第51話「最後の転生先は、普通の日本だった」
お読みいただきありがとうございます。反省会を終えた直人が、四度目の転生先で目を覚ましました。現代の日本——ゲージは99.50%のまま。そして今回は、脳内にルキアの声が来ない。三回の転生を貫いて必ずあった声が、初めてない。その静けさの話です。
気づくと、天井が見えた。
白い天井だった。見知らぬ部屋の天井だった。どこにいるかはすぐにわかった。三回の転生を経験していれば、この感覚には慣れていた。
腕を持ち上げた。若い腕だった。二十代の半ばに見えた。指を一本ずつ動かした。第三転生でギターを三十七年弾き続けた指の記憶は頭にあるが、今の指にその重みはない。新しい体だった。前の感覚が体に戻るまでに時間がかかることは、転生を繰り返してきたのでわかっていた。
視界の右上を確認した。
【満足度ゲージ:99.50%】
変わらない。三回の転生が終わり、反省会が終わり、光に包まれて、またここにいる。〇・五パーセント足りないまま、四度目の人生が始まった。
起き上がって、窓の外を見た。
現代の日本だった。高い建物が並んでいて、道に人が歩いていた。車も走っていた。第三転生で生きた二一四〇年代から、何十年か後の世界に見えた。極端に変わってはいなかった。人が歩いていた。街に声があった。どこかの建物から音楽が聞こえた気がした。人間の声が入った音楽だった。
前の転生で戦った「人間創作規制法案」がその後どうなったか、まだわからない。ただ外から聞こえた音楽に人間の声があったということは、完全には潰れていなかった証拠だ、と思った。三十七年弾き続けた男と、その仲間たちが動いたことが、何かを残したのかもしれなかった。
部屋を見回した。一人部屋だった。質素だった。ベッドと机と棚があった。スマートフォンが机の上にあった。財布が棚にかかっていた。書類が何枚か机に置いてあった。仕事の書類に見えた。
「普通の人生を生きなさい。それだけ」というルキアの言葉を思い出した。
脳内に声は来なかった。
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三回の転生を通じて、ルキアの声は必ずあった。転生直後に罵声が来ることが多かった。体が言うことを聞かないときに怒鳴られた。第一転生のカセン村で水瓶を持って転んだとき、「なんで体が動かないのよ」という声が来た。第二転生の京都で道場に行こうとして迷ったとき、「考えすぎてどうするの」という声が来た。第三転生の最初のライブで音が出なかったとき、「それで終わりにするの」という声が来た。慢心したときにゲージを下げられた。眠れない夜に話しかけてきた。「いつも見てる」という言葉が何度も来た。
その声が、ない。
脳内が静かだった。窓の外の街の音だけがある。
ルキアが人間として生まれているなら、脳内に声を送る力はない。女神としての記憶もない。それはわかっていた。わかっていたが、声がないというのは、思っていたより静かだった。
最後の反省会のとき、ルキアが「見てる」と言った。「いつも見てると、言ったでしょう」と言った。そのときの声の温度を、まだ覚えていた。あの声が来ることが、もうない。この転生では、脳内から声は来ない。来るはずがなかった。
窓を開けた。朝の空気が入ってきた。自転車が一台下の道を通り過ぎた。どこかで鳥が鳴いた。
「どこかにいる」と直人は思った。
今この世界で、人間として生きているはずだった。この街にいるかもしれないし、まったく別の場所にいるかもしれない。名前も顔も今はわからない。ただそこにいるということだけは、わかっていた。
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スマートフォンを確認した。同僚からのメッセージが二通入っていた。「明日の書類、確認しておいてもらえると助かります」という内容だった。仕事があるらしかった。静かで細かい仕事のようだった。
この転生での名前は、直人だった。
最初の転生でゼロ地点だった男と、同じ名前だった。そのことに気づいて、少し間を置いた。偶然かもしれない。ルキアが意図的にそうしたのかもしれない。どちらかはわからなかった。ただ、三回の転生を通じて、名前は常に「直」の字を持っていた。ナオ、直之介、直樹、そして直人。そこに意味があるのかどうかも、わからなかった。
「普通の人生」というのが、こういうものらしかった。
倒すべき敵もなく、守るべき誰かもなく、変えるべき法案もない。仕事に行って、食べて、眠る。そういう日々が続く転生が今回だった。第一転生は農民として始まり、何かに引き寄せられるように動いた。第二転生は書生として始まり、京都の不穏な空気の中で戦いに巻き込まれた。第三転生は売れないミュージシャンとして始まり、規制法案という明確な目標があった。今回は目標がない。ただ生きる。
「〇・五パーセントが来るとすれば、この転生のどこかにある」と直人は思った。「来ないかもしれない、とも言われた。どちらにしても、始めるしかない」
立ち上がった。財布と鍵を取った。ドアを開けた。
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仕事場は、アパートから電車で二十分のビルの中にあった。
フロアに入ったとき、先に来ていた同僚が「おはようございます」と言った。直人も「おはようございます」と返した。それだけのやり取りが、不思議と自然だった。前の転生でも最初の職場の朝があった。第三転生でライブハウスに初めて行った夜があった。何かが始まる最初の日は、いつも想像と少し違う静けさがある。
デスクに座った。書類の束が置いてあった。確認して記録する、という作業が一日分あった。やることが見えていた。やることが見えていると、体は動く。前の最初の転生のゼロ地点では、やることが何もなくて体が動かなかった。今は違った。
昼休みに、同僚の一人が「新しく来た人ですよね」と声をかけてきた。三十代くらいの女性だった。「中村です」と直人は言った。「田中です。よろしくお願いします」と相手は言った。「こちらこそ」と直人は言った。それだけだった。「慣れましたか」と田中は聞いた。「慣れてきました」と直人は答えた。「最初は量が多く感じますよね。でもすぐ慣れます」と田中は言った。「そうですね」と直人は言った。会話が終わった。
その会話を、帰り道に少し思い出した。目的がない会話だった。仕事に直接関係なかった。前の最初の転生では、そういう会話を切り捨てていた。今は、悪くないと思っていた。
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コンビニで朝食を買った。外のベンチに座って食べながら、街を見た。
人が歩いていた。誰かが笑いながら電話をしていた。子どもが親の手を引っ張っていた。どこかのビルの外壁に広告が映っていた。演奏家の名前が出ていた。人間の演奏家だった。前の転生で書いた話が、遠い時代の後にこの世界まで続いていた。そういうことが、街の中に見えた。
第三転生の記憶が頭にあった。河合のライブハウスの音があった。あの子どもが泣いた夜の音があった。公聴会で弾いた日の空気があった。三田が「続けた」と言ってくれた夜があった。それを全部持ったまま、今ここにいた。
三回の転生で積み重ねてきたものが全部頭にある。それが今の体には何も入っていない。新しい体に記憶が戻るまで時間がかかることは、毎回経験していた。今回も同じだった。ただ今回は、何を積み上げるのかがまだわからない。
「ただ生きる」とルキアは言った。「それだけ」と言った。
パンを食べ終えた。空を見た。
どこかにいる人間のことを、少し考えた。今日も起きて、どこかで朝を過ごしているはずだった。その人は自分のことを知らない。三回の転生のことも、脳内で声を送り続けたことも、「惜しかった」と言ったあの夜のことも、何も知らない。
視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。
立ち上がった。仕事に行く時間になっていた。
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夕方、アパートに帰った。
窓を開けた。夕方の風が入ってきた。どこかから夕飯の匂いがした。向かいの部屋の窓に明かりがついていた。普通の夜が、外にあった。
机に向かった。ノートを一冊開いた。記録を残すことにした。特別な理由があったわけではなかった。ただ何かを書いておきたかった。前の転生では三田がそういうことを代わりに管理してくれていたが、今回は誰もいない。記録を残すのは自分だけだった。
一行書いた。
「四度目の転生。99.50%から始まる。声はまだない」
「まだ」という言葉を書いてから、少し考えた。消すかどうか迷った。消さなかった。今はまだでいい、と思った。
ノートを閉じた。窓の外に夜の街があった。どこかにいる人間が、今夜も眠っているはずだった。名前も場所もわからないが、そこにいた。三回の転生の記憶が全部頭の中にあって、それでも声だけはなかった。声がないことが、これほど静かだとは思っていなかった。
目を閉じた。
次話:第52話「普通に生きるということが、案外むずかしかった」
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