第50話「99.5%で、眠った」
お読みいただきありがとうございます。六十五歳の秋のライブが、最後になりました。その後——白い空間で、ルキアが酒を二つ並べていました。「99.50%ね」。第三転生・最後の反省会の話です。ルキアが初めて「……惜しかったわね」と言いました。
直樹が六十三歳になった冬のライブで、一つ決めたことがあった。
来月も弾く。再来月も弾く。弾けるかぎり続ける。それだけのことで、特別な「最後のライブ」にするつもりはなかった。ただその夜の帰り道、河合が「そろそろ俺も引き継ぎの話をしないといけないな」と言った。「まだ動けるが、もういつ倒れてもおかしくない歳だ」と河合は言った。直樹は「そうですね」と言った。「引き継いだ後も、ここで弾いてくれるか」と河合は聞いた。「弾きます」と直樹は言った。「そうか」と河合は言って、カウンターを磨き続けた。
翌春、河合が倒れた。
入院した。ライブハウスは河合の甥が引き継いだ。甥は三十代で、音楽の仕事をしていた。最初に挨拶しに来たとき「おじから話は聞いています。引き続きよろしくお願いします」と言った。直樹は「こちらこそ」と言った。甥が「おじが「あの人は続けるから、場所だけ用意してやれ」と言っていた」と伝えてくれた。直樹は少し間を置いた。「わかりました」と言った。
河合は三ヶ月後に退院した。車椅子になっていた。一度ライブハウスに来た。カウンターには座れなくなっていた。甥が用意した席から客席を見た。「悪くないな」と河合は言った。「お前が弾いているのを見られてよかった」と言った。
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直樹が六十五歳になった年の秋、体が本格的に動かなくなり始めた。
指の関節が、以前より確実に動きにくくなっていた。ライブの前にウォームアップに時間がかかるようになっていた。それでも弾いた。音が変わっていた。若いときのような滑らかさはなかった。ただ、弾き続けてきた時間が音に入っていた。三十七年分の時間が、指が動かなくてもそこにあった。あの子どもにそう言ったら「それがいい」と言われた。
その秋のライブが、最後になった。
体の調子は悪くなかった。次もある、と思っていた。ただ翌月、突然倒れた。病院に運ばれた。しばらくして、医者が静かな顔で何かを話しているのが見えた。直樹に身内はいなかった。代わりに三田が来ていた。三田が「そうか」と言った。それだけで、何となくわかった。
病室のベッドで、視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。
〇・五パーセントは、この転生では来なかった。
それでいい、と思った。来なかったことを悔やむ気持ちは、思ったより少なかった。三十七年弾き続けた。あの子どもが泣いた夜があった。公聴会で弾いた日があった。廃案になった夜に一人で弾いた夜があった。河合が「悪くないな」と言った最後の夜があった。全部、確かにあった。
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三田が病室に来た最後の夜、「よくやった」と言った。「続けたな」と言った。直樹は「続けました」と言った。「それだけで十分だ」と三田は言った。帰り際に三田が振り返って「お前のギターをもう一度聴きたかった」と言った。直樹は「俺も弾きたかった」と言った。三田が笑った。それが最後だった。
夜になった。病室が静かだった。
目を閉じた。視界の右上が薄くなっていった。99.50%という数字が、だんだん遠くなった。
ゲージの数字が消える前に、ルキアの声が来た。
「……見てるわよ」
それだけだった。直樹は答えなかった。答える力が、もうなかった。ただ声は聞こえた。聞こえた、ということがわかった。
前の転生のときも、最後の夜があった。師とカールを逃がして、倒れた夜があった。そのときも誰かの声が聞こえた気がした。今回も同じだった。
意識が薄くなっていった。
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気づくと、真っ白な空間にいた。
正面に机があった。机の上に酒が二つ置かれていた。ルキアが向かいに座っていた。外見は変わらない。いつもの顔だった。ただ今夜は少し、顔つきが違った。
「また来たわね」とルキアは言った。
「また来た」と直樹は言った。「三度目だ」
「99.50%ね」
「足りなかった」
少し間があった。ルキアが酒を置いた。前の二回の反省会よりも、静かな時間があった。
「今回の転生の話をしましょう」とルキアは言った。
ダイジェストが流れた。最初の音が出なかったライブの夜。子どもが泣いた夜。公聴会で弾いた日。廃案になった夜に一人でライブハウスへ行って弾いた夜。子どもが笑いながら弦を鳴らした夜。橋の上で川を見ていた午後。三田に「続けた」と言った夜。河合が「悪くないな」と言った最後の夜。
全部、確かにあった。
「よかったと思う」と直樹は言った。「〇・五パーセントは来なかったが、弾き続けた。それだけは間違いない」
ルキアが少し間を置いた。
「……惜しかったわね」
声が静かだった。今まで聞いたことのない声だった。罵声でも評価でも採点でもなかった。ただそれだけが、そこにあった。
直樹はルキアを見た。ルキアが視線を外した。外してから、また戻してきた。
「それは初めて言ったな」と直樹は言った。
「……そうね」とルキアは言った。
「惜しかった、か」
「そうよ。惜しかった。今回は本当に惜しかった」
「俺も惜しかった。〇・五が何かは最後までわからなかった。ただ……薄々は、わかっていた」
ルキアが動かなかった。
「言うか」とルキアは聞いた。声が少し変わっていた。
「言わない」と直樹は言った。「言ったとしても、今回の転生ではもう動かない。来世に持ち越しだ」
「……そうね」とルキアは言った。酒を少し飲んだ。
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しばらく二人とも黙った。白い空間に酒の音だけがあった。前の二回の反省会よりも、沈黙が長かった。ただその沈黙は、居心地が悪くはなかった。
「ルキア」と直樹は言った。
「なに」
「次はあるか」
「……ある」とルキアは言った。少し間を置いてから「最後の転生よ」と言った。
「最後の」
「そう。ただし、あなたが言うとおりにしなければ最後にならないかもしれない」
「どういう意味だ」
「最後かどうかは、あなた次第ということよ」とルキアは言った。
「次は何だ」
ルキアが一瞬だけ間を置いた。その間は、いつもよりほんの少し長かった。
「また現代の日本よ」とルキアは言った。「普通の人生を生きなさい。それだけ」
「普通の人生」
「そう。特別なことはない。ただ生きる」
「……それで〇・五パーセントが来るのか」
「来るかもしれない。来ないかもしれない」とルキアは言った。「私が言えるのはそこまで」
直樹は酒を飲んだ。三回分の転生の記憶が頭の中にあった。農村の朝も、京都の夜も、東京のライブハウスも、全部あった。それを持って、また次へ行く。
「ルキア」
「なに」
「次の転生でも、見ていてくれるか」
長い沈黙があった。今まで聞いたことがないくらい長かった。ルキアが酒を持ったまま、何も言わなかった。
「……見てる」とルキアは言った。「いつも見てると、言ったでしょう」
「わかった」と直樹は言った。「それだけ確認できれば十分だ」
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視界が光に包まれ始めた。白い空間が少しずつ明るくなっていった。直樹は立ち上がった。
振り返らなかった。ルキアが何かを言おうとしている気配を感じた。言えない何かが、そこにある気がした。三回の転生を通じて、ずっとそこにあった何かが。
光が広がった。
ルキアが、小さく何か言った。直樹には聞こえなかった。
聞こえなくても、わかった気がした。
光の中に入った。
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真っ白な空間に、ルキアが一人残った。
酒が二つ、机の上にあった。直樹の分が少し残っていた。
ルキアはしばらくその酒を見ていた。
「惜しかった」とルキアは、今度は誰もいない空間で言った。「でも、次で終わる。そういうことにしてある」
それだけ言って、酒を飲んだ。
満足度ゲージは次の転生で引き継がれる。99.50%のまま、また始まる。〇・五パーセントがどこにあるかは、わかっていた。ただそれを言えない理由も、わかっていた。
ルキアはしばらくそこにいた。
第四章「第三転生:人間の創作を守れ」完結です。お読みいただきありがとうございました。〇・五パーセントの答えは、次の転生まで持ち越しになりました。次話からいよいよ最終章「最終転生・女神と人間の間で」が始まります。ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




