第16話 絶望の旅路、蝕まれる魂
旧魔王城での激闘、および精霊・曼知漢の自己犠牲。あまりにも多くのものを失い、手に入れたソノヨン王国の静寂の中で、スター、ルナ、レオ、およびイチカラの四人は、重苦しい話し合いの席についていた。
「……曼知漢の犠牲を無駄にはできない。僕たちはこれより、魔王の根城を目指す」
スターが地図を広げ、一点を指差す。
「魔王城は『ソノゴ王国』の至近にある。……幸いなことに、そこには僕の士官学校時代の同期であり、親友のアースという男が守護勇者として駐屯しているはずだ。アースと共に戦えば、魔王城の強固な結界を突破することも決して夢ではない。彼は、僕が背中を預けられる数少ない男だ」
翌朝。旅立ちの刻、城門の前には、療養中のエリザ教官と、一行の装備を整えたサリナが立っていた。
「……イチカラ。死ぬんじゃないわよ。あんたにはまだ、教え足りないことが山ほどあるんだから」
「わかってますよ、教官……」
イチカラが力なく答える。その視線は、サリナの姿を追っていた。せめて最後くらい、自分にだけ優しい言葉を――そう願った瞬間、世界がスローモーションになった。
「スター……。どうか、ご無事で」
サリナが、祈るようにスターの手を取った。そして、二人の唇が自然と重なる。兵士たちの歓声と、朝日に照らされた美しい「旅立ちのキス」。
イチカラの心臓が、バキリと音を立てて砕け散った。
(……なんだよ、それ。僕が死ぬ気で戦ってる横で、結局それかよ……!)
嫉妬と羨望、および惨めさがドロドロと混ざり合い、イチカラの胃の底を焼く。
一行がソノゴ王国へと続く魔境へ足を踏み入れた瞬間、空気の色が変わった。
視界を遮るのは、どす黒い紫色に変色した魔王の瘴気。濃霧のように立ち込めるそれは、ただの霧ではない。生物の精神を内側から腐らせる、魔の毒そのものだった。
進めば進むほど、瘴気は濃密さを増していく。
「……っ、息が、苦しい……!」
レオが首筋のアザを光らせ、魔力を循環させる。ルナもまた、胸元のアザから発せられる聖なる波動で自分自身を保護していた。
「しっかりしろ、三人とも。アザが放つ聖なる魔力こそが、この瘴気から精神を守る唯一の盾だ」
だが――。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
イチカラの呼吸は、すでに限界を迎えていた。
彼の背中のアザは、依然として不完全な「ただのアザ」のまま。聖なる守護など、一ミリも発動していない。肺に流れ込む冷たい瘴気が、血管を通り、イチカラの脳を直接汚染していく。
(……痛い。苦しい。……なんで、僕だけ。サリナさんも、スターも、みんな消えてしまえばいい……!)
意識の混濁と共に、抑え込んでいた負の感情が爆発的に膨れ上がる。
「イチカラッ!!」
ルナが駆け寄ろうとしたが、時すでに遅かった。イチカラの瞳から光が完全に消え、口からよだれを垂らし、白目を剥いたまま、彼は紫色の泥濘の中に崩れ落ちた。
(……冷たい。暗い。誰か、助けてくれ……)
肺を焼くような苦しみの中で、イチカラの意識は深く、暗い淵へと沈んでいた。どれほどの時間が経っただろうか。不意に、柔らかな光が瞼を透かして届いた。
(……生きてる……のか、僕?)
ゆっくりと目を開けると、そこは厳かさと静謐さに満ちた教会のベッドの上だった。
「……あ……」
ふと横を見ると、一人の女性が立っていた。
透き通るような肌、慈愛に満ちた瞳。白を基調とした清廉な法衣に身を包んだ、この世のものとは思えないほど綺麗な聖女だった。
「あの……ここは……。あなたは……?」
イチカラが掠れた声で問いかけ、その指先に触れようと手を伸ばした。だが、彼女は答える代わりに、ただ悲しげに、あるいは慈しむように微かに微笑むと、音もなく背を向け、教会の奥へと消えてしまった。
「あ、待って……!」
追いかけようとしたところで、扉が勢いよく開いた。
「イチカラ! やっと目が覚めたのね!」
現れたのはルナとレオだった。彼らから聞いた話では、瘴気の中で意識を失ったイチカラを、スターがその背中に背負い、不眠不休でこのソノゴ王国の教会まで運び込んだのだという。
「……そうか。スターが……」
嫉妬に狂っていた自分の矮小さを恥じ、イチカラはせめて一言、礼を言わなければならないと思った。
ふらつく足取りでベッドから立ち上がり、教会の中庭へと向かう。
「スター……。あの、ありがとう……。僕を助けてくれて――」
教会の裏手、夕日に照らされた墓地を見下ろす高台に、その背中があった。だが、声をかけようとしたイチカラの言葉は、喉の奥で凍りついた。
スターは、新しく作られたばかりの一つの墓の前に、彫像のように立ち尽くしていた。その墓石には、スターが「彼がいれば魔王城突破も夢ではない」とまで言い切った親友の名が刻まれていた。
【勇者アース、ここに眠る】
「……嘘、だろ……」
イチカラの足が震えた。
自分を背負って命懸けで瘴気を抜けてきたスター。その彼を待っていたのは、希望の援軍ではなく、親友の冷たい墓標だった。アースを失い、親友と共に戦う夢を砕かれたスター。そして、親友の死に際してさえ、意識を失った自分という足手まといを背負い続けていた彼の絶望は、どれほどのものであったか。
魔王城へ至るための最後の希望は、戦う前にすでに潰えていた。
イチカラは伸ばしかけた手を静かに下ろし、ただ沈黙の中に立ち尽くすことしかできなかった。




