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第49話「時間が経つということ」

お読みいただきありがとうございます。五十七歳になりました。三田が引退し、長谷が地方へ移り、あの子どもは二十代になって別の場所でギターを弾いています。指が以前ほど動かなくなっても、弾くことは続く。そういう時間の積み重ねの話です。

直樹が五十七歳になった年の秋、三田が引退した。


 「もういい歳だ」と三田は言った。「お前がようやく自分で立てるようになったし、俺の仕事は終わった」。直樹は「そんなことはないです」と言った。三田は「そういうことにしておけ」と言った。引退の話をしている三田は、珍しく少し嬉しそうだった。「最後に一つ言っておく」と三田は言った。「お前が公聴会で弾いた日に、俺は正直「こいつはここまでやるのか」と思った。それだけだ」。直樹は「ありがとうございました」と言った。「礼はいい。続けろ」と三田は言って、それで終わった。


 その翌年、長谷が地方に移住した。東京を離れて書き続けると言った。「お前のことはたまに覚えてる。ライブのことも聞こえてくる。それでいい」と長谷は言った。「お互いそれぞれの場所で続けましょう」と直樹は言った。長谷が「そうだな」と言って電話が切れた。それが最後の声だった。


 あの子どもは二十代になっていた。


 今は別の場所でギターを弾いていた。人前で演奏するようになっていた。河合のライブハウスで一度演奏したこともあった。初めて弦を鳴らした夜から二十年近くが経っていた。たまに連絡が来た。「最初に弦を鳴らしたとき、直樹さんが支えてくれたのを覚えている」と書いてあった。「その一音から始まった気がしている」とも書いてあった。直樹は「続けてください」と返した。それだけだった。


 ある夜、その子が河合のライブハウスに来た。


 ライブの後、楽屋で直樹を待っていた。三年ぶりだった。背が高くなっていた。「直樹さん、まだ弾いてたんですね」と子どもは言った。「弾いてますよ」と直樹は言った。「俺も続けてます。なんか、弾かないと俺じゃなくなる気がして」と子どもは言った。


 直樹は少し笑った。「そうですね。そういうものです」


「直樹さんが昔そう言ったとき、意味がわからなかった」と子どもは言った。「でも今はわかる。弾いていると何かが積み重なっていく気がする。それがないと俺が空っぽになる気がする」


「そうです」と直樹は言った。「それがわかったなら、もう続けられる」


「ありがとうございます」と子どもは言った。直樹は「俺は何もしていないです」と言った。「してます」と子どもは言った。「最初に弦を支えてくれた。それだけで十分です」。


 その夜、子どもが弾く演奏を少し聴いた。二十年前に鳴らした高い一音が、今や曲になっていた。


---


 直樹のライブは変わらず続いていた。月一回、河合のライブハウスで弾いた。


 河合は六十代後半になっていた。カウンターに立つのは以前と変わらなかったが、仕込みをする時間が長くなった。「体が重い」と言うことが増えた。それでもグラスを磨く手は止まらなかった。直樹は「無理しないでください」と言った。河合は「無理してない。ただ重いだけだ」と言った。「俺が動かなくなったら、誰かに任せる。それまでは動く」と河合は言った。


 河合がカウンターを磨く音を聞きながら、直樹は思った。三回の転生を通じて「動ける間は動く」という人間が何人かいた。第一転生の師・ヴァンは最後まで農地を管理していた。第二転生の堂島玄斎は斬られるその夜まで診療所にいた。今回の転生では河合がそうだった。それぞれの場所で、それぞれの動き方で、最後まで動いていた。直樹自身も同じだ、と思っていた。


---


 五十七歳の秋、直樹は体に変化を感じ始めていた。


 指が以前ほど動かなかった。朝起きたとき、関節がこわばっていた。長時間弾いた後、手首が重かった。医者に行った。「加齢です。無理しなければ大丈夫です」と言われた。「無理しないとは」と直樹は聞いた。「毎日長時間弾くのを少し減らすといいと思います」と医者は言った。直樹は「わかりました」と言って、スタジオの時間を少し短くした。それ以外は変えなかった。


 音が変わっていた気がした。若いときのような動きではなくなっていた。ただ、弾き続けてきた時間が音に入っている気がした。スタジオで弾くとき、それは悪くない変化だと思った。若いときには出せなかった音が出るようになっていた。その代わり、若いときに出ていた音は出なくなっていた。どちらがいいか、ということではなかった。時間が音に出る、ということだった。


 第二転生の幕末で、師が年老いた姿を見た夜のことを思い出した。老いた師が「年を取るということは、歳を積むということだ」と言った。積むものは増えて、それが重みになる。軽くはないが、なかったものより確かだった。今の直樹の指の音も、同じことだと思った。


---


 ある夜、練習を終えてアパートに帰ったとき、ルキアの声が来た。


「指が痛かったでしょう」


「少し。動くので大丈夫」


「大丈夫、と言う」とルキアは言った。「毎回そう言う」


「そうか」


「そうよ。第一転生でも第二転生でも、どれだけ傷ついても「大丈夫」と言った。今も同じ言い方をする」


 直樹は少し考えた。「そういうものだと思う。動けるうちは動く。止まる理由がない」


「……そうね」とルキアは言った。少し間があった。「ゲージは99.50%のまま」


「わかってる。この転生で〇・五パーセントが来ない可能性も、今は考えている」


「……」


「お前が以前「わからない」と言った。来ない可能性がある、と言った。ここ数年、そのことをたまに考えている」


「後悔してるの?」とルキアは聞いた。


「後悔は違う」と直樹は言った。「ただ、もしこの転生で来なかったとしても、それはそれで十分だったと思えるかどうかを考えている」


「どう思う?」


「十分だったと思う」と直樹は答えた。「弾き続けた。子どもが泣いた。公聴会で弾いた。廃案になった。あの子どもが弦を鳴らして笑った。それだけのことが全部、確かにあった」


「……そうね」とルキアは言った。


---


「ただ、残り〇・五の意味はわかりたかった」と直樹は続けた。


「わかっている、と思うことはないか」とルキアは言った。珍しい問いかけ方だった。


 直樹は少し間を置いた。「ある。ただ、言葉にしていない」


「なぜ」


「言葉にすると、何かが変わる気がして」


 長い沈黙があった。ルキアが何も言わなかった。


「ルキア」


「なに」


「三回の転生を通じて、お前がずっとそこにいた。それは俺にとって大きなことだった」


「……業務よ」とルキアは言った。声がいつもより低かった。


「そうですね」と直樹は言った。「ただ、業務だとしても、いてくれたことは確かだった。それだけ言いたかった」


 長い沈黙があった。ルキアが何も言わなかった。これほど長く沈黙することは珍しかった。


「……そう」とルキアは言った。それだけだった。声の中に何かがあった。いつもの「そう」ではなかった。


「おやすみ」と直樹は言った。


「おやすみなさい」と声が消えた。


 視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。


 指がまだ少し重かった。それでも弾ける。弾ける間は弾く。ルキアがいつもそこにいた。罵声も評価も沈黙も全部あって、それでも「いつも見てる」という言葉は一度も変わらなかった。三回の転生を通じて、ずっとそこにあったものが何か、もうわかっていた。ただ言葉にするのは、もう少し後でいい。


 〇・五パーセントが今の転生で来なかったとしても、来るべきときが来ればいい。前の転生でも、答えはいつも後からついてきた。それだけのことだ、と思いながら目を閉じた。

次話:第50話「99.5%で、眠った」

第三転生の最後の夜がやってきます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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