り裂いた。
天を支える片腕に凄まじい負荷をかけながら、イアペトスはもう片方の腕を力強く突き出した。彼の掌から、チタン神族の誇り高き、純粋なる大地の力が解き放たれる。
ドォン、という重苦しい衝撃音が響き、イアペトスの放った衝撃波が、メノイティオスの呪いの炎を打ち消し、その身体を吹き飛ばした。
「がはっ……!」
メノイティオスは石床に激しく叩きつけられ、血を吐いた。その血は赤くなく、墨のように黒かった。
イアペトスは、天の重みで自身の膝が激しく震えるのを必死で堪えながら、倒れた息子を見下ろした。胸が、張り裂けんばかりに痛む。なぜ、我が子どもたちは、これほどまでに過酷な運命を背負わねばならないのか。一人は天を支え、一人は火を盗み、一人は狂気に落ちる。
「……見事な一撃だ、父上。やはりあなたは、偉大なる、チタンの王だ……」
メノイティオスは、掠れた声で笑った。彼の身体の端から、徐々に灰となって風に溶け始めていた。奈落を脱け出すために、彼はすでに寿命の前借りをし尽くしていたのだ。
「メノイティオス……」
イアペトスは、天を支える手を離すことができない。駆け寄って、その身体を抱きしめてやることもできない。ただ、消えゆく息子を、涙で歪む視界の中で見つめることしかできなかった。
「私は、先に地獄で待っている……。ゼウスの首が、落ちるのをね……」
それが、メノイティオスの最期の言葉だった。彼の身体は完全に灰となり、西の果ての冷たい夜風にさらわれて、暗い海へと消えていった。
あとに残されたのは、静寂と、床にこぼれたワインの黒いシミだけだった。
「メノイティオス……」
アトラスの声が、涙に濡れていた。彼の巨大な身体が、悲しみで小さく震えている。
イアペトスは、深く、深く息を吐き出した。その呼吸は、まるで地底の火山が上げる煙のように重かった。彼は再び、両腕で天をしっかりと支え直した。
「泣くな、アトラス。あやつは、己の意志で奈落を這い上がり、己の意志で果てた。我らチタンの血は、誰の奴隷にもならん。それを証明してみせたのだ」
イアペトスは、夜空の向こう、プロメテウスが向かったであろう東の空を見つめた。
一人の息子を失い、もう一人の息子はこれから過酷な罰を受けるだろう。それでも、イアペトスは折れなかった。この天の重みがある限り、彼は立ち続ける。いつか、オリンポスの傲慢なる神々が、自らの撒いた種によって破滅するその日まで、この狭間の王は、決して不屈の焔を絶やさない。




