第7話「魔物が来たとき、俺だけ逃げなかった」
お読みいただきありがとうございます。ゴブリン上位体が村に現れた夜。村人が逃げていく中で、ナオは別の選択をしました。
来たのは、夜明け前だった。
ナオが目を覚ましたのは、音を聞いたからだった。遠くで鶏が鳴いた。夜中の鳴き声は異常の合図だと、この村に来てから覚えていた。布団から出て、窓から外を見た。暗い。月は雲に隠れている。ただ、南側の方向で何かが動いている気配があった。草が揺れている。風ではない動き方だった。
農具を取りに納屋へ向かった。
迷いはなかった。あるとすれば、農具で実際に戦ったことが一度もないという事実だけだった。ただ、それを理由に動かないのは違う、とナオは思っていた。前の世界でも「やったことがないから」を理由に動かなかった。その結果として何も残らなかった。今回は違う動き方をする、と決めていた。
長柄の農具を手に取った。柄の長さは一メートル半ほど。先端が平たくなっている鋤だった。訓練で一番使い慣れていた。重さの感覚は体に入っている。
村の南側に向かった。
夜の空気は冷たかった。足音を立てないように歩いた。草を踏む感触、土の柔らかさ、風の向き。前の世界では気にしたことのなかったものが、この世界では情報になった。
南の草むらに近づくにつれて、臭いが変わった。獣の臭いに似ているが、腐った何かが混じっている。魔物の臭いだと、すぐにわかった。二週間、この臭いを追い続けていた。
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最初に見えたのは、三つの影だった。
人間より低く、横幅が広い。動き方が獣に近い。ゴブリン——村の大人たちがよく話していた魔物の中で、最も頻繁に出没すると言われていた種類だ。ただし今回は上位体らしかった。通常のゴブリンより一回り大きく、知能も高い。三匹が緩やかな三角形を作るように動いていた。群れの行動原理を知っている動き方だった。
村の入り口まで百メートルほどの距離だった。
悲鳴が聞こえた。見張り番の老人が逃げていく。その声で村が起きた。家々に灯りがついて、声が飛び交う。「魔物だ」「逃げろ」「戸を閉めろ」——あっという間に、通りから人が消えた。クルトの名前も聞こえた気がした。彼も家の中に入ったのだろう。
ナオは通りに残っていた。
特に決意したわけではなかった。逃げようと思った瞬間には、農具を手に持っていた。気づいたら、立っていた。なぜ逃げなかったのかと聞かれれば、答えに困る。恐怖がなかったわけではない。足が震えていたのは自分でわかった。ただ、逃げるより先に体が向いた方向が、そちらではなかった。
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三匹はゆっくりと近づいてきた。
ナオを見て、一瞬止まった。ためらいがある。人間がこんなところに一人で立っているのが想定外なのだろうか。それとも武器を持っているのを警戒しているのか。
ナオは動かなかった。こちらから仕掛けるつもりはなかった。相手の動き出しのクセを見てから動いた方が確率が上がる。相手の動きを観察した。三角形の頂点にいる一匹の体重の乗り方、左右の二匹の足の構え方。三匹がいつ動くか。どれが先に来るか。
頭の中が静かだった。焦りがない。前の世界の自分には想像できない感覚だった。
頂点の一匹が来た。
正面から突っ込んでくる。速い。ただ、その軌道が読めた。体の軸が右に傾いている。踏み込む足は左。着地の瞬間に体重が前にかかる——そのコンマ数秒を待った。
農具の柄で横から払った。タイミングが合った。衝撃が腕に来た。思ったより重い。ただ、効いた。一匹目がよろけた。追い打ちはしなかった。追い打ちをしている間に、別の二匹に挟まれる。ナオはすぐに間合いを取り直した。息を整えた。焦らない。次を見る。
左の一匹が横から来た。
体が低い。地面すれすれに滑るような動き方だった。ナオは体を回して避けた。完全には避けきれなかった。右腕を引っかかれた。衣服が破れて、熱い感触がある。深くはない、と判断した。止まっている場合ではなかった。
間合いを取り直して、その一匹の次の動きを待った。
また同じ軌道で来た。この動き方しかできないのか、それとも急所が頭にあって低く突っ込まざるを得ないのか——考えながら、ナオはすでに農具を先に出していた。その一匹が農具の先端に正面から突っ込んで止まった。倒れた。動かなくなった。
残り二匹。
頂点にいた一匹はまだよろけている。問題は右にいた三匹目だった。こいつがじっとしたまま動かない。距離を置いて、こちらを見ている。
賢い、とナオは思った。二匹が倒れたのを見て、状況を測っている。知能が高いという話は本当だった。
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三匹目はじっとしていた。ナオもじっとしていた。
よろけていた一匹が立ち直りかけていた。このまま二対一になったら厄介だ、とナオは計算した。三匹目に先に動いてもらう必要がある。
わずかに重心を左に移した。誘いだった。
三匹目が反応した。低姿勢のまま横に回り込もうとした——その瞬間、ナオは逆に正面から踏み込んだ。読んでいた軌道を追うのではなく、先に位置を取りに行った。三匹目の動きが止まった。一瞬の停止——その間に農具の柄で首を打った。三匹目が倒れた。
よろけていた一匹が向き直った瞬間、ナオはそちらに向かった。向き直りの動きは大きく、体の軸がぶれる。その隙に踏み込んで、同じように柄を打った。倒れた。立ち上がろうとして、また倒れた。動かなくなった。
静かになった。
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ナオは立ったまま、自分の手を見た。
震えていた。
腕の傷から血が出ている。足が少し笑っている。息が荒い。戦っている間は気にならなかったが、終わったら一気に来た。心臓の音が耳に聞こえる。全身が熱い。手のひらの震えが、止まらない。
こういう感触が人間にはあるのか、と思った。前の世界では経験したことのない感覚だった。怖かったのか、興奮していたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、生きている感じが、確かにあった。
「……勝った」
声に出した。自分でも確認が必要だった。
恐る恐る家の戸が開いた。村人が数人、顔を出した。通りに横たわる影を見て、また閉まった。別の戸が開いた。また閉まった。
しばらくして、クルトが出てきた。顔が青い。
「ナオ……お前、何やってんの」
「来たから、対処した」
「……お前一人で」
「他に誰もいなかったから」
クルトは答えなかった。倒れている魔物を見て、ナオを見て、また魔物を見た。目が、現実についてこれていない顔だった。
村人が少しずつ出てきた。老人が一人、それを見て「なんじゃこりゃ」と言った。主婦らしい女が口を押さえた。子どもが一人、そろそろと近づいてきて、倒れたゴブリンの足を棒でつついた。
「こいつが倒したのか」と誰かが言った。
「魔力ゼロの子だろう」と別の声がした。
ざわざわと話し声が広がった。ナオはその中心に立ったまま、腕の傷に手を当てた。血は止まりかけていた。
視界の右上を確認した。
0.00%。
変わっていなかった。そうか、まだこれだけでは足りないのか。ナオは少し考えた。「逃げなかった」だけでは足りない。「命令でも義務でもなく、俺が選んで動いた」という実感まで、まだ届いていない。今夜は「気づいたら動いていた」だった。決意して動いたとは少し違う。気がついたら手に農具を持って立っていた。それが自分の選択と言えるかどうか、判断が難しかった。
ただ、今夜のことは悪くなかった。そう思った。
戦っている間、余計なことを考えていなかった。前の世界では、何かを始める前にまず「これをして何になるか」という問いが来ていた。その問いが来なかった。来る前に体が動いていた。それが今夜の一番の収穫かもしれない、とナオは思った。
空が白み始めていた。村の南側に、朝の光が差してくる。鶏が、今度は普通に鳴いた。
次話:第8話「魔力ゼロのくせに、なんで強いんだ」
翌日、副領主の息子・レスがナオを呼びつけます。




