第15話 魔王の誘惑、精霊の遺志
霧の向こうから現れた漆黒の影――魔王アスタロトの思念体が、形をなさぬまま高らかに笑った。
その存在感だけで、森の木々は一瞬にして枯れ果て、空気は鉛のように重く淀んでいく。
「……勇者とは、他人のために己を殺す家畜の呼び名だ。だが魔王とは、己の欲を世界の法とする者の名だ。イチカラ、お前はどちらだ?」
アスタロトの冷たい声が、直接イチカラの脳内に響く。
地面に突っ伏したままのイチカラは、覚醒したレオとルナの眩い光を直視できずにいた。首筋に、胸元に、正当な逆三角形を宿した二人。それに引き換え、自分は精霊にすら見放された「ただの欲深い無能」だ。
「お前は『正義』などという窮屈な器には収まりきらぬ。その底なしの欲望……私がすべて肯定してやろう。魔王になれば、この世の女を、お前が望むすべてを力ずくで、誰にも邪魔されずに手に入れられるのだぞ」
「……この世の、すべての女……」
イチカラの瞳から光が消え、どろりとした赤黒い色が混ざり始める。
(そうだ。勇者なんて柄じゃない。魔王になれば……誰にも邪魔されず、やりたい放題できる。誰も僕をバカにできない、僕だけの楽園が……!)
「いけない! イチカラ、耳を貸すなッ!」
曼知漢が短い足を震わせながら叫び、魔王の影へ突撃する。だが、アスタロトは一瞥するだけで、精霊の結界を紙屑のように引き裂いた。
「黙れ、下等な精霊風情が。私はこの『宝石』を磨きに来たのだ」
イチカラの手が、ゆっくりと魔王の影へと伸びる。
その時だった。
「――いい加減にしなさいよ、このバカッ!!」
鋭い破裂音と共に、イチカラの頬に激しい衝撃が走った。
ルナのビンタだった。胸元に逆三角形のアザを輝かせた彼女は、肩で息をしながら、怒りと悲しみが混ざった瞳でイチカラを睨みつけていた。
「何が魔王よ! 何が手に入れるよ! あんた、そんな力ずくの支配で満足なわけ!? そんなの、あんたが大嫌いな魔王軍の連中と同じじゃない!!」
「ル、ルナ……」
「あんたは最低で、無能で、下品で、救いようのないスケベよ。でも……私たちが認めた『勇者』でしょ! 私たちの仲間でしょ!!」
ルナの叫びが、イチカラの澱んだ脳髄を叩き割った。
たとえ下劣な欲望であっても、それは自分の意志で追い求めるからこそ価値がある。他人に与えられた力で、人形のような女を囲って何が楽しいというのか。
「……っ、ああ……。そうだよな。無理やりなんて、僕の美学(煩悩)に反する……!」
イチカラの瞳から赤黒い色が消え、元の情けない、だが真っ直ぐな光が戻った。
「……アスタロト。アンタの誘いは魅力的だけど……僕は、僕自身のやり方で世界を謳歌するって決めたんだ! 勇者として、アンタをぶっ飛ばしてな!!」
「……くくく、交渉決裂か。ならば、ここで塵となれ」
魔王の影が膨れ上がり、死の奔流が一行を飲み込もうとしたその瞬間。
「……案ずるな、若き勇者たちよ。お前たちの信念、確かに見届けた」
曼知漢が、三人の前に立ちはだかった。その小さな体が、見たこともないほどの白銀の光に包まれていく。
「曼知漢様!? 何を――」
「精霊の命とは、次代へ希望を繋ぐためのもの。……イチカラよ。お前には信念はないが、誰にも負けぬ『執着』がある。それを最後まで貫け」
「曼知漢、よせッ!!」
スターの制止も届かない。曼知漢は自らの生命エネルギーのすべてを爆発させ、魔王の思念体へと特攻した。
「精霊奥義――天命崩壊ッ!!」
まばゆい閃光が森を白く染め上げ、アスタロトの影を霧散させていく。
光が収まった後、そこには魔王の姿も、そして愛くるしい猫精霊の姿もなかった。ただ、一房の柔らかな猫の毛だけが、イチカラの手に舞い落ちた。
「……曼知漢……」
イチカラがその毛を握りしめる。
ルナとレオも、沈痛な面持ちで黙祷を捧げた。
スターが静かに、だが鋼のような決意を込めて口を開いた。
「……決まりだな。僕たちの目標は、ただ一つ。曼知漢の命を奪い、この世界を恐怖に陥れる元凶――魔王アスタロトを討つことだ」
イチカラは、自分の背中をなぞった。アザはまだ不完全なままだ。
だが、その内側には、精霊から託された重みと、魔王への激しい憤りが、新たな熱となって宿っていた。
打倒、魔王アスタロト。
最終決戦はこれから始まる。




