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第47話「俺には、残るものがある」

お読みいただきありがとうございます。廃案から一年が経ちました。あの子どもが昼間のライブハウスで弦を鳴らし始め、直樹は取材を受けます。橋の上で、「残るものが何もない」と思っていた前の転生と今を比べる夜の話です。

廃案から一年が経った。


 その間に何があったか、と問われれば、大したことはなかった、と直樹は思う。ライブを続けた。スタジオで練習した。三田と時々会って話した。河合のライブハウスは変わらずにあった。長谷が新しい小説を書き始めたと言っていた。弁護士の女性から年に一度、法案の動向について連絡が来た。再上程の動きはまだなかった。それだけのことが続いた。


 その間に、あの子どもが少し変わった。


 月に一度のライブに来なくなった代わりに、週に一度の昼間、河合のライブハウスに立ち寄るようになっていた。小さなギターを持ってくるようになっていた。親が買ったらしかった。コードはまだ押さえられなかった。ただ弦を鳴らすことと、音の違いを感じることはできていた。直樹は特別なことは教えなかった。隣に座って、一本ずつ弦を弾いてみせた。子どもが真似した。うまくいかなかった。また弾いてみせた。子どもが少しだけ近い音を出した。それだけのことを繰り返した。


---


 ある昼間、子どもが「なんでギターが好きなの」と聞いた。


 直樹は少し考えた。「好き、というより、弾くしかないと思っている」と答えた。


「弾くしかないって何」


「弾かなくなったら、俺じゃなくなる気がするから」


 子どもがしばらく直樹を見た。意味がわかったかどうかはわからなかった。子どもが「俺も弾かなくなったら俺じゃなくなる?」と聞いた。


「まだわからない」と直樹は言った。「でも弾き続けていたら、いつかわかるようになる」


「じゃあ続ける」と子どもは言った。


 それだけだった。子どもはまた弦を押さえた。指がまだ短くて、コードが鳴りきらなかった。それでも止まらなかった。


 その日の練習の終わりに、子どもが「直樹さんはいつから弾いてるの」と聞いた。


「この転生では五年前から」と直樹は言った。


「この転生って何」


「独り言だ、忘れてくれ。五年前から弾いている」


「じゃあ俺も五年したらうまくなる?」


「なる」と直樹は言った。「五年後に、また聞いてみてくれ」


 子どもが「わかった」と言って、ギターケースを閉じた。


---


 その夜、アパートで三田から連絡が来た。


 「お前のことを、音楽雑誌から取材したいという依頼が来た。公聴会のことを含めて話してほしいらしい。受けるか」


 「受けます」と直樹は返した。「断らなかったな」と三田は言った。「断る理由がなかったです」と直樹は返した。三田から「そうか」という返信が来て、それで話は終わった。


 取材は二週間後だった。雑誌の記者は三十代の女性で、公聴会の映像を最初に見た、と言った。「あの場で演奏したのはなぜですか」と聞いた。「言葉で言えない部分があったから」と直樹は言った。「言葉で言えない部分というのは」「整っていない部分を整ったふりで伝えると、最初から届かないと思っていた。だから弾いた」。記者がメモを取った。「今後も続けるつもりですか」「続けます」「理由は」「弾かなくなったら俺じゃなくなる気がするので」。記者が少し間を置いた。「子どもに同じことを言ったと聞きました」と言った。「子どもに言われたことをそのまま返してしまいました」と直樹は言った。二人で少し笑った。


---


 取材の帰り道、直樹は橋の上で少し足を止めた。


 前の転生のことを考えていた。三十五歳でコンサルタントをやめて部屋に閉じこもった男のことを考えていた。「残るものが何もない」と思っていた男のことを。飲み会を断り続けた。感情的な相談を切り捨てた。目的のない時間が苦手で、人間関係が面倒だった。それがゼロ地点だった。


 今の自分には何があるか、と考えた。


 河合のライブハウスがある。三田がいる。長谷がいる。あの弁護士の女性がいる。毎週来るあの子どもがいる。子どもが弦を鳴らしている音がある。公聴会の議事録に残った一曲がある。前の転生の仲間の顔がある。幕末の師の声がある。カールの、言葉なしに繋がった顔がある。


 全部、残っていた。前の転生では「残るものが何もない」と思っていた男が、今は何かを持っていた。


 目的のない時間が、今は苦手ではなかった。橋の上に立って川を見ているだけの時間が、無駄だとは思わなかった。前世の自分がそれを切り捨てたのは、意味がないからではなく、意味を見つけることを諦めていたからだ、とようやくわかっていた。子どもが昼間ライブハウスに来て弦を鳴らす。それは「目的」のある時間ではない。でも本物の時間だった。


 川の水面に夕方の光が映っていた。幕末の転生でも川の水面を見た夜があった。師とカールが逃げ切った後、倒れる前に川が見えた気がした。その川も同じように光を映していた。場所も時代も違う川が、似たように光っていた。そういうことが繋がっていく。三回の転生の記憶が全部、今の自分の中にあった。


---


 その夜、脳内でルキアの声が来た。


「今日、取材があったわね」


「ああ。話しながら前の転生のことを思い出した」


「どんなことを」


「最初の転生のゼロ地点のことを。俺には残るものが何もない、と思っていたことを」


 少し間があった。


「今は」とルキアは聞いた。


「今は違う。残るものがある」


「……そうね」とルキアは言った。少し間を置いてから「あの子に、弾かなくなったら俺じゃなくなると言ったらしいわね」と言った。


「なんで知ってるんだ」


「いつも見てると言ったでしょう」


 直樹は少し笑った。「そうだな。聞かれたから答えた。そうしたら子どもが「じゃあ続ける」と言った」


「……あっさりしてるわね」


「子どもはあっさりしていた。俺が悩んだことが、子どもには五秒で終わった」


「それがいい」とルキアは言った。「悩まなくていいことに悩まなくていい」


「それは俺のことか」


「昔のあなたのことよ」とルキアは言った。


 直樹は少し考えた。「昔の俺は悩んでいたのか。悩む、というより、動けなかった気がする」


「そうね。悩んでいたわけじゃない。ただ何かを待っていた。意味が外からやってくるのを待っていた」


「今は」


「今のあなたは動いている」とルキアは言った。「弾いている。だから意味が来る」


「そういうものか」


「そういうものよ」とルキアは言った。少し間を置いてから「あなた、笑ったわね」と言った。


「珍しいか」


「珍しくはない。でも……嬉しい、と思った」とルキアは言った。言ってから少し間があった。「業務として記録した、ということよ」


「今のはどういう意味だ」


「そのままの意味よ」とルキアは言った。声の温度が少し違った。最初に言ったときと同じ言葉のはずが、同じには聞こえなかった。


 直樹はそれ以上聞かなかった。ルキアが「業務として」と言うときは、そうではない何かがある、とわかるようになっていた。三回の転生を通じて、そのくらいのことはわかっていた。


「ゲージは動いていないか」と直樹は聞いた。


「動いていない」


「〇・五パーセントは、まだ何かわからない」


「そうね」とルキアは言った。「ただ今日は、よかった」


「何が」


「残るものがある、という言葉が」とルキアは言った。「……それだけよ」


 声が消えた。


 視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。


 橋の上で川を見た時間を思い出した。何もない時間が、悪くなかった。残るものがある、と口にしたとき、それが本当だと感じた。前の最初の転生では持てなかったものを、今は持っている。ルキアが「嬉しい」と言いかけて「業務」と言い直した声が、まだ少し残っていた。それもまた、確かにそこにあるものの一つだった。


次話:第48話「ルキアに、一つだけ聞いた」

「自分の話だけじゃない」というルキアの言葉を、直樹が直接確かめます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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