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第44話「廃案になった夜」

お読みいただきありがとうございます。採決の日の朝も、直樹はスタジオを借りて弾いていました。午後、速報が出ます。「人間創作規制法案、本会議で否決」。賛成百十二票、反対百三十七票——二十五票差の夜の話です。

採決の日は火曜日だった。


 午前中、直樹はスタジオを借りて弾いていた。今日が採決だということは知っていた。結果がわかるのは午後になるはずだった。スタジオの壁は薄く、外の音が少し聞こえた。自動運転の車が通る音、遠くで人が話す声。直樹はそれを聞きながら弾いた。四曲目を弾いた。二番の入りで指が遅れた。止まらなかった。弾き直しもしなかった。あの音のままでいい、という気がしていた。


 三時間弾いて、スタジオを出た。今日がどうなっても、明日も弾く。それだけのことだった。


 スタジオの外の通りを歩きながら、脳内でルキアの声が来ないかと思った。来なかった。ルキアが声を出すタイミングは、いつも直樹には予測できなかった。来るときはいきなり来て、来ないときはずっと来ない。今日の午後は来ないのかもしれなかった。それはそれでいいと思った。採決の結果が出た後、どこかで声が来るだろう、という気はしていた。来なければそれでもいい。ルキアはどちらにしても見ている。それだけは確かだった。


---


 昼過ぎに一度アパートに戻った。


 壁のパネルに速報が出ていた。「人間創作規制法案、本会議で否決」。


 直樹はその文字を読んだ。読んでから、もう一度読んだ。


 賛成百十二票、反対百三十七票、棄権十一票。反対多数で否決された、と書いてあった。


 しばらく、その数字を見ていた。


 百三十七対百十二。二十五票の差だった。票が動いた経緯については、まだ詳しい報道が出ていなかった。ただ、公聴会の後に反対意見書を提出した議員がいたことは知っていた。弁護士の女性が「引用が二件ある」と言っていた。その二件が何票に繋がったかは、わからなかった。全部が自分のせいでも、自分のおかげでもない。ただ、あの場所で弾いた。弾いた事実がどこかで何かの役に立ったかもしれない。


 特別に何かを感じた、ということはなかった。胸の中が静かだった。


---


 グループのメッセージが鳴り始めた。


 長谷から「廃案になった。よかった」。画家の女性から「本当によかった。ありがとう」。若い男から「直樹さんが公聴会に出たのが効いたと思います」。三田から「聞いた。よくやった」。


 弁護士の女性から電話が入った。「否決されました。最終的に二十五票差でした。公聴会以降に態度を変えた議員が何人かいます。あなたの証言が直接どれだけ影響したかは計測できません。ただ、あの日の記録は残りました」


 「ありがとうございました」と直樹は言った。「書類がなければ、公聴会に立てませんでした」


 「お互いさまです」と彼女は言った。「また何かあれば連絡してください」


 電話が切れてから、グループへの返信をした。「廃案になりましたね。ありがとうございました。またライブに来てください」。それだけにした。「よかった」と書こうとして、止めた。「よかった」という言葉が少し大きすぎる気がした。ただ、廃案になった。それだけのことだと思った。


 しばらく、窓の外を見た。晴れていた。平日の昼過ぎの東京に、人が歩いていた。法案が廃案になったことを知らない人間もいるだろうし、知っていても関係ない、という人間もいるだろう。それでいいと思った。直樹にとっては関係のある話だったが、それは自分が弾いている側にいるからだった。弾いていなければ、別の話だった。


---


 夕方、ライブハウスに寄った。


 今日はライブがない日だった。それでも行きたかった。


 河合がカウンターにいた。「知ってるか」と河合は言った。


 「昼に見ました」と直樹は言った。


 「廃案になった」


 「はい」


 河合が少し間を置いた。「喜ばないのか」


 「喜んでいます。ただ、表に出にくいだけだと思います」


 「そうか」と河合は言った。それから少し考えて「まあな」と言った。「劇的なことが起きた感じじゃないもんな。ただ否決された、というだけで」


 「そういうことだと思います」


---


 河合がビールを二本持ってきた。直樹は受け取った。


 「ただな」と河合は言った。「俺はここ数年で一番いい夜だと思ってる」


 「そうですか」


 「劇的じゃなくていい。普通の夜に、ここでライブを続けられる。それだけのことだ」


 直樹はビールを飲んだ。少し間を置いてから「一曲弾いていいですか」と言った。


 「弾け」と河合は言った。「誰も客はいないけど」


 「いいです」と直樹は言った。


 ギターを持ってステージに上がった。客席に椅子が畳まれて重ねられていた。照明は薄かった。河合がカウンターの方を向いたまま、グラスを磨いていた。


 四曲目を弾いた。あの子どもが泣いた曲を弾いた。途中で指が少し滑った。あの夜と同じ場所で滑った。止まらなかった。公聴会でも同じ場所で滑った。三度とも、同じ音が濁った。それでいい、という気がしていた。完璧に直すより、ここで滑ることの方が、この曲らしかった。


 弾き終わったとき、河合が「そうか」と言った。拍手はしなかった。ただ頷いた。


 「続けますよ」と直樹は言った。


 「そうだろ」と河合は言って、また磨き始めた。


---


 アパートに帰ってから、視界の右上を確認した。


 99.50%。変わらない。ゲージは動かなかった。


 脳内で声が来た。


「見てた」とルキアは言った。


「今夜のことか」


「ライブハウスで一人弾いたところも、全部」


「廃案になった」と直樹は言った。


「知ってるわよ」


「ゲージは動かなかった」


「そうね」


「〇・五パーセントは今夜じゃなかった」


「……今夜じゃなかった」とルキアは言った。少し間があった。「ただ今夜は、よかった」


「何が」


「あなたが今夜も弾いたことが」


「廃案になって、一人でライブハウスに行って、弾いた。それだけのことだ」


「そのだけのことが、よかった」とルキアは言った。答えを足さなかった。


 少し間があった。


「ルキア」


「なに」


「〇・五パーセントが何かは、まだわからない」


「わかるわよ。いつか」とルキアは言った。「焦らなくていい」


「焦っていない」


「……そうね」とルキアは言った。「今夜はゆっくり寝なさい」


 声が消えた。


---


 直樹は天井を見た。


 廃案になった。公聴会で弾いた日から三週間あまりが経っていた。弁護士の女性が書類を出し続けた。長谷が意見書を書いた。河合がここを守り続けた。自分は弾いた。それぞれが自分の場所で動いた結果が、今夜の二十五票差になった。


 前の転生での幕末の夜を思い出した。師とカールを逃がして、倒れた夜。遠くで新選組が別の戦場にいた。それぞれが自分の場所で散った。今回は誰も散らなかった。それだけ違った。


 河合のライブハウスが続いている。長谷が書き続けている。弁護士の女性が動き続けた。あの子どもが来た。あの子どもの一回の拍手があった。それらが全部、今夜の二十五票差のどこかに入っているのかもしれなかった。どれがどのくらい影響したかは、計算できない。計算できないものが集まって、今夜の結果になった。


 視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。


 〇・五パーセントは今夜動かなかった。廃案になっても動かなかった。河合のライブハウスで一人弾いても動かなかった。ただ、それでいいと思った。今夜はこれで十分だった。残りは、残りのままでいい。


 眠れる気がした。

次話:第45話「〇・五パーセントが、残っている」

廃案になっても、ゲージは動きませんでした。残り〇・五パーセントが何かは、まだわかりません。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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