第46話「また、あの子どもが来た」
お読みいただきありがとうございます。廃案から二ヶ月。月に一度のライブに、またあの母子が来ました。子どもが「もう一回」と声を上げて、会場がやわらかく笑った夜の話です。楽屋で初めて、あの子どもの笑う顔を見ました。
廃案から二ヶ月が経った。
法案についての報道はほとんどなくなっていた。次の議会での再上程を示唆する記事も出たが、具体的な動きはなかった。直樹の生活は変わらなかった。週に二回スタジオで練習して、月に一回ライブをやって、それを繰り返した。
客数は三十人台で安定していた。公聴会の映像の影響が続いていて、「映像を見た」と言って来る客がまだいた。先月は若い男が楽屋に来て「あの映像を見てからギターを始めた」と言った。三ヶ月経った、とも言った。直樹は「続けてください」と言った。それだけだった。続けることが先で、それ以上のことは後からついてくる。それは自分でわかっていた。
その日の午前中、スタジオに二時間入った。
最初の一時間は指慣らしだった。同じコードを繰り返した。特別なことはしなかった。ただ弦を押さえて音を出す、ということを黙ってやった。以前は練習の目的が明確にないと落ち着かなかった。今はそれがなくても弾けるようになっていた。弾くことそのものが目的になっていた。
後半の一時間で四曲目を何度か弾いた。二番の入りで毎回指が遅れた。今日も同じだった。直そうとは思わなかった。この部分が音として残るのは、続けてきた時間の一部だと思っていた。
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ライブ前、スタジオから直接ライブハウスへ向かった。河合がカウンターで電球を替えていた。「準備できてるか」と河合は言った。「できています」と直樹は答えた。「今日も三十人は来るだろう」と河合は言った。「そうだといいですね」「そうに決まってる。お前は弾くだけでいい」。河合はそれだけ言って、電球を嵌めた。
開場直前、客席を確認した。
あの母子が来ていた。
子どもは前回より少し背が伸びていた。五歳か、六歳になっているかもしれなかった。母親がいつもの席に座り、子どもが隣に腰かけた。子どもが客席の中を見まわして、ステージを見た。直樹と目が合った。子どもは逸らさなかった。直樹も逸らさなかった。
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ライブが始まった。一曲目から順番に弾いた。
三曲目が終わり、四曲目に差し掛かったとき、直樹は前の方を見た。子どもが少し身を乗り出していた。この曲が始まると毎回姿勢が変わる。直樹はそれを見ながら弾いた。二番の入りで指が一瞬遅れた。音が濁った。止まらなかった。廃案になっても公聴会の日も、この場所でいつも同じように滑った。直そうと思ったことはなかった。この音がこの曲の一部になっていた。
曲が終わって次の曲に移ろうとしたとき、前の方から声がした。
「もう一回」
子どもだった。
客席が少し動いた。母親が「しっかり」と小声で言った。子どもが少し下を向いた。まわりから笑いが起きた。やわらかい笑いだった。誰も嫌な顔をしていなかった。
直樹はしばらく間を置いた。「じゃあ、最後にもう一回弾く」と言った。
残りの曲を順番に弾いた。最後の曲が終わった後、もう一度四曲目を弾いた。子どもが正面を向いて聴いていた。今日は泣かなかった。ただ聴いた。曲が終わったとき、子どもが両手で何度も叩いた。まわりより長く続いた。
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ライブが終わってから楽屋で片づけをしていると、母親が子どもを連れて入ってきた。
「さっきは失礼しました」と母親は言った。
「いいえ。もう一回弾けてよかったです」と直樹は言った。「毎回来てくれているんですね」
「この子が来たがって」と母親は言った。「今日も朝から「ライブの日だ」って言っていたので」
直樹は子どもを見た。子どもがギターを見ていた。直樹の手元のギターを、じっと見ていた。
「触ってみるか」と直樹は聞いた。子どもは母親を見た。母親が頷いた。
直樹はギターを持って近づいた。子どもの手に渡そうとしたが、重くて持てなかった。よろけた。直樹がギターを支えながら一緒に持った。子どもが弦を一本弾いた。高い音が出た。子どもが少し驚いた顔をした。
「こういう音が出るんだ」と子どもが言った。
「そうだよ」と直樹は言った。「押さえる場所を変えると、音が変わる」
子どもが別の弦を弾いた。低い音が出た。子どもが笑った。
初めてその表情を見た。泣く顔ではなく、笑う顔だった。小さな笑い声がした。今まであの子どもといる場面で聞いたことのない音だった。
「弾いてみたかったか」と直樹は聞いた。
「うん。弾けるようになりたい」と子どもは言った。
「いつかなれる」と直樹は言った。
母親が「お礼を言いなさい」と言った。子どもが「ありがとう」と言った。帰り際に母親が「また来ていいですか」と聞いた。「ぜひ来てください」と直樹は言った。「お子さんがギターを弾きたいなら、昼間に場所を用意できるかもしれません。河合さんに聞いてみます」と直樹は言った。母親が少し驚いた顔をした。「そんなことしてもらえるんですか」「できるかどうか確認してから連絡します」。
二人が出ていってから、楽屋に一人になった。カウンターへ戻ると、河合が「来てたな、あの母子が」と言った。
「来ていました。子どもがギターに触りたがっていた。昼間、練習できる場所として使えないか聞きたいんですが」
「いいよ」と河合はすぐに言った。「昼間は空いてる。場所だけ貸す。毎週じゃなくてもいい」
「ありがとうございます」
「子どもがギターを始めたいと言うなら、場所くらい作れる」と河合は言った。「ああいう顔が客席にいると、場の空気が変わるな。俺は好きだよ、そういうライブが」
「そうですね」と直樹は言った。
「今夜もよかった」と河合は言った。いつもより少し素直な言い方だった。直樹は頷いた。
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アパートに帰ってから、脳内でルキアの声が来た。
「あの子、笑ったわね」
「笑いました。初めて笑う顔を見た」
「泣く顔だけじゃなかった」
「そうです。今日は泣かなかった。弦を鳴らして、笑った」
少し間があった。
「ゲージは動かなかった」と直樹は言った。
「動かなかったわね」とルキアは言った。少し間を置いて「ただ今夜はよかった」と言った。
「何が」
「あの子が弦を鳴らした音が、本物だった」
直樹は少し考えた。「そうだな。高い一音だが本物だった。あの子が来月から昼間に練習しに来るかもしれない」
「そうなの」
「河合さんが場所を貸すと言ってくれた。特別なことはしない。隣に座って、一緒に弦を鳴らすだけだ」
「……それがいい」とルキアは言った。「あなた、いつからそういうことが自然にできるようになったの」
「いつからか、わからない」と直樹は言った。「ただ、第一転生のときは目的のない時間が苦手だった。今は苦手じゃない」
「……そうね」とルキアは言った。「それは変わった」
「〇・五パーセントも、その先にあるか」
「それは言えない」とルキアは言った。「ただ、今夜はよかった。それだけ」
少し間があった。ルキアが何か言いかけて、止めた気がした。直樹は待った。何も来なかった。
「今夜はゆっくり寝なさい」と声が消えた。
視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。
子どもが笑った顔が残っていた。泣く顔から笑う顔へ。ゲージは動かなかった。ただ今夜の一音は確かにあった。来月、あの子どもが昼間に来る。また弦を鳴らす。こういうことが続いていく。〇・五パーセントがいつ来るかはわからなかった。ただ、来るときが来れば来る。それだけのことだ、と思いながら目を閉じた。
次話:第47話「俺には、残るものがある」
廃案から一年。直樹は橋の上で、前の最初の転生と今を比べます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




