百腕の目覚めと大地の大釜
百腕の目覚めと大地の大釜
タルタロスの最底辺は、ただ暗いだけではない。そこは湿度を含んだ重苦しい沈黙と、鉄が錆びたような冷たい匂いが支配する世界だった。果てしない闇の奥底で、巨躯を横たえていたコットスは、ふと自らの無数にある手のひとつを動かした。指先が湿った岩肌を擦り、不快な摩擦音が微かに響く。
「おい、ブリアレオス、ギエス。起きているか」
コットスが呟くと、その声は百の口から同時に漏れ出し、重層的な地鳴りとなって響いた。
「起きているとも。この這い回る虫のような退屈さに、ちょうど嫌気がさしていたところだ」
闇の中から応じたブリアレオスの声には、苛立ちが混じっていた。
彼らヘカトンケイル――百の手と五十の頭を持つ巨神たちは、父ウラノスに忌み嫌われ、この地底の奈落に閉じ込められてからどれほどの時が流れたかを知らない。
彼らが身にまとっているのは、母なる大地ガイアが彼らの誕生時に織り上げた、粗い亜麻布の巨大な衣だった。それは大地の奥深くの鉱物の色が染み付いた、鈍い灰褐色をしている。あまりにも長い年月を経て、生地はところどころ擦り切れ、地の底の泥や結晶化した塩がこびりついていた。しかし、その重厚な布地は、彼らの盛り上がる強靭な筋肉を包み込み、幽閉の身であってもなお失われない、神としての威厳を辛うじて保たせていた。
「腹が減ったな」
五十の頭を一度に揺らしながら、ギエスが胃の腑を鳴らした。
彼らの食事は、時折、母ガイアが地割れの隙間から落としてくれる、大地の恵みだけだった。コットスは無数の腕を伸ばし、岩棚の上に置かれた巨大な青銅製の大釜を引き寄せた。それは彼らの体躯に合わせて作られた、並外れて巨大な器だ。釜の中には、ガイアが送り届けてくれた、地熱でじっくりと煮込まれた野生の猪の肉と、地下水脈で育った肉厚な黒キノコ、そして野生の根菜が並々と満ちていた。
「おお、今日の肉はよく肥えている」
ブリアレオスが手を伸ばし、骨付きの塊肉を掴み上げた。
濃厚な獣脂の香りと、大地の土の匂いをふんだんに吸い込んだスパイスの香りが、冷え切ったタルタロスの空気を一瞬で満たした。
「いただきます、母上」
三人はそれぞれの頭でそう唱えると、一斉に食事に取り掛かった。
百の手が交錯し、次々と肉を口へ運ぶ様子は、遠目に見れば嵐に揺れる大樹のようだった。
「うまいな。この、噛み締めた瞬間に溢れる血と脂の味が、まだ自分たちが生きていると教えてくれる」
ギエスが口の周りを赤黒いソースで汚しながら、満足げに目を細めた。
「だが、どれだけ胃袋を満たそうとも、この胸の渇きは癒えん」
コットスは、柔らかく煮込まれた根菜を噛み砕きながら、苦渋に満ちた声を漏らした。
「私たちはただ、その異形ゆえに父に恐れられ、ここに捨てられた。この溢れる力を使う場所すら与えられずに」
タルタロスの冷気は、彼らの熱い吐息によって白く染まる。衣服の隙間から覗く、鋼のように硬い皮膚には、岩肌と擦れてできた古い傷跡が幾筋も刻まれていた。
「兄者、そう腐るな」
ブリアレオスが、大釜の底に残った濃厚なスープを、大きな木杓ですくいながら言った。
「いつか、この世界が我らの力を必要とする時が来る。俺のこの百の拳が、あの忌々しい天空の天井を叩き割る日を、俺は夢に見ている」
その言葉に、ギエスも力強く頷いた。
「そうだ。ガイアの母上が、私たちをこのまま腐らせておくはずがない。このスープに込められた大地の熱量が、その証拠だ。母上はまだ、私たちに期待していらっしゃる」
食事が終わると、彼らは再び静寂の中に座り込んだ。
満ち足りた胃袋とは裏腹に、彼らの心には、外の世界への強烈な憧憬と、不条理な運命への怒りが、マグマのようにふつふつと湧き上がっていた。
コットスは、自分の手のひらを見つめた。一つの腕に繋がる、逞しい五本の指。それが百人分。合わせれば、どんな山をも引き抜き、どんな海をも覆すことができる力。
「私たちは怪物ではない。神なのだ」
コットスは静かに、しかし確信を込めて呟いた。
その声は、タルタロスの闇を震わせ、遥か頭上の地上へと繋がる岩盤を、微かに、だが確かに鳴動させたのだった。




