第9話 泥濘のソノヨン王国
エリザ教官が魔王アスタロトの手によって、塵を払うかのように容易く連れ去られてから、一行を支配しているのは死よりも重い沈黙だった。
かつてはルナの苛烈な罵倒が響き渡り、レオのナルシシズム全開な台詞が空気を震わせていた道中も、今はただ、三人の足音が湿った泥を叩く、不規則で重苦しい音しか聞こえない。
深い霧に包まれた「迷いの森」を抜け、当てもなく彷徨い続けた果てに、彼らは一つの国へと辿り着いた。
辺境の地に佇む「ソノヨン王国」。
古い羊皮紙の地図には交易の要所として栄華を誇ったと記されていたが、目の前に広がる景色にその面影は微塵もなかった。立ち並ぶ石造りの家々は煤け、窓は外敵を拒むように固く閉ざされている。道を行く数少ない人々も、一様に肩を落として俯き、まるで実体のない影のように音もなく通り過ぎていく。活気という概念がこの世から消滅したかのような、灰色一色の世界。ただ、腐りかけた湿気と、何かが諦められたような停滞した空気だけが鼻を突いた。
「……ここ、どこよ……」
ルナが掠れた声で、誰に届けるでもない独り言をつぶやいた。
その瞳には、かつての勝気な火は消え失せ、ただ深い疲弊と、信じていた世界が崩壊した後のような虚無だけが宿っている。その問いに応える者は、一人としていなかった。答えを知るための思考さえ、今の彼らには酷な作業だったからだ。
だが、その凍りついた時間を、一つの影が物理的に切り裂いた。
大通りの中心。逃げ場のない広場の真ん中に、一人の影が不自然なほど静かに立ちはだかっていた。
小柄な体躯。一見すれば、街のどこにでもいるような幼い少年だ。しかし、その左頬に鋭利な刃物で刻み込まれたような「逆三角形のアザ」が、夕闇に近い灰色の空の下で赤黒く脈動している。そして、その背負った「モノ」が、彼がただの子供ではないことを雄弁に物語っていた。自分の身長よりも遥かに長く、鉄の塊をそのまま叩き出したような無骨な大剣。その圧倒的な重量感を、少年は呼吸をするかのように平然と背負っていた。
「……二刀流剣士。お前、勇者か?」
少年の低い声が、静まり返った街の石畳に冷たく、そして鋭く響き渡る。その視線は、虚空を見つめていたレオを射抜いた。
レオは生気のない瞳のまま、ゆっくりと視線を少年に移す。かつての彼なら、ここで華麗な剣捌きを披露しながら皮肉の一つも言っただろう。だが、今の彼は習慣のように腰の二本の愛剣に手をかけるのが精一杯だった。
「……それがどうした?」
「今更、この国に何の用だッ!!」
少年の絶叫と共に、空気が爆ぜた。
少年の背中から引き抜かれた大剣が、重力を完全に無視した速度で振り抜かれる。抜剣と同時に放たれた踏み込みは、分厚い石畳を一瞬で粉砕し、弾丸のような推進力を生んだ。
「くっ!」
死の間際で、レオの天才的な直感が牙を剥いた。思考よりも早く体が動き、二本の剣を交差させ、盾としてその衝撃を受け止める。
だが、次の瞬間、レオの視界から地面が消えた。
ドォォォォォン!!
鉄柱で真っ向から殴られたような、理不尽な暴力がレオの細い身体を襲う。
「ぐぁぁぁっ!?」
天才剣士として鳴らしたレオの足が地面から離れ、木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。いくつもの露店の棚をなぎ倒し、立ち込める土煙の中にレオの姿は消えていく。
「な、なによ今の……レオが一撃で負けたの……!?」
ルナの絶叫が広場に響く。勇者育成学校でもトップクラスの実力を誇り、傲慢なまでの自信に満ち溢れていたあのレオが、名もなき国にあらわれた子供の一撃で、抗う間もなく屠られた。恐怖で膝が笑い、ルナは一歩も動けなくなる。震える手で隣にいるはずの「仲間」に助けを求めようと、彼女は必死に顔を向けた。
「ねえ、イチカラ! 止めないと、今のままだと私たち……」
しかし、そこに返ってきたのは冷たい沈黙と、もぬけの殻となった空間だけだった。イチカラは、レオが吹き飛ばされた瞬間の爆風と巻き上がった土煙に紛れ、ルナの悲痛な呼びかけなど耳にも入れず、一目散に路地裏へと逃げ出していた。
(……無理だ! 止められるわけないだろ! 魔王どころか、あんな怪物みたいな子供にさえ勝てるもんか!)
イチカラは心臓の鼓動が耳元で鳴り響く中、必死に脚を動かした。膝に力が入らず、曲がり角の壁に何度も肩をぶつけ、転びそうになりながらも、ただ戦いの中心――「死」から遠ざかることだけを考えた。額からは冷や汗が滝のように流れ、全身がガタガタと震えている。
(……そうだ、そもそも僕は無能なんだ。世界なんて救えるわけがない。教官だって助けられるわけがない。……武器も、防具だって、一つも持っていないんだぞ? 裸同然で、素手であの大剣と戦えってのか? 冗談じゃない!)
逃避を正当化する言い訳が、脳裏に湯水のように溢れ出した。
(……こうなったら、この国で隠れ住もう。どこかで真面目に……いや、そこそこ働いて、適当で可愛いお嫁さんを貰って、子供でも作って、平穏に暮らすんだ。それが僕にとっての真の救いなんだ……!)
仲間のルナを、吹き飛ばされたレオを見捨てた罪悪感を、強引に「第二の人生の夢」で塗りつぶす。徘徊するように暗い路地を歩き回っていると、一軒の、一際古びた武器屋の前に辿り着いていた。店先には手入れもされず、赤錆に覆われた剣や、穴の空いた木盾が乱雑に並んでいる。
なんとなく、自分のこれからの人生を暗示しているかのようなその惨状を眺めていると、店の奥の重い木の扉が開く音が響いた。
「あら、お客さん? 珍しいわね。今、戦争中だから店はやってないんですよ」
中から出てきたのは、一人の女性だった。
仕事で汗まみれになったのか、シャツは肌に張り付き、顔や腕には煤や油の汚れがついている。しかし、それがかえって彼女の野生的な、成熟した女性の魅力を引き立てていた。ラフに着崩した薄手のシャツは、上の方のボタンがいくつか外れ、彼女が動くたびに、シャツの隙間から覗く豊かな胸元が、汗の湿度で生々しく強調されている。
イチカラの目は、吸い寄せられるようにその胸元に釘付けになった。
(……セクシーだ。これだ、僕が求めていた安らぎは、この温もりのなかにあったんだ!)
さっきまでの死への恐怖、レオの敗北、ルナの震える声。それらすべてが、目の前のセクシーな曲線によって一瞬で記憶の彼方へ押し流された。
「いや、その……何でもないです……。あ、あの、ここで雇ってもらえたりしませんか? 僕、掃除とか、力仕事はちょっとアレですけど、一生懸命働きますから! えへへ……」
下卑た笑みを浮かべ、この場に居着こうと提案しかけたその時、背後から氷柱を直接突き立てるような、底冷えのする声が響いた。
「イチカラ。お前も勇者だったのか?」
振り返ると、そこにはいつの間にか追ってきたあの少年――スターが立っていた。大剣を肩に担ぎ、汚泥を見るような冷徹な瞳でイチカラを見下ろしている。
「な、なんで僕の名前を……」
「お前の仲間が吐いたんだよ。『本当は、お前が一番強い勇者だ』ってな」
「そ、そんなの嘘だ! あの二人が、自分たちが助かりたいから適当に言ってるだけで! 自分は本当に無能なんです! 強くなんてない! 見てください、この震える足を! 勇者なわけないでしょ!」
必死に、無様に命乞いをするイチカラ。だが、スターの瞳に宿る、勇者という存在に対する深く、暗い「憎悪」の炎は、その言葉を聞くほどに勢いを増していく。
「うるせえッ!!」
スターが、感情を爆発させて大剣を頭上に振り上げた。空気を切り裂き、大気が鳴動するような凶悪な銀光。
「ひぎゃぁぁぁぁ!」
イチカラは絶叫しながら、反射的に目の前にいた女性の細い腰を抱きかかえ、無様に、しかし必死に地面を転がった。
ドォォォォォン!!
間一髪で避けたものの、スターの怪力が生み出した衝撃波によって、武器屋の重厚な店構えは粉々に粉砕され、瞬く間に瓦礫の山へと変わった。
「ちょっとスター! どういうこと!? うちの店、壊さないでよ!」
抱きかかえられていた女性が、イチカラの腕の中で、粉塵にまみれながら憤慨した声を上げる。すると、スターは眉ひとつ動かさず、冷酷に言い放った。
「うるせえ。サリナ。弁償なら後でしてやる。まずは……この勇者を殺してからだ」
(サ、サリナさん……。っていうんだ、あのお姉さん。……って、そんなこと言ってる場合じゃない! 殺される! 本当に殺される!)
イチカラは、スターの瞳に宿る剥き出しの殺意に、腰が抜け、股間の震えすら止まらなくなった。だが、粉砕された瓦礫の中に、一振りの、手入れすらされていない古びた剣が転がっているのが見えた。
震える手でその剣を拾い上げ、どうにか構える。
だが、スターから放たれる圧倒的な殺気の前に、剣を握っている感覚すら消失していく。指先が麻痺し、足は地面に根が生えたようにガクガクと震え、今にもその場に崩れ落ちそうだ。
勇者なんて言われたくない。誰も守りたくもない。今すぐここから逃げ出したい。
だが、眼前のスターは、再び冷酷に、巨大な刃を振り上げた――。




