第5話「俺、魔力ゼロらしい」
お読みいただきありがとうございます。農民の三男「ナオ」として転生した最初の記憶。六歳の魔力検査が近づいていました。魔力がすべてを決めるこの世界での、最初の試練です。
最初の記憶は、天井だった。
板張りの天井。木の節目が見える。光が差し込んでいる方向から、窓があるのはわかった。においがある。土と藁と、何か動物に近い匂い。知らない空間だった。ただ、怖いとは感じなかった。
体が動かなかった。
動かないというより、動かし方がわからなかった。手を上げようとする。指令は出ている。でも腕がついてこない。脳と肉体の間に、分厚い壁があった。もどかしいというより、単純に不思議だった。自分が中倉直人だという自覚はある。三十五年分の記憶もある。でも今の体は、その記憶を持っていない。体の側が「まだ知らない」状態だった。問題の所在はわかった。体が学習するまで待てばいい。それだけのことだった。
声が出た。
泣こうと思ったわけではなかった。ただ、声が出た。それが泣き声だと気づいたのは、女の顔が視界に入ってきてからだ。若い女だった。ナオを見て、目を細めた。安堵しているような顔だった。これが母親か、と思った。
ルキアが言っていた通りだ、とも思った。記憶はある。でも体が動かない。赤ん坊の視界は、端がぼんやりしている。焦点が合う範囲が狭い。光量の変化に目が慣れていない。それが徐々に改善されていく過程を、ナオは意識しながら観察していた。どうしようもないので観察するしかなかった。
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言葉を覚えるのは想定より早かった。
前の人生の記憶があるぶん、音と意味の対応がつかみやすかった。この世界の言語は日本語ではなかったが、語感が似ていた。完全に異なるものではなく、どこか根が近い言語のようだった。一年も経たないうちに、単語が耳で拾えるようになった。話せるようになったのは二歳ごろで、周囲は「頭のいい子だ」と言っていた。別に頭がいいのではなく、前の人生の記憶があるだけだった。それは言えなかった。
歩けるようになるまでは、もう少しかかった。頭では手順がわかっていた。重心の移動、踏ん張る角度。でも体がついてこなかった。何度も倒れた。感覚として、これは筋力の問題ではなく、脳と筋肉の連携が取れていない問題だと理解できた。怒っても仕方がなかった。馴染むのを待つしかなかった。
三歳になるころには、ほぼ問題なく動けるようになっていた。
視界の右上を確認した。0.00%。転生してもゲージは消えていなかった。この世界でも、変わらず常駐している。ルキアの板と何かでつながっているのだろう。どこにいても逃げられない仕組みらしかった。
赤ん坊として泣いたり笑ったりしながら、頭の中では割と冷静に状況整理をしていた。魔力という概念がある世界に農民の三男として転生した。体の感覚は徐々に戻ってきている。記憶はある。言語は習得中。問題は、この世界でどう動けばゲージが上がるのか、まったく見当がつかないことだった。ルキアも「あなた次第」としか言わなかった。ヒントなしの環境だった。
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家族は五人だった。父、母、兄二人、そして自分。
ナオという名前だった。農民の三男だった。ルキアの言っていた通りだった。家は小さかった。畑があった。鶏がいた。豊かではないが、飢えるほどでもなかった。兄たちは真面目に農作業をしていた。父は口数が少なく、日焼けした顔に深い皺がある男で、朝が早かった。母はよく動く人で、朝から晩まで常に何かをしていた。
前の世界の家族とは異なる。前の世界では一人暮らしを長く続けていたから、家族と呼べる距離感の人間が、実の親以外にいなかった。ここには毎日誰かがいる。夕食を囲む。声が聞こえる。それ自体は悪くなかった。むしろ前の世界の部屋の静けさより、ずっと何かが満ちている感じがした。
この世界に「魔力」という概念がある、とわかったのは早い段階だった。人によって持ち前の魔力量が異なり、それが社会的な立場に直結していた。騎士も商人も官僚も、魔力の多い者が優遇される。農民は一般に魔力が低い。それ自体は別に珍しいことではないらしかった。どのくらい低いかで扱われ方が変わるとも聞いた。
ナオの魔力量が計測不能、つまりゼロだという話は、六歳の検査まで待たなければわからなかった。
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検査は村の集会所で行われた。街から来た術師が、一人ずつ専用の石板に手を当てさせる。石板が光れば魔力あり、光らなければなし。単純な仕組みだった。同年代の子どもたちが列に並び、次々と手を当てていく。ほとんどの子は薄く、あるいは弱く光った。数値が高い子は周囲から声が上がった。
兄たちは二人とも薄く光った。農民としては平均的な数値らしかった。
ナオが手を当てると、石板は光らなかった。
術師は眉をひそめた。もう一度やらせた。また光らない。三回目も同じだった。術師は首を傾けたまま、何かを帳面に書いた。
「計測不能。ゼロです」
それだけ言って、次の子を呼んだ。
その隣にいた男の子が、小声で言った。「ゼロだって。ゴミだ」。はっきりと聞こえた。術師は注意しなかった。列の前の方にいた母親が少し顔を伏せたのも見えた。
そういう世界か、とナオは思った。怒る気持ちは薄かった。前の世界でも、似たような構図はあった。「AIにできないことしかできない人間」と見なされるような感覚は経験している。形が違うだけで、構造は似ていた。問題は、その烙印が今後どう機能するかを把握することだった。今できないことより、今できることを確かめる方が先だった。
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夕食の後、囲炉裏の前で兄たちと話した。
「ゼロだって」と次兄が言った。「本当にゼロ。先生が首を傾けてた」
「ゼロでも農業はできるよ」と長兄が言った。「俺たちの仕事には魔力はいらないから」
「そうだよな」
ナオは答えた。ゼロかどうかはどうでもよかった。魔力がないから弱い、という話は聞いたことがあったが、それが何をどう制限するかは、やってみなければわからない。兄たちは心配しているようだったが、ナオには今は焦りがなかった。問題の全容がわかってから対処すればいい。そういう判断だった。
母は何も言わなかった。ただ、少し多めに飯をよそってくれた。
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村には、年に数回、街から人が来た。
商人、旅人、たまに騎士の一団。ナオは彼らを遠くから観察した。動き方、立ち方、視線の向け方。前の人生での癖が、この体でも残っていた。情報を集めて、パターンを読む。
騎士たちを見ていると、ふと思った。
彼らの動きには無駄がない。魔力を前提とした戦い方なのだろうが、それとは別に、体の使い方そのものに型がある。重心の置き方、踏み込む角度、目線の動き。ナオにはそれが見えた。前の世界で分析の仕事をしていた名残か、パターンを読む目だけは残っていた。
翌日から、一人で試した。
村外れの空き地に行って、騎士の動きを頭の中で再現しながら体を動かした。当然うまくいかなかった。体が記憶していないからだ。ただ、どこがうまくいかないかはわかった。脚の踏ん張りが足りない、腕が遅れる、目線が固定されすぎている。問題を把握すれば対処できる。前の世界でも、課題を分解して整理するのは得意だった。
それを毎日続けた。誰かに言われたわけではなかった。やれと命令されたわけでも、やらなければいけない理由があったわけでもなかった。
ただやりたかった。それだけだった。
その感覚は久しぶりだった。前の世界で最後に「やりたい」と思ったのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。ただ今、確かにそう思っていた。それだけのことが、ひどく久しぶりだった。
視界の右上を見た。0.00%。変わっていない。
まあ、そうか。「やりたい」だけではまだ動かないらしい。実感が伴っていない、ということだろう。まだ頭でやっているだけで、体が動いているだけだ。ルキアの言っていた「深く実感した瞬間」には程遠い。
でも何かが変わり始めている気がした。その感覚だけは、悪くなかった。
次話:第6話「生まれ変わっても、世界は理不尽だった」
十年後、十六歳のナオの日常と、村の外から何かが近づいてくる話です。




