第45話「〇・五パーセントが、残っている」
お読みいただきありがとうございます。廃案から三週間が経ちました。ゲージは99.50%のまま動かない。残り〇・五パーセントが何かを、直樹はまだわかっていません。ルキアが「自分の話だけじゃない」と言いました。それだけ言って、止まりました。
廃案から三週間が経った。
法案についての報道は少なくなっていた。次の議会で再上程される可能性があるという記事もあったが、今のところ具体的な動きはなかった。直樹にできることも、当面はなかった。弾く、ということだけが残っていた。
三田が「しばらく普通に弾けばいい」と言った。「法案の件が終わったら、また同じだ。ライブをやって、客を呼んで、続ける。それだけだ」。直樹は「そうですね」と返した。正しいと思った。法案が廃案になったことで、何かが劇的に変わったわけではない。明日も同じ場所で弾く。それだけのことだった。
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週に二回、スタジオで練習した。
月一回のライブを続けた。客数が安定してきた。三十人台になることが増えた。公聴会の映像がSNSで広まった影響が、しばらく続いた。初めて来る客の中に「映像を見た」と言う人間が何人かいた。直樹は「来てくれてありがとうございます」と言った。それだけだった。来た理由がなんであれ、来てくれたなら弾く。それは河合が言っていた通りだった。
あの母子が来るときもあった。子どもが来るたびに、直樹は四曲目をセットリストに入れた。あの曲がなければ何かが足りない気がした。子どもはまだ泣かなかった。ただ毎回まっすぐこちらを見た。それだけで十分だと思っていた。いつかまた泣くかもしれないし、もう泣かないかもしれない。どちらになるかはわからなかった。
河合が「あの子、また来てたな」と言った夜があった。「ああいう顔をして聴いてる客がいると、こっちも続けたくなる」と河合は言った。「親御さんも来てるから、親子で来る客がいつか増えるかもしれない」「そうだといいですね」と直樹は言った。河合が「そうだな」と言って、カウンターを磨き始めた。
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ある夜、長谷と飲んだ。
居酒屋の隅のテーブルで、長谷がビールを飲みながら「廃案になってから、どうだ」と聞いた。
「普通に弾いています」と直樹は言った。
「そうか。俺も普通に書いている。法案が終わったからといって書くことがなくなるわけじゃない」
「そうですね」
「ただ」と長谷は言った。グラスを置いた。「お前が公聴会に出たのは、よかったと思う。俺にはできないことだった。書くことはできるが、あの場所に立って弾くことは俺にはできない」
「長谷さんが意見書を書いてくれたから、弁護士さんが動きやすかったと聞きました」
「そうか。まあ、それぞれができることをやった、ということだな」と長谷は言った。「それだけのことだ」
しばらく二人とも黙った。長谷が「ゲージとやらは、どうなんだ」と聞いた。
「99.5%で止まっています」と直樹は言った。
「残り〇・五か。何が足りないかわかるか」
「まだわかりません」
長谷が「そうか」と言って、また飲んだ。「わからなくても弾き続けていればいつかわかるだろう。そういうものじゃないか」
「そういうものだと思います」と直樹は言った。
「俺も、何を書いたらいいかわからないまま書き続けていたら、書くべきものが向こうから来ることがある。たぶん同じだ」
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アパートに帰ってから、脳内で声が来た。
「最近、何か考えてる?」
ルキアだった。
「〇・五パーセントのことを考えています」
「また?」
「ずっとです」
少し間があった。
「何が足りないと思う?」とルキアは聞いた。珍しかった。ルキアから先に問いかけてくることは少ない。
「わかりません。今の生活に不満はない。ライブは続けている。法案の件も終わった。ただ、何か一つ欠けているものがある気がする。それが何かわからない」
「……そう」とルキアは言った。答えを言わなかった。
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直樹は少し考えた。
前の転生でゲージが動いた瞬間を順番に思い出した。廃坑でカインが笑ったとき。王都で仲間の顔を見たとき。カールに何かを伝えきったとき。師に「なぜ残った」と問われた夜。今の転生で子どもが泣いたとき。公聴会で弾いたとき。
全部、誰かの顔があった。誰かに向かって何かをした瞬間だった。自分のためだけに動いたのではなかった。だとすれば、〇・五パーセントも、また誰かの顔と関係があるのかもしれない。ただ、その誰かが誰かは、わからなかった。
「ルキア」
「なに」
「今まで、ゲージが動くときはいつも誰かの顔があった」
「そうね」
「〇・五パーセントも、誰かの顔が関係しているか」
長い間があった。
「……それは言えない」とルキアは言った。「ただ」
「ただ、何だ」
「自分の話だけじゃない、とだけ言っておく」
「どういう意味だ」
「そのままよ」とルキアは言った。「それ以上は言わない」
「……わかった。聞かない」
「あなた、最近それがうまくなったわね」
「何が」
「聞かないでいること」とルキアは言った。少し間があった。「前の転生のあなたは、もっと詰めてきた」
「歳を取ったんでしょう。三回目だから」
ルキアが何か言おうとして、止めた気がした。
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声が消えた。
自分の話だけじゃない。
前の転生では、誰かのために動いた。今の転生も、子どものために弾いた。公聴会では、法案に反対するためではなく、あの子どもが泣いた事実を話すために立った。それとは違う、自分だけの話ではない何かが、まだある。
どこにそれがあるのかは、まだわからなかった。ただ、わからないまま弾き続ける。前の転生でも、答えはいつも後からついてきた。
視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。
ルキアが何かを言いかけて止めた、と感じる場面が最近増えていた。何かが近づいているのかもしれなかった。近づいていないのかもしれなかった。ただ、ルキアが何かを隠していることは確かだった。隠しているというより、言えない何かがある、というのが正確だった。言えないことには理由がある。その理由が何かは、直樹にはわからなかった。
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眠る前に、直樹はしばらく天井を見ていた。
ルキアが「自分の話だけじゃない」と言った意味を考えた。考えても答えは出なかった。ただ、その言葉が頭の中に残っていた。前の転生でも、ルキアが何かを言いかけて止まる場面があった。「なぜ俺を個人担当したのか」と聞いたとき、「業務よ」と言って話を変えた。あのときも、答えが半分だった。
ルキアが言えないことと、言わないことの区別が、直樹にはまだついていなかった。
「自分の話だけじゃない」という言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。誰かの話が入っている、ということだ。自分以外の誰かの顔が、その〇・五パーセントに関係している。その誰かが誰かは、わかっていなかった。ただ、いつかわかる、という感じはあった。前の転生でも、大事なことはいつも後から気づいた。今回も同じだろう、と思った。
壁のギターを見た。次のライブは二週間後だった。その日も弾く。それは決まっていた。〇・五パーセントの答えは、来るときが来れば来る。
目を閉じた。
暗闇の中で、前の転生の場面がいくつか浮かんだ。カインが笑った顔。師が目を覚ました朝の顔。カールが三日目に「繋がった」と気づいたときの顔。あの子どもが泣いた顔。誰かの顔と一緒にゲージが動いてきた。次に動くとき、そこにはまた誰かの顔があるはずだった。
誰の顔かは、まだわからなかった。ただ、それでいいと思った。
次話:第46話「また、あの子どもが来た」
弾き続ける中で、何かが近づいてきます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




