第17話 託された遺志
アースの死という冷酷な現実は、残された俺たちの心を鋭く、そして深く削り取った。
あの日から、俺の時間は止まったままだった。
俺、イチカラは教会の一室で、泥のような眠りと、目覚めるたびに襲いかかる喪失感の狭間にいた。無理がたたったのか、体調は一向に回復せず、窓から差し込む光さえも今の俺には眩しすぎた。寝返りを打つたびに、体の節々が軋むような痛みを訴える。
だが、そんな微睡みの中で、時折、現実とは思えないほど美しい光景を目にすることがあった。
視界の端で揺れる、金糸のような輝き。
「君……は……?」
掠れた声で問いかけても、彼女は決して答えない。
透き通るような白い肌をしたその少女は、甲斐甲斐しく俺の額のタオルを替え、冷たい水を用意してくれる。だが、俺がはっきりと意識を取り戻そうとすると、彼女はまるで見えない風に溶けるように、音もなく部屋を去ってしまうのだ。
感謝の言葉を伝えようにも、彼女は俺の手の届かない場所にいた。
その頃、スターはルナとレオを伴い、血眼になって街を駆け回っていた。
アースが命を落とした現場に残された、不自然な火災の跡。そして、現場付近で目撃された、ある貴族の家紋をつけた私兵たち。
「ルナ、レオ。間違いない、あのアホ面をした子爵だ。あいつがアースの食糧庫を焼き、孤立させた黒幕だ」
スターの瞳には、かつてないほど激しい怒りの炎が宿っていた。ルナとレオも、スターの殺気立った様子に不安を覚えながらも、親友を殺された怒りは同じだった。真実を暴くための調査は、着実に「敵」の喉元へと迫っていた。
数日が過ぎ、ようやくふらつく足取りで起き上がれるようになった俺は、鈍った体を動かそうと教会の裏庭へ出た。
春の風が頬を撫でる。ふと足元を見ると、名もなき小さな紫色の花が、懸命に首を持ち上げて咲いていた。
(あの人に……次こそはお礼を伝えよう)
そう思い、不器用な手つきでその花を摘んだ時だった。
「――っ!」
背後に気配を感じて振り返ると、至近距離に彼女が立っていた。
陽光を透かし、宝石のように輝く長い金髪。そして、こちらの心を見透かすような、静謐な瞳。あまりの近さに、俺は心臓が跳ね上がるほど驚き、思わずたじろぐ。
「あ、あの! 看病、ありがとうございました。これ、お礼に……。……あの、君の名前を聞いてもいいかな?」
摘んだばかりの花を差し出そうとした俺の手を、彼女は無言で、しかし確かな意志を持って押し留めた。
代わりに、彼女は懐から一冊の使い古された「手記」を取り出すと、それを俺の胸元に強く、まるで託すように押し付けてきた。
「……これは、アースの?」
俺が問いかけた瞬間には、彼女はすでに一歩後ろに下がっていた。
「待ってくれ!」
伸ばした手は空を切り、金髪の残像だけを残して、彼女は忽然と姿を消した。
手の中に残された手記は、アースの体温がまだ残っているかのように温かく、そして重かった。表紙をなで、震える手で中をめくる。そこには、彼が調査した貴族たちの不正の数々と、そして最後のページに、殴り書きのような筆致でこう記されていた。
『願わくば、ソノゴ王国に真の平和を。民が怯えることなく、笑って暮らせる日々を――』
自分の命が奪われようとしているその瞬間まで、アースは自分を嵌めた連中への呪いではなく、この国の未来を案じていたのだ。
「スターを止めなきゃ、あいつ、取り返しのつかないことをしちまう!」
俺は痛む体を無理やり動かし、手記を握りしめて、スターが向かったはずの貴族街へと走り出した。
館の広間では、すでにスターが剣を抜き、震え上がる子爵を壁際まで追い詰めていた。
「お前か……お前がアースを陥れ、あいつの信念を嘲笑ったんだな!」
「ひ、ひいぃっ! 証拠があるのか! 無礼者め、近寄るな!」
「証拠なら、お前の私兵どもが持っていたさ。……アースの命、その汚い首で償わせてやる!」
スターの剣が、憎しみを乗せて振り下ろされようとしたその瞬間、俺は二人の間に割って入った。
「待て、スター! やめるんだ!」
「どけ、イチカラ! こいつはアースを殺したも同然なんだぞ!」
「これを読め! アースの『本当の願い』が書いてあるんだ!」
俺が突き出した手記を、スターは忌々しげに、しかし吸い寄せられるように奪い取った。
ページを捲るスターの手が、次第に震え始める。アースが最期に遺した言葉。それは、復讐の連鎖を断ち切る、あまりにも純粋な祈りだった。
「アースは……」俺は声を絞り出した。「最期まで、この国の平和を願ってたんだ。お前がその手を血で汚して、新たな火種になることなんて、あいつは望んでない!」
スターの剣が、カタカタと音を立てて床に落ちた。
「……アース。お前は、どこまでお人好しなんだよ……。これじゃ、俺が怒る場所さえねえじゃねえか……」
スターは天を仰ぎ、溢れそうになる何かを堪えるように強く目を閉じた。
長い沈黙の後、彼は静かに落ちた剣を拾い、鞘に収めた。
「……アース。お前の理想は、俺が叶えてやる。お前が愛したこの国を、こんなクズどもに二度と汚させはしない」
後日。王国の広場には、入り切れないほどの民衆が集まっていた。
壇上に引きずり出された貴族たちは、かつての威厳を失い、惨めに泥にまみれている。アースの手記に克明に記されていた「不正の記録」は、言い逃れのできない証拠として突きつけられた。
だが、真の衝撃はそこからだった。
イチカラが手記の後半に記された「最悪の真実」を読み上げ、捕らえられた私兵たちが次々と重い口を開いた。
「……信じがたいことだが、この者たちは私利私欲のために、魔王と取引を行っていた」
その言葉が放たれた瞬間、広場は凍りついたような静寂に包まれ、直後、地響きのような怒号が沸き起こった。
自らの領地を、民を、そして共に戦うはずの騎士アースを、あろうことか魔族に売り渡そうとしていたのだ。アースが最期まで守ろうとした食糧庫を焼いたのも、魔王との契約の一環に過ぎなかった。
「魔王の手先め!」
「アース様を返せ!」
民衆から投げつけられる罵声と石ころを浴びながら、貴族たちは顔を青白くさせて震えることしかできない。
彼らに下されたのは、一瞬の苦痛で終わる死刑ではなかった。
冷たく、光の届かない牢獄での、禁錮刑。
人類を裏切り、魔王に魂を売ってまで手に入れようとした権力。それが霧散し、自分たちが虫ケラのように蔑んでいた民たちが、アースの願った「平和」を築き上げ、幸福になっていく。その光景を、檻の中から何もできずに永遠に眺め続ける。
それこそが、誇り高き騎士アースの遺志を継いだ俺たちが選んだ、最も重く、そして残酷な報いだった。




