第8話 魔王降臨、壊滅する希望
「……で? 聖剣の精霊を助けて、わざわざ敵に塩を送った挙句、自分はボコボコにされて帰ってきたわけ?」
迷いの森のキャンプ地。イチカラは太い大樹に頑丈な鎖でぐるぐる巻きにされ、吊るし上げられていた。目の前には、般若の如き笑みを浮かべたエリザ教官と、冷徹な瞳で拳を握りしめるルナが立っている。
「ち、違うんだルナちゃん! 彼女には愛する人がいて、僕はその……恋の橋渡しを……」
「黙れゴミ虫。あんたの身勝手な逃走のせいで、どれだけ訓練が遅れたと思ってるの!」
ルナの堪忍袋の緒が切れた。彼女はボクシングの構えをとると、イチカラの顔面に向けて凄まじい速度の回転連打――「デンプシーロール」を叩き込んだ。
「オラオラオラオラ! この無能勇者がぁぁぁ!!」
「ぎゃああああ! しぬぅぅ!!」
その横では、レオが恍惚とした表情で頬を赤らめ、ルナに駆け寄る。
「ルナさん! その怒りに満ちた拳、素晴らしい! 僕にも……僕にも一発いただけませんか!?」
「うるさいわね、あんたはあっちで素振りしてなさい!」
ルナはレオをゴミを見るような目であしらい、再びイチカラの顔面に右ストレートを叩き込んだ。
その時だった。
突如として、森の空気が「重く」なった。
鳥たちは鳴き止み、風が止まり、世界から色が消えたかのような錯覚に陥る。霧の向こうから歩いてきたのは、ただの一人の男。しかし、その背後には数万の死霊がうごめいているかのような絶望的なオーラ――魔王、アスタロト自らが降臨したのだ。
「……デュラハンが消えたと聞き、様子を見に来たが」
魔王の冷徹な声が響く。彼は縛られているイチカラ、震えるルナ、そしてレオを順に眺めた。
「伝説の聖剣が抜かれた反応があったはずだが……。この三人か? 勇者の強いオーラを感じた気がしたが、気のせいだったようだな。ただのゴミ溜めにしか見えん」
魔王は興味を失ったように溜息をつくと、ゆっくりと手を上げた。その指先には、一国を滅ぼすに足りる漆黒の魔力が集束していく。
「期待外れだ。まとめて塵になれ」
「させるかぁぁぁ!!」
絶体絶命の瞬間、魔王の前に立ち塞がったのはエリザ教官だった。彼女はイチカラたちに背を向け、全身の覇気を解き放つ。
「逃げろ、お前たち! こいつは次元が違う!」
エリザは音速を超えた踏み込みで魔王の懐に潜り込み、渾身の正拳突きを放つ。しかし、魔王は動かない。ただそこに「存在している」だけで、エリザの拳は目に見えない壁に阻まれ、逆に彼女の腕の骨が悲鳴を上げた。
「……勇者育成学校の教官か。少しは遊べるかと思ったが」
魔王が軽く指を弾くだけで、大気に激震が走り、エリザの体は木の葉のように吹き飛ばされた。大樹を何本もなぎ倒し、血を吐いて倒れるエリザ。ルナもレオも、その圧倒的な力の差に指一本動かすことができない。本物の魔王を前に、彼らの才能はあまりにも無力だった。
魔王がとどめを刺そうとエリザに歩み寄る。その瞬間、意識を失いかけていたエリザが、最後の力を振り絞って隠し持っていた短剣で魔王の喉元を突こうとした。不意を突く見事な一撃。だが、魔王はそれを指先だけで受け止めた。
「ほう。その執念だけは褒めてやろう。……連れて行く。勇者を育てる者がどんな絶望を抱いて死ぬか、じっくりと見せてやろう」
魔王は、力なく崩れ落ちたエリザの首根っこを乱暴に掴み上げた。
「お、教官……エリザ教官!」
縛られたまま叫ぶイチカラ。しかし魔王は一瞥もくれず、エリザを連れたまま闇の中へと消えていった。
静まり返った森に残されたのは、恐怖に震えるルナとレオ、そして、自分を殴り続けていた「怖いけれど頼もしかった」師を奪われたイチカラの絶望だけだった。
「……教官……。僕のせいで……僕が逃げたせいで……!」
イチカラの背中のアザが、主の深い後悔と悲しみに呼応し、熱く、赤黒く脈動を始めた。




