百の腕が抱く夜 ヘカトンケイルたち
百の腕が抱く夜 ヘカトンケイルたち
世界がまだ若かった頃。
空の神ウラノスと、大地の女神ガイアの間には、多くの子どもたちが生まれた。
その中でも、最も異様で、最も恐れられたのがヘカトンケイルたちだった。
百本の腕。
五十の頭。
山のような巨体。
名をブリアレオス、コットス、ギュゲスという。
だが彼らは、生まれた時から怪物だったわけではない。
むしろ誰よりも優しかった。
ガイアは今でも覚えている。
生まれたばかりの三人が、自分の百本の腕をどう扱えばいいのかわからず、互いの腕に絡まりながら泣いていたことを。
「母上ぇ……腕が抜けません……」
「兄上の手が耳に入っています……」
「誰か私の左から三十八番目の手をどけてください……」
ガイアは思わず笑った。
春の花が咲くような優しい笑みだった。
「大丈夫よ。ゆっくり覚えればいいの」
大地には若葉の匂いが満ちていた。
潮風が吹き抜ける丘で、三人は少しずつ成長していった。
彼らは力持ちだった。
山が崩れれば支えた。
海が荒れれば岩を積んだ。
傷ついた動物を見つければ、百本の腕でそっと抱き上げた。
ある日。
ギュゲスが泣いている鹿を見つけた。
足に棘が刺さっている。
「痛いのか?」
五十の顔が心配そうに覗き込む。
鹿は震えた。
だがギュゲスは百本の手のうち一本だけを慎重に伸ばした。
「怖くない」
棘を抜く。
鹿は驚いたように目を丸くした。
「ほら」
百本の手で木の実を差し出す。
鹿はそれを食べた。
その瞬間。
ギュゲスの五十の顔すべてが笑顔になった。
「食べた!」
「食べたぞ!」
「兄上見ましたか!」
森中に歓声が響いた。
鳥たちが飛び立つ。
陽光が葉の隙間から降り注ぐ。
そんな光景を、ウラノスだけは冷たい目で見ていた。
「あれは異形だ」
夜。
星空の下。
ウラノスは呟く。
「百本の腕など不要だ」
ガイアは怒った。
「なぜです!」
「あの子たちは優しい子たちです!」
「力も心もある!」
だがウラノスは首を振った。
「だから恐ろしい」
冷たい風が吹いた。
星々が凍りついたように輝く。
「力を持つ者はいずれ反逆する」
「私は知っている」
ガイアの胸が痛んだ。
大地が軋む。
遠くで火山が唸った。
しかしウラノスは決して考えを変えなかった。
そしてある夜。
悲劇が起きる。
深い眠りについていたヘカトンケイルたちの前に、ウラノスが現れたのだ。
「父上?」
コットスが目をこする。
まだ幼い。
無邪気な声だった。
「どうしたのですか」
「お前たちを閉じ込める」
その言葉の意味を理解する前に。
天空の鎖が降ってきた。
じゃらり。
鉄と雷の匂い。
夜空が裂ける音。
「父上!?」
「なぜです!」
「何か悪いことをしましたか!」
三人は叫んだ。
だがウラノスは答えない。
百本の腕を縛る。
五十の頭を押さえつける。
そして世界の底。
タルタロスへ落とした。
闇。
闇。
どこまでも闇。
湿った岩の匂い。
冷たい地下水。
太陽の光は届かない。
風もない。
花もない。
ただ沈黙だけがある。
コットスが泣いた。
「母上……」
ギュゲスも泣いた。
「帰りたい……」
ブリアレオスだけは歯を食いしばった。
「泣くな」
けれどその声も震えていた。
「きっと母上が迎えに来る」
三人は寄り添った。
百本の腕が互いを抱く。
誰かの肩に手を置く。
誰かの涙を拭う。
誰かの背中をさする。
何年も。
何十年も。
何百年も。
そうして過ごした。
ある日。
岩の裂け目から小さな花が咲いた。
白い花だった。
「花だ」
ギュゲスが呟く。
「こんな場所にも咲くのか」
コットスが微笑む。
ブリアレオスは静かにその花を守った。
百本の腕で風を防ぎ。
水を運び。
光の代わりに歌を聞かせた。
「いつか外へ出よう」
「そして母上に会うんだ」
三人は花を囲んで語り合った。
希望だけが支えだった。
やがて遠い未来。
タルタロスの闇の向こうから、新たな足音が聞こえてくる。
若き神ゼウス。
運命を変える雷神である。
まだ彼らは知らない。
百本の腕は世界を壊すためではなく、守るために与えられたことを。
追放された怪物ではなく。
神々の未来を支える柱となることを。
タルタロスの暗闇の中。
三人は肩を寄せ合い、硬い黒パンと地下で育てた白い茸のスープを分け合った。
湯気はかすかに土の香りがした。
「まずいな」
コットスが言う。
「まずいですね」
ギュゲスが頷く。
するとブリアレオスが笑った。
「でも皆で食べれば少しうまい」
三人は顔を見合わせた。
そして声を上げて笑った。
闇は深かった。
けれど、その笑い声だけは消えなかった。
それはやがて神話になる。
百本の腕を持つ者たちが、それでも誰かを抱きしめることをやめなかったという、古い古い物語の始まりだった。




